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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『徴兵制』大江志乃夫 その1 ――徴兵制の歴史をたどる


 日本における徴兵制の歴史を検討する。

 著者は熊本幼年学校卒、陸軍航空士官学校在学中に敗戦を迎えた軍人であるため、日本軍に関する実体験が豊富である。

 

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 徴兵制と、日本の状況について。

 下士官と兵が同数というのは、平時に将校と曹を基幹部隊とし、戦時に兵を大量徴集するドイツ国防軍方式と同様である。

 1980年の時点で、自衛隊では予備役の不足が問題になっている。

 

徴兵制は純軍事的な必要に基づいて導入されるだけでなく、むしろ政治的な術策として実施されることが多い。

 

 徴兵制は、国民を上から統合するための「国民精神総動員」の方策でもある(西ドイツ、第一次世界大戦のイギリス、アメリカの登録徴兵制復活など)。

 本書は徴兵制軍隊の性格、政治的機能、戦争との関係、民衆との関係などを考える。

 

 ◆メモ

・徴兵制による大量動員、大衆軍隊の編成は、本土防衛を超えた「派兵」すなわち外征と深く関係している。

 もともと徴兵軍隊の概念は、各国で形成されていた民兵による国民軍隊、つまり防衛のための軍隊と相反する概念だった。

現代社会に徴兵制が果たして合致するかが問題である。軍事的・政治的に、徴兵制は有益なのか、あるいは有害なのか。

・徴兵制が民主主義を体現するという考え方は根強い。しかし、著者の立場はこれに疑問を呈する。軍隊の政治的傾向をきめるのは将校団であり、徴兵軍隊は将校団に従属する可能性が高い。

・軍隊の編制は、政治目的・軍事目的に適合しているべきである。漠然とした、単純な量的拡大は有害である。

 

 

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 1 傭兵軍隊・国民軍隊・徴兵軍隊

 ルネサンス期に主流であった傭兵は、傭兵隊長が、自分の組織した部隊ごと君主と契約する形式だった。敵も傭兵であるため、お互いに死傷を避け、戦争を長引かせることが多かった。

 続く常備軍は、君主に軍人が忠誠を誓うものの、その内実は外国軍人や「社会の屑」からなっていた。

 小銃の改良、歩兵の機動力向上、野砲の発達とともに、軍隊の形式も変化した。フランス革命とともに誕生した国民軍は、従来の傭兵部隊を一掃した。

 

 イギリス:

 イギリス絶対王政常備軍を持たず、各州長官(ジェントリーからなる)の指揮する民兵に兵力を依存していた。1689年、名誉革命により制定された権利章典により、正規軍・民兵制それぞれの法的根拠がつくられた。

 民兵制は19世紀以降実質的に廃れ、「イギリスは平時の軍隊を、長期勤務の志願兵による職業的軍隊としてのみ維持することになった」。

 

 アメリカ:

 アメリカにおける軍隊の起源は各自治体の義勇兵Volunteerであり、一種の民兵が集合し州兵が成立した。

 独立戦争におけるイギリス軍は傭兵や外国兵、拉致されてきた兵士によって成り立っていた。対するアメリカ軍は散開隊形をとる民兵であり、狩猟で培った狙撃能力に秀でていた。

 民兵の欠点は、契約期間が短く耕作や収穫の時期にすぐ帰ってしまうことだった。

 

民兵はすぐれた戦士であったが、すぐれた将校を生み出すことができなかった。ワシントンは正規軍の創設が必要であると考え、実現に移した。

 

 当時の合衆国憲法常備軍を禁止していたため、連邦政府は、二年ごとの存続更新に基づく合衆国陸軍を創設した。

 

 

 フランス:

 英米を市民軍隊とすれば、フランスは大衆軍隊と呼ぶにふさわしい。

 1790年の公力組織法により18歳以上男子の兵役が義務化された。あわせて民兵は廃止された。しかし革命干渉戦争で敗北を続けたため、1793年、国民皆兵制が施行された。

 その後の1798年の徴兵法が、「戦時正規軍を大衆軍隊として建設・運用するための制度としての近代徴兵制を定めた最初の法律」であるという。

 

 プロイセン

 シャルンホルストグナイゼナウクラウゼヴィッツらによる軍制改革が行われた。

 後備役の充実と国民軍隊編制のため、大量の民兵を養成する「クリュンパー制度」を創出した。

 1813年には一般兵役制度が施行された。

 クラウゼヴィッツジョミニの比較について。

 

クラウゼヴィッツは戦争の哲学を研究し、ジョミニは戦争の技術論を追求した。しかし、両者の本質的な違いは、クラウゼヴィッツが征服者に対する抵抗戦争の組織者であったのに対して、ジョミニはナポレオンのスペイン征服軍の幕僚長としてスペイン民衆のゲリラ戦に苦汁をなめさせられた点にある。

 

 ビスマルク陸相ローン、参謀総長モルトケは、兵役制度を一元化した。それまで兵役は民兵武装の権利に基づいていたが、法改正により兵役は国民の義務となった。

 かれらは、国王に忠実かつ、大衆を動員可能にする軍隊を成立させることに成功した。

 

……それは後備軍という国民軍隊を最終的に解体し、国民の自発性にもとづいた自律的軍事組織という思想に基礎をおいた軍事力の存在を全面的に否定し、全国民を強制徴集制による徴兵制という一元的な兵役義務のもとに編成替えしようとするものであった。徴兵義務を中心とする軍事体制のもとに全国民を組み込む、いわば国家の軍国化案であった。

 

 すべての徴集兵は職業的将校団のコントロール下に組み込まれ、国民軍隊は大衆的職業軍隊に転化した。それは、外征軍隊の成立を意味した。

 新式の後装銃(ドライゼ銃)やクルップ式後装野砲を運用するとともに、動員・集中・作戦の過程を機能化することに成功したモルトケの軍隊は、オーストリアに勝利し、またフランスにも勝利した。

 日本にも影響を与えたモルトケの弟子ゴルツは、その著作において「戦争は国家ビジネスの継続」と唱えた。

 

……若者は無分別で生命を捨てやすく、人生の将来に思いをめぐらすことを知らず、残酷な職務をはたすに適し、その固有性である軽率さは戦場勤務のための貴重なスパイスである……。

 

 ナポレオン3世時代のフランス軍は、兵役制ではあるが免除・代人制があったため、実質職業軍人からなる軍隊だった。

 普仏戦争敗北後、1873年、第三共和政府はプロイセンに対抗して一般兵役制度を開始した。

 

 第1次世界大戦は、日露戦争で萌芽を見た総力戦の始まりだった。イギリスは1916年徴兵制を敷いたが、それは国民の熱望に議員が応じてのことだった。

 アメリカは選抜徴兵制を敷き、初めて外征軍を設置した。当初大陸遠征軍は失敗を続けたため、日本の観戦武官は「米陸軍恐れるに足らず」と喧伝し、後々まで固定観念となった。

 

 第一次世界大戦と戦略論の影響:

 フラーはクラウゼヴィッツ以来の敵殲滅思想を克服し、機甲力(戦車)による敵中数の破壊こそ新しい方策であると唱えた。

 

それは歩兵主体の大衆軍隊無用論、徴兵軍隊無用論であった。

 

 ドイツ国防軍は機甲力と急降下爆撃隊を組み合わせて電撃戦を遂行したが、英ソとの戦争には通用しなかった。

 

 第二次世界大戦と徴兵制:

 歩兵の重要性が再確認され、徴兵制の必要性はさらに高まった。

 冷戦期には、その国の危機やポジションに応じて徴兵制の復活・廃止が行われている。

 

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 2 徴兵令 

 1873年制定された日本の徴兵令について。

 当初明治政府はフランス式陸軍の創設を進めた。江戸幕府が運営していた横浜語学所を継承したためである。

 当初は薩長土の士族からなる近衛と、徴兵制の鎮台との二元構造だった。

 徴兵令は免役制・代人制を大幅に採用していた。

 一般兵役義務とは免役制や代人制を認めないものをいう。

 

兵役義務を農民による事実上の封建的な賦役労働の負担義務に転化させる免役制と、有産階級の兵役義務からの解放として機能する代人制とを廃止しないかぎり、一般兵役義務制は確立しない。

 

 徴兵制の反対者……士族軍隊=国王の常備軍を保持すべきとする士族や、民兵による本土防衛に専念すべきとした山田顕義など。

 徴兵反対一揆……西日本中心。地券交付反対、身分解放反対、徴兵反対をうたい、小学校や被差別部落を襲撃・殺傷した。大規模な一揆では2万人以上が逮捕、10人強が処刑された。

 

 戸籍改ざんや養子縁組による徴兵逃れが多かったが、法改正を通じて代人制が廃止され、徐々に逃げ道は狭まっていった。徴兵よけの祈願が生まれた。

 徴兵軍隊の最初の戦争は1877年の西南戦争だった。

 

徴兵軍隊の勝利は、強力な砲兵火力の支援を受けた歩兵火力の勝利であったが、白兵戦闘においても、組織的な陣形をとった銃剣の勝利であった。

 

 この際、徴兵軍隊から精鋭として集められた近衛兵が、6年から8年の長期服務に加え、戦争に駆り出され、不満を持ち、翌年竹橋騒動をおこした(近衛砲兵の叛乱)。

 

 1878年 参謀本部設置

 1882年 軍人勅諭 天皇の軍隊

 

 山縣有朋大山巌桂太郎、川上操六らを中心に、師団制への転換、外征軍隊化がすすめられた。その過程で、軍の在り方……外征か、専守防衛かで論争が起きた。

 

……攻勢軍隊と防衛軍隊とでは、兵制・軍制の在り方からして根本的にちがう。

国民の自発性に基づかない徴兵軍隊を軍隊として機能させるためには、軍隊でいう「地方」つまり一般社会から隔離し、兵士を「軍紀の鋳型」にはめこんで、「人格なき道具」にしたてあげるしか道がなかった。

 

 1889年 新徴兵令 国民皆兵、富裕層向けの特権(一年志願兵制)

 甲種、丙種の区別は、出身階層による兵役の不公平(強健な農民、高学歴者特有の筋骨薄弱、近視)を生んだ。

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[つづく]