うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

生き物の勉強

 生き物のしくみについて勉強したいと思い、入門的な本をいくつか買いました。

 

 

 ◆過去に読んだ本

 

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『スターリン時代』クリヴィツキー その2 ――亡命・不審死したソ連情報員の暴露本

 4 スターリン、ドル紙幣を偽造する

 スターリンの指示を受けた各国の工作員たちはドル紙幣の偽造に従事した。

 

 5 オゲペウ(OGPU)

 OGPUはジェルジンスキーの設立したチェカの後身である。OGPUはスターリンの手先として粛清を実行したが、長官ヤゴダはスターリンを知りすぎたために自らも粛清された。

 1937年に長官となったエジョフはOGPUをNKVD(内務人民委員部)に改編した。

 エジョフは、前任者ヤゴダとその配下を処刑した。

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 ……それからエジョフは、ヤゴダが1907年にツァーの秘密警察オフラナで働いていたということを、劇的な調子で声明した。そこに会している警察の高官たちは、この告発をまばたきもせずに受け取った。1907年には、ヤゴダは10歳だったのだ!

 

 でっちあげと尋問によって自白を強要し「一世代を犠牲に」した大粛清について。

 著者の知り合いや後輩の多くが、いわれのない罪によって投獄・処刑された。スペイン内戦の担当者だったスルツキーも処刑された。スターリンは、革命前後に活動していた世代を根絶しようとしていた。

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 スターリンは被害妄想に取りつかれていた。

 1935年、内戦と飢餓の影響で大量の浮浪児が発生している、とOGPUが指摘した。スターリンは、反革命罪による死刑の適用を12歳まで拡大した。

 

 

 6 なぜ、かれらは自白したか?

 レーニンジャコバン派の自滅を教訓として、ボリシェヴィキ党員の処刑を禁止した。

 

 1933年頃、スターリンは政策の失敗で多くの反対派を抱えていた。反対派は古参党員を擁して団結するおそれがあった。

 1934年、スターリンの党員処刑適用案に反対したキーロフが何者かに暗殺されると、スターリンは秘密軍事法廷・処刑を実行する特別布告を発した。

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 それは、ボリシェビキ古参親衛隊の公開裁判と秘密裁判の時代、自白の時代を招来した。

 

 

 スターリンの活用した組織

・エジョフの秘密警察

・フリノフスキーのOGPU武装部隊

 

 スターリンはいかにして嘘の「自白」を引き出したのか?

1 肉体的・精神的拷問

2 スターリンの秘密文庫――個人情報の収集・スパイ活動

3 陰謀のでっちあげ

4 家族・身内の命と、他の政敵との命を取引する

 

 秘密警察、党、赤軍の隅々にまでスターリンの個人スパイが浸透していた。

 

 都合の悪いときに、例えば、だれもがスターリンを賞賛しているとき、一瞬でも沈黙することは、不忠実の嫌疑を正当化するに十分だった。

 

 

 レーニンと同僚だったルイコフはスターリンの反対派とされていたため、だれも話しかけず、若い党員から嘲笑された。その後ルイコフは処刑された。

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 拷問例……

・まぶしい光の前で55時間立たされる

・2日間、片足で立たされる

・続いて、ベテラン尋問官による懐柔

 

 尋問官の説得・誘導により、革命と社会主義のためには、自白、犠牲になることが必要なのだ、と信じるようになった。

 

 スターリンは、「党、それは余である」という地位をほしいままにしていた。かれらは、自分たちの生命を党の奉仕に捧げた、そして、スターリンの命令に従う以外に、党に奉仕する道は残されていないと考えた。こうして、かれらは、革命に奉仕しているという幻想をもちこたえたのだった。

 

 

 7 なぜ、スターリンは自分の将軍たちを銃殺したか?

 赤軍大粛清の真相について。

1 陰謀はスターリンが少なくとも6か月前に用意した。

2 スターリンゲシュタポのでっちあげた証拠を採用した。

3 証拠は国外のツァーリスト組織を仲介したが、スターリンは関係したツァーリスト軍人会会長を誘拐した。

 

 赤軍スターリンの敵となった理由は以下のとおりである。

 

1 軍の大部分は農民からなり、農民たちは集団化と飢餓で強い反感を抱いており、ウクライナコーカサス、シベリアでは暴動の危機が生じていた。

2 内戦中に将官たちはスターリン以上の人気を得ていた。

3 赤軍高官らは党から距離を置いており、絶対服従の状態になかった。

 

 スターリンに対する赤軍ゲシュタポの陰謀といわれているものが、実は赤軍の将軍たちにたいするスターリンの陰謀だったということ、そして、自分の将軍たちに「ぬれぎぬを着せる」ために、スターリンが、ゲシュタポによって作成され、ツァーリスト勢力を通じて、オゲペウに供給された「逆情報」を使ったことに、疑問の余地は全くないのだ。

 

 この陰謀工作にかかわったシュピーゲルグラス、スルツキーらOGPU関係者もその後不審死した。

 

 

 8 スターリンとの訣別

 スターリンとエジョフらによる粛清は赤軍、OGPU、末端党員にまで広がりつつあった。

 

 「諸君が、生者の間にとどまりたいならば、互いに告発し合え、互いに密告し合え」

 

 著者クリヴィツキーは、長年の友人イグナス・ライスがスターリンによるファシズムを拒否して組織を離脱し、その報復として射殺されたのをきっかけに、自身もフランス政府の支援を受けて亡命した。


 その後1941年、ワシントンのホテルで不審な拳銃自殺を遂げているのを発見された。

  

 

 

 ◆参考

 

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『スターリン時代』クリヴィツキー その1 ――亡命・不審死したソ連情報員の暴露本

 ◆メモ

 著者のワルター・クリヴィツキーは西ヨーロッパのソヴィエト諜報機関長として勤務したのち亡命し、1941年に不審死した。

 著者はロシア革命当時からボリシェヴィキとして働いてきたが、スターリンの所業――集団餓死、大粛清、スペイン内戦における不正、ヒトラーとの融和――を目の当たりにし亡命し、1937年から暴露を始めた。

 

 ……ヒトラーとは、偽善的に執着していた社会主義的言辞とマルクス主義的訓練の名残の点だけで異なる一人の専制君主に自分が使えていたのだと、わたしは、肝に銘じたのだった。

 

 ……真実こそが第一の武器であり、殺人はその本来の名で呼ばれるべきだと認めるだろうと、考えるのである。

 

 

  ***

 1 スターリンヒトラーを宥和する

 1934年当時、著者は赤軍参謀本部諜報部(GRU)に所属していた。

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 スターリンは一貫して親独派であり、脆弱な民主主義国よりも全体主義国家、そして独裁者に敬意を払った。

 政権掌握後、ヒトラー国防軍赤軍の秘密軍事協力を打ち切っても、スターリンヒトラーへの擦り寄りは変わらなかった。

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 スターリンは、ヒトラーソ連に対し借款をおこなった事実をもって、ドイツが戦争をしかけてくることはあり得ないと豪語した。

 

 1935年9月から、著者は西ヨーロッパの諜報網担当となった。

 

 日独の秘密協定を著者らのスパイ網が事前入手し報告しても、スターリンの媚態は変わらなかった。

 結果、1939年8月の独ソ不可侵条約に至った。ヒトラーの増長は、イギリスとソ連の宥和政策の結果といえる。

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  ***

 2 共産主義インターナショナルの最後

 インターナショナル(コミンテルン)は1919年に設立されたレーニンの遺産であり、ロシア式の暴力革命を伝播させようという目的をもっていた。

 しかし、ソ連に協力したほとんどの外国共産党員・活動家はその後粛清されている。それは、レーニンスターリン等指導者の方針変更に伴い、かれら各国の有力者が邪魔になったからである。ドイツ、ポーランド等。

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 OGPUに務める諜報部員も、兵役のために赤軍で勤務する必要があった。

 

 1923年ドイツにおける共産主義者蜂起は、コミンテルン司令部のジノヴィエフらの稚拙な指揮により失敗した。その責任は、当時のドイツ共産党指導者が負った。

 コミンテルンはドイツ、ポーランドハンガリーエストニアブルガリア等各国でテロ、暗殺、宣伝工作等に励んだが成果は得られなかった。

 

 重要なのは、コミンテルンの真の仕組み、すなわちOGPUと軍事諜報部(GRU)との密接な関係である。

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 コミンテルン参謀本部はOGPU職員が厳重に警備している。また、コミンテルンの実権を持つのはOMS(国際連絡部)であり、人事と財政(非合法資金の送達)を担った。

 各国大使館にはOMS職員が身分を偽って勤務していた。またOMSは旅券の偽造・詐取を任務とした。

 共産党への宣伝活動もOMSの重要任務の1つでらう。

 

 外国人共産党員は、OGPUと軍事諜報部に乗っ取られたコミンテルンの手先として扱われる。しかし、ソ連共産党の脅威になりそうな外国人はソヴィエトに呼ばれ、閑職に追いやられる。

 大粛清時、ホテル・ルクスに滞在していた外国人活動家のほとんどは処刑された。

 

 

  ***

 3 スターリンのスペイン内戦干渉

 スターリンは当初フランコの反乱に沈黙していたが、やがて秘密裡に共和派を支援することを決定した。不干渉主義を貫く英仏にかわってスペインをコントロールし、ドイツとの交渉に利用するためだった。

 スペイン共和国は民主主義者、共和主義者、サンディカリスト社会主義者アナキストらからなり、共産党は少数派だった。

 スターリンは秘密援助と同時に、スペインにOGPU支部(ヤゴダが担当)を設置し、義勇兵や反共産党分子を統制しようと試みた。

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・ヤゴダ(のちエジョフ)を責任者とした各国からの武器密輸

スターリンはカタロニア(バルセロナ)を拠点とする反スターリン派共和派を敵視しており、その他義勇軍、国際旅団をクレムリン支配下に置こうと画策する

・ベルジン将軍率いるロシア軍特派部隊はスペイン人から隔離された

・国際旅団はOGPUとコミンテルンが組織し、有名人のクレベールは義勇兵ではなくGRU所属の軍人だった。

陸相カバリェロ、ソ連共産党員スタシェフスキーによるスペイン共和国財政のコントロール

・OGPUがスペインで粛清を開始し、クレベール将軍や多数の外国人義勇兵が逮捕・処刑された。

 

 

 スペインでのスターリンの役割は、見苦しい結末に近づきつつあった。……かれは神の勇気が欠けていた。かれはスペイン人民の独立に対しては、勇敢に勝負を挑んだが、フランコに対しては弱腰だった。スターリンは殺人の陰謀には成功したが、戦争の遂行には失敗した。

 


 スターリンはやがて戦争から手を引き、スペインの金だけをうまく手に入れた。
 

 [つづく]

 

 

非農民、被差別民、博徒や悪党の歴史

 フィリップ・ポンス『裏社会の日本史』は、歴史の端で扱われていた非農民、被差別民、芸能の民や博徒、悪党などを中心に扱った本である。

 基盤となっているのは周縁民を取り扱う日本史学(網野等)や、明治以降の貧民・下層社会をえがいたジャーナリズム(横山源之助、松原岩五郎ほか)である。

 古代の五色の賤から現代のホームレス、日雇い労働者、暴力団同和問題にいたるまでを一連の歴史として紹介しており面白い。

 

 

裏社会の日本史 (ちくま学芸文庫)

裏社会の日本史 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 中で紹介されている本で、まだ買っていないものがあったので今後読みたい。

 

浅草博徒一代: アウトローが見た日本の闇

浅草博徒一代: アウトローが見た日本の闇

 

 

最暗黒の東京 (講談社学術文庫)

最暗黒の東京 (講談社学術文庫)