メナヘム・ベギンはイギリス統治下のイスラエルでテロリストとして活動したが、そのときの記録である。
現在も続く紛争の原点をうかがい知ることができた。
◆所感と漫談
イギリス占領政府との戦いが細かく記されている。組織の運営や作戦、イギリス側との情報戦などが詳しく書かれている。
イスラエル内部でも、英国との協調を目指すユダヤ機関、ベギンらの武装組織、共産党系の組織等派閥に分かれていたが、うまく独立し政治的な安定を獲得した。民主主義的な政府を設立するという合意は、どのようになされたのだろうか。
ベギンによれば、自らの率いる組織イルグンでは、絶対に同胞を憎悪しない、報復しないという教育を徹底していたという。
イルグンは、活動家ジャボチンスキーが設立した地下組織だが、途中、ハガナー(イスラエル国防軍の前身)やユダヤ機関と対立しながらも、反英闘争や独立戦争に大きな貢献を果たした。
現時点で進行中のハマス・イスラエル戦争においても、ハマスは西側諸国の一部でテロ組織の認定を受けている。
しかし、テロリストや反乱勢力が作った国は非常に多い。
現在の日本や米国、アイルランドも(所謂)テロリストや反乱勢力が成立させたものである。
本書ではイギリス側の敗因の1つに、イスラエル勢力をテロリスト風情とみなす認識から脱却できなかった点が挙げられている。
似たような事例がマクニール『愚行の世界史』にも載っていた。
敵に対する無知や過小評価、そしておごり高ぶりは、失敗の最大の要因である。
イギリスは軍を投入して植民地を制圧しようと考えていた。かれらはアメリカ人を完全にあなどっており、まともな戦力にはならないと過小評価していた。
1
1941年、ベギンはリトアニア領内でシオニズム運動を行っていた罪で、ソ連の秘密警察であるNKVDに捕えられ、8年の強制労働を科された。移送の途中、独ソ戦が始まった。
ソ連は当初、ユダヤ人独立運動を支援したが、やがて革命を妨害する運動として弾圧するようになった。ソ連の秘密警察は、政治犯を外界から孤立させることで自白を促そうとした。
2
ベギンにとってマルクス主義は自身のイデオロギー――個人の自由と幸福――とは相いれない。しかし、ソ連が最初期にユダヤ人を支援し、またイスラエルを最も早く国家承認したのは事実である。
……個人の自由と社会正義の顕現を、どう調和するかである。個人の自由のためには、国家は個人の生活に干渉してはならない。しかし、正義にもとる不平等は、社会、いいかえれば国家による計算された干渉がなければ、是正されない。
社会の病をすべて治す特効薬は、まだ発見されていない。ソ連の人民は、それを探そうとして多大の犠牲を払った。かれらは個人の自由を犠牲にしたのである。
ソ連の体制は、文明のない貧しい生活にも適応できることを人民に教えた。
人間は生命力の旺盛な動物である。半畜生の状態にあっても、生存意志は確固として残っている。……しかし、ちゃんとした食事の味さえ完全に忘れ、ただただ食物のことばかり考える状況をつくりだす必要があるのだろうか。
ベギンが収容されたソ連の収容所には刑事犯と政治犯とがおり、概して刑事犯は、インテリや政治犯を逆恨みしていた。共産党員として働いてきたにもかかわらず粛清により投獄されたユダヤ人たちは、刑事犯たちからユダヤ人差別を受けてがく然となった。
フランスの同化ユダヤ人(フランス社会に同化したユダヤ人)だったテオドール・ヘルツェルは、民衆の「くたばれユダヤ人」という合唱を聞いて、シオニズム運動に参加した。
3
スターリンと亡命ポーランド政権が協定を結んだため、ポーランド人であるベギンは収容所から釈放された。
かれはエレツ・イスラエル(現在のイスラエル)に向かい、以後、独立まで地下組織の構成員として戦った。
4
イギリスはパレスチナを手に入れるために、ユダヤ人の保護を名目に掲げた。実際には、無抵抗の少数民族ユダヤ人と現地のアラブ人が紛争しつつ、イギリスがそれを銃剣で保護するという形態が理想だった。
パレスチナを、イギリスの統制下にあるアラブ国家にするためには、戦争勃発にともなう大量のユダヤ人移民は邪魔だった。このためイギリス政府は、ヨーロッパを逃れてきたユダヤ人難民を次々と追い返した。
イギリスの統制に対する反発を指導したのは、修正シオニズム主義者のジャボチンスキーだった。
ジャボチンスキーは、武装組織イルグン(正式にはエツェル)の初代指導者である。
かれら(イギリス人)は、エレツ・イスラエルでもユダヤ人は保護を嘆願する臆病な人間、と考えていた。……ウラジミール・ジャボチンスキーは、若き世代に抵抗することを教え、自ら命を犠牲にして戦う決意であった。
1944年、地下組織イルグンはイギリス統治政府に対する宣戦布告を行った。
5
イルグンの英政府・警察に対する爆弾テロは、アラブ人を驚嘆させた。
イギリスは、アラブ人たちに対しユダヤ人への攻撃をけしかけていたが、それも機能しなくなった。ユダヤ人は、反英テロによって主導権を握ることができた。
アラブ人の中には反英闘争を支援する者もいた。
解放闘争の主要武器である爆薬は、やがてわれわれがかなりの量を生産できるようになった。しかしそれまでは、英軍から一部拝借し、大部分のTNT火薬はアラブから購入していた。
1947年になるとアラブの正規軍がユダヤ人に攻撃を開始し、ユダヤ人側は各武装組織をイスラエル国防軍に統合した。戦争の際に大きな心理的圧力となったのは、それまでのイルグンらテロ組織の行動である。
イギリスの植民地統治を分析した結果、ベギンは、かれらが実際の武力よりも威信に頼っている事実を発見した。イルグンは英統治政府の威信を削ぐために様々なテロや誘拐、報復等を行い、イギリス官憲もこれを阻止できなかった。
われわれは、敵が道義的に抑制することを期待したり、敵の道義心がそんなに高いとも考えていなかった。
イルグン側には計算があった。
イギリス人は文明的なので、ゲリラ制圧のために多量のイギリス人死者が出るのを好まない。また、極小テロ組織による活動は、通常の武力紛争よりも国外メディアの注目を集めることができる。
6
イルグンはテロリストと名指しされていたが、ベギンはあくまで地下の軍隊だと考える。司令部は20名ほどで、他の実行部隊は皆平時は市民として生活していた。イルグン幹部は様々なゲリラ作戦を計画し、また自ら現場で指揮した。
インフラ、警察署の爆破や、英軍人に変装しての武器強奪作戦が行われた。
密告によって捕まることが多かったが、特に幹部同士の絆は強く、民主的な軍隊だった。イルグンは自由に脱退することができた。
給与はユダヤ人からの寄付と英軍から奪った金で賄っていた。階級は正式なものでなく、中尉が数千人を指揮することもあった。
当初イルグンは以下のとおり編成されていた。
- 革命軍 予備組織 実態無し
- 挺身隊 色黒の隊員をアラブ地域に潜入させる
- 突撃隊 主要作戦
- 革命宣伝隊 プロパガンダ等
組織には必ず摩擦が生じ、特に突撃隊と革命宣伝隊との仲は悪かった。しかし、こうした組織運営を通じてイルグン隊員たちは国家運営の基礎を学んでいった。
革命宣伝隊は送信機を使いラジオ放送を行った。イギリス側が逆探知や妨害を試みたため、かれらは頻繁に場所を移動し(5分放送し移動)、またイギリスの送信施設を攻撃した。
イルグンは極力、事実のみを放送するように努めた。そのため、イルグンの発表は正確だという信用性が高まった。
7
世界的に名高い英国情報機関はイスラエルでは役に立たなかった。
ユダヤ人には酒や金で買収されるものが少なかった(ユダヤ教徒はあまり酒を飲まない)。
イルグンは秘密保全教育を徹底した。
秘密を守るうえで、2つの大きな敵がある。ひとつは好奇心であり、あとひとつが自己顕示欲である。……「たずねるなかれ、話すなかれ」が基本原則である。
裏切り者や浸透工作員は少なく、また現地の人びとはイルグンに協力的だった。
英情報機関は、イルグンが犯罪者テロリスト集団であるという固定観念から抜けだせなかった。
英当局は……わたしの写真を2枚発見した。ひとつは、かなりよくとれている写真だったが、あとの1枚は街頭のスナップ写真で、わたしの兵隊身分証からひっぱがしたものだった。こちらは実物の私とあまり似ていなかった。
しかし英当局は、2番目の写真を逮捕用の顔写真としてばらまいたのである。なぜであろうか。理由は簡単で、最初の写真は多少なりとも「人間らしい」顔つきをしていた。わたしを撮ったのであるから、どうせ二枚目には映らない。しかし、それはごく当たり前の顔であり、見ていて嫌悪感を覚えるようなものではなかった。
しかし2番目の写真はどうかといえば、ダーウィンの進化論を裏付けるような代物であった。
このテロリストの写真はひとつだけ良い点があった。つまり、実物と全然似ていなかったのである。……哀れなのはイギリス人探偵たちである。喉から手が出るほど欲しいはずなのに、私の首にかかった懸賞金を手にすることができなかった。
より過激な分派組織であるレヒ(シュテルン隊)は、常に武器を携帯し敵と銃撃戦になったが、イルグンは武器を絶対に携帯せず、作戦時以外は保管庫にしまっていた。
レヒはより過激なテロ組織で、虐殺事件等も引き起こしている。この組織には後の第8・10代首相イツハク・シャミルが指導者として所属していた。
[つづく]