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『ゲシュタポ・狂気の歴史』ジャック・ドラリュ その1  ――フランス人レジスタンスによる概説


 著者はフランスのレジスタンスであり、厳しい調子で秘密警察の概要を説明する。

 

 ――このとき私は、かれらがまさに、愚昧であると知性あるとを問わず、いずれも個性を欠き、内的な道徳的抑制をもたず、命令に服するや否や、善悪を判断する力ももたない人間であることを知った。

 

 特に、フランスにおける秘密警察活動について詳しく書かれている。

 

  ***

 序章

 第1次大戦のドイツ敗戦後、ワイマル共和国軍は、一部の資本家と提携し、反民主主義、軍国主義反ユダヤ主義を普及させようとした。こうした活動を行う民間組織の中に、エルンスト・レーム大尉がいた。

 1919年、アントン・ドレクスラー率いるドイツ労働者党に、ヒトラーが加盟した。1921年、レームの支援を得てNSDAP国家社会主義ドイツ労働者党)へ発展した。

 

 レームのSA(突撃隊)に対しワイマル共和国軍は支援を行った。

 1923年のミュンヘン一揆失敗後、1年でヒトラーは釈放された。

 

 1932年7月の選挙でNSDAPは第一党となった。1933年1月に、ヒンデンブルク大統領がヒトラーに組閣を命じたときも、英仏はこれが長続きするとは考えなかった。

 

 

 1 ナチズムへの道

 1922年以来ナチ党員だったゲーリンクは無任所相となり、ルドルフ・ディールスから政治警察の教育を受け、警察業務に注力した。

 ゲーリンクはプロイセン警察職員をSA・SS(親衛隊)、党員にすげ替えた。同時に、ヒトラーは条例等により左派の集会を弾圧し、反対派の新聞・雑誌を禁止した。

 秘密警察は共産党らの一斉家宅捜索を行い、敵対者を拷問・殺害した。

 1933年の国会議事堂放火の発生直後に大統領令が発せられ、共産党社会民主党に対する取り締まりが行われた。その後の選挙でも共産党は81議席を獲得したが、議員権を停止されていたため国会に出席できなかった。この日に全権委任法が成立した。

 その後、秘密国家警察(ゲシュタポ、Geheime StaatsPolizei)が活動を開始した。

 

 ゲーリンクは行政官の子であり、気性が荒いため陸軍幼年学校に送られ、やがて戦争がはじまるとパイロットとして勲功をあげた。

 かれは「プール・ル・メリット」勲章を受け、またリヒトホーフェン大隊を指揮した。

 かれは、妻の家族(貴族)からの送金で生活しているとき、ヒトラーに出会った。

 

 ――ベルサイユ条約は、輝ける将校ゲーリンクを、妻の情けで生きる寄生者にしてしまった。かれは心を奪われ、集会が終わると、ヒトラーに奉仕を申し出た。

 

 ゲシュタポプロイセン内相ゲーリンクの直轄となった。

 

 ――全体主義体制に通常見られる党と国家の混同は、ここでもあらゆる分野に急速に浸透していった。

 

 SAとゲシュタポは、各自、強制収容所を運営していたが、ゲーリンクは、敵対関係にあったレームとSAの切り崩し工作にとりかかった。SAは1933年末には450万人に膨張し、40以上の私設収容所を運営していた。

 組織同士の権力争い、組織内部の権力争いは、ナチス・ドイツの特徴であり、これはニュルンベルク裁判まで続いた。

 国会議事堂放火事件に関して逮捕されたブルガリア共産党員ディミトロフは、裁判でゲーリンクを言い負かした。かれは無罪放免された後、ブルガリア首相となった。

 本書は、放火事件がゲーリンクとゲシュタポゲッベルス、SA隊員らによって引き起こされたとする説をとる。

 

 

 2 権力の中枢・ゲシュタポ

 1934年以降、ゲーリンクは空軍省の運営に専念し、警察部門はヒムラーが主に担当するようになった。ヒムラーは各州の警察指導者を兼務し、代理としてSD(親衛隊情報部)部長ラインハルト・ハイドリヒをあてた。

 ミュンヘン出身のヒムラーは、第1次大戦敗戦後、友人ホルスト・ベッセルとともに政治活動に参加し、やがてヒトラーのセカンドマンとなった。いわく、ヒムラーは「卑屈な奴隷根性」を持っていた。

 SSは元々SAの内部にあったが、1929年にヒムラーが指揮官となってからは、選抜と拡大を続けた。1934年には、ドイツの全収容所を管理する権限を手に入れ、警備専門の「SS髑髏部隊」を創設した。

 SSは学校教育などを活用しエリート洗脳集団を育成した。また、社会の隅々にまで密告者を張り巡らせた。

 ハイドリヒはSD長官とゲシュタポ中央機関の長を兼務したため、党と国家双方の警察組織を一体化させた。

 ゲシュタポは、法の枠組みを超えた活動が可能になった……警告、保護拘禁、強制収容所、誘拐、暗殺。

 

 

 3 粛清と暗闘

 1934年6月30日、長いナイフの夜が始まり、レームらSA幹部はクーデタ疑惑により捕らえられた。レームはダッハウ収容所長SS上級集団指導者テオドール・アイケにより射殺された。

 軍はヒトラーがSAをつぶしたことで、ヒトラーが軍に便宜を図ってくれたのだと解釈した。かれらは、ヒトラーを掌握できると考えていた。

 8月、ヒンデンブルクが死亡するとヒトラードイツ国首相と大統領職を統合する法令を出した。ブロンベルク防相はこれを保証した。

 

 SSはSAから独立し、ヒムラーは独自の武装組織である武装SSを創設した。

 SDは規模を拡大し、国内、国外にスパイを要請し、反体制派等の監視を行った。SDの実務的な創設者は、ハイドリヒではなく、SSのメールホルン博士や、ウェルナー・ヴェストである。

 メールホルン博士は組織編制や会計を担うとともに、最新技術を用いた索引表マシンを導入した。

 その他のSDメンバー……アドルフ・アイヒマンワルター・シェレンベルク、アルトゥール・ネーベ、ハインリヒ・ミュラー

 

 1936年、ヒムラーは全ドイツ警察長官となり、SSとゲシュタポは統合された。

・秩序警察(ORPO):クルト・ダリューゲ

保安警察(SIPO)(ゲシュタポ、KRIPO(刑事警察)含む):ハイドリヒ

 

 ゲシュタポの指揮はミュラーが、刑事警察の指揮はネーベが執った。SDは党組織として、国家機関からは独立を保った。

 [つづく]

 

ゲシュタポ・狂気の歴史 (講談社学術文庫)

ゲシュタポ・狂気の歴史 (講談社学術文庫)