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『反乱』メナヘム・ベギン その2 ――イスラエル建国テロリストの回想録

後半では、イギリス占領軍がイスラエルのテロリストに攻撃され、最終的にイギリスが撤退するまでが回想される。

後のイスラエル首相の多くが本書ではテロリストや民兵部隊の一員として活動している。現在でも、軍国主義的な国家方針は健在である。

 

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ベギンの活躍について、スターリン工作員だとかトルーマン工作員だとかいったような荒唐無稽な記事が多く流れた。

 

ひとつだけはっきりしているのは、わたしがあらゆる形態の全体主義を憎悪し、圧政と全体主義に対する自由の勝利を確信していることである。

 

ベギンは何度も自宅と身分を変えながら、市民として潜伏しつつイルグンの活動を指揮した。

 

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(略)

 

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通常、革命によって政府が転覆されると、革命勢力同士の内戦や抗争が始まる。イスラエル建国に際しこうした問題が発生しなかった理由をベギンは2つ説明する。

 

  • イルグン隊員は、同じ兄弟同士である政敵を憎んではいけないと教育されていた。 
  • イルグンはユダヤの主権確立のために戦ったのであり、権力に関心はなかった。

 

理由が何であれ、主流派のシオニスト指導部が、われわれの反英武力闘争を開始直後から阻止しようとしたのは、事実である。

 

当時のシオニスト指導者はベングリオンだったが、かれとイルグンとの間には意見の相違があった。しかしベギンは、独立が達成された暁にはベングリオン国家主席となることにも反対しなかった。

反英闘争の最中に、ベングリオンの指揮下にあるハガナー(公式の国防軍)は何度もイルグンを脅迫し、活動をやめるよう迫った。しかしイルグンはこの要求をのまなかった。

 

ハガナーがイギリス官憲と協力してイルグン狩りを始めたときも、イルグン側は報復を行わなかった。

 

やがて、この反英闘争に全住民が立ち上がり、昨日の迫害者と被迫害者が肩を並べて戦うようになった。われらの民族とわれらの祖国に対する共通の目的のために。

 

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独立戦争におけるエルサレムの市街戦について。

イルグンはハガナーに編入され、合同でアラブ連合軍と戦った。シュテルン隊は独自の指揮系統でハガナーと共同した。

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独立戦争中もハガナーはイルグンに懐疑的であり、また分派活動を許さなかった。多数の義勇兵と武器弾薬を乗せたイルグンのアルタレナ号は、ハガナーの突撃隊パルマッハ(指揮官イーガル・アロン)の砲撃によって沈没させられ、14名の死者を出した。

こうした攻撃にも関わらず、ユダヤ人勢力は本格的な内戦には至らなかった。

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第2次世界大戦終結後、イギリス総選挙で労働党が勝利すると、ユダヤ人指導部やイギリス協調派は狂喜した。チャーチルとは異なり、労働党のアトリーはシオニズムへの支持を表明していたからである。

ところがアトリーが政権につくと、ユダヤ人嫌いで有名なベビン外相は引き続きイスラエル占領統治を継続した。

イギリスの態度によって幻想から覚めた主流派は、イルグン、シュテルン隊(レヒ)と共同戦線を形成することで合意した。

 

いずれの軍でも規律は大切である。さまざまな敵や反対者に包囲された反体制闘争軍においては、なおさらである。

 

われわれの地下軍には、勲章などしゃれたものはなかった。勇敢なる英雄的行為に対して、隊員が得るのは、義務を果たしたという精神的満足感だけであった。

 

共同作戦によってイギリス軍航空基地の航空機を多数破壊したあと、ユダヤ人兵士たちはアラブ人の村からも英雄として声援を受けた。

これはまだ独立戦争が始まる前のことだった。

 

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英政府との武装闘争が続く中、ユダヤ人指導部の一部は融和政策に傾き、ハガナーを武装解除しようとした。ベギンはこの間も武力活動を継続した。

 

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キング・デーヴィッド・ホテル爆破事件について。

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1946年6月以降、ハガナーは防衛・報復理論に基づいて、英政府の官庁が集中するホテルへの攻撃を許可した。ユダヤ機関が英軍に占領された報復である。

 

もともとハガナーは、英当局の都合から半官的地位を与えられてきた。それに慣れてしまって、油断があった。注意するのを忘れたのである。ユダヤ機関の幹部は、幻想にも等しい「国際的地位」を過信していた。

 

ホテル爆破に伴う民間人の犠牲を避けるため、実行部隊は複数個所に警告の電話を入れた。しかし、避難は行われず、200名超の犠牲者が出た。ベギンの主張に寄れば、警告を握りつぶしたのはイギリス当局だった。

 

「われわれは、ユダヤ人から命令を受けるためにここにいるのではない。われわれがやつらに命令するのだ」……

 

イギリス側があえて大惨事を狙ったかどうかは不明だが、いずれにせよ英軍高官がホテル退避を禁じたのは事実である。

当初、ベングリオンやハガナー、ハアレツ紙は手のひらを返してイルグンに責任をかぶせ非難した。

 

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イギリス軍は、植民地の人間に対し鞭打ち刑を行った。ベギンらユダヤ人にとって、これは自尊心への攻撃だった。

イルグンは、自分たちに鞭打ちを行えば、イギリス人将校も同じ目に合う、と警告をまいた。この警告は、将校とは距離のあるイギリス兵たちからも人気を得た。

 

 ――空挺師団の兵たちは、「6千万のユダヤ人をぶっ殺してやる」などと無記名で殴り書きしていたが、この兵隊は、上官の所属部隊番号や官姓名をはっきりと書いていた。

 

刑務所にいたイルグン所属の少年が鞭打ちを受けたため、イルグンはイスラエル各地で4人の英軍将校、下士官をとらえ鞭打ちし、次は銃殺すると警告した。

占領政府が鞭打ち政策を中止した結果は、国際的に大きく報じられた。

 

英軍将校を鞭打つのは、決して愉快なことではなかった。しかし、正直なところ、誇り高い強大な軍隊の将兵数千人が、エレツ・イスラエルのカフェから一目散に逃げ出したときは、いささか満足感をおぼえた。

 

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イルグンは隊員に死を覚悟させていたが、同時に、かれらを救出するためには犠牲を惜しまなかった。

ユダヤ人テロリストたちは、頻繁にイギリス兵になりすまし、基地に潜入し武器庫を襲撃している。

 

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保守党のチャーチルは、英占領軍の失策を非難した。

 

……チャーチルは、再度英軍のパレスチナ撤収を要求した。戦略目的に全然役立たず、金をくうだけでなく人命も犠牲にしている、駐留は無意味である、とチャーチルは言った。

 

私は、このユダヤ人との争いが気に食わない。私はかれらの暴力手段を憎んでいる。しかし、君たちがこの問題を扱うのなら、少なくとも男らしく振る舞いたまえ。……テロリストの脅威を受けながら、政府は法を施行する勇気がない。

 

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とらえられたイルグン隊員の一部は絞首刑にされた。またほかの構成員は、空挺部隊の基地に拉致され、兵や軍医からリンチされた。

 

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英軍が4人のイルグン隊員を処刑したため、報復作戦が行われた。隊員の中には、大戦中に英陸軍のコマンド部隊で活躍していた人物もいた。

さらに、アッコーの刑務所襲撃作戦でとらえられた3名も処刑されたため、報復に英軍下士官を拉致し処刑した。

 

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ベギンは地下生活を続けながら、同時に国連の調査委員会3名とも会談した。これを聞いた英国政府が激怒した。

 

「5年間もこの男を探し回りながら、いまだに行方をつかめない。ところが国連委員会の委員長は、いとも容易にこの男と会ったようだ。いったいどういうことであるか」

 

このような憤激のニュースを読んで、私は英情報機関をたいへん気の毒に思った。

 

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小説家のアーサー・ケストラーはシュテルン隊やイルグンの取材を精力的に行っており、ベギンもかれと面会した。ただし、当時、人相を知られてはまずかったため、暗闇の中で会談した。

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アメリカの議員や文学者と会うことで、ベギンは自身に関する誤ったイメージ…「整形している」、「巨体である」等が流布していることを知った。

ハガナー幹部のモシェ・ダヤン(のちの国防軍将官)は、淡々と話すが勇気と胆力のある人物だと感じた。ダヤンも、イルグンに対し尊敬を表明していた。

 

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チャーチルは、無駄な植民地政策と10万兵力のくぎ付けに反対していた。占領軍が戒厳令を発するもイルグンのテロはおさまらず屈辱のまま中止になった。

 

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1948年5月16日、英国占領政府は撤退した。英高等弁務官カニンガム将軍は旗をおろしイスラエルを去った。

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ユダヤ機関は、英国撤退後の平和的な政府樹立に幻想を抱いていた。イルグンの予測では、間違いなくアラブは侵攻を開始し、英国がこれを後方から支えるはずだった。

 

われわれは警告する。……海上封鎖はあと5か月続く。英国は、兵員資材の補充を許さないであろう。ユダヤの血が流され…武器は持ち去られ、……

 

攻撃にまさる有効な防衛はない。鉄壁を称せられたフランスのマジノ線が雄弁に物語っている。

 

ハガナーは政治的な失敗から資金を活用しておらず、アラブ軍との戦争が始まったとき、貧弱な装備しか持たなかった。

 

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…この人たちは、外からの迫害や締め付けを決して容認せず、内部の暴政にも長い間我慢しないのである。かれらはこうと思ったらテコでも動かぬ頑固者であり、その胸には自由の血が流れていた。

 

ユダヤ機関が、国連や英国政府に平和的解決の意思がないことを認識するまでに、イルグンとハガナーとの間で内部抗争があった。

 

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英軍はまだ撤退しておらず、ユダヤ人部隊を一方的に武装解除した。

 

周辺にはアラブの武装集団がおり、まったく無防備の状態になった8名の命運は明らかだった。全員がすぐ殺されてしまったのである。エルサレムその他の地域で同種の事件が何度か起きた。

 

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エジプト、イラク、シリア、レバノン、トランスヨルダンのアラブ連合軍侵攻に対し、イルグン最高司令部は戦略目標を立てた。

 

確保区域:

  • エルサレム
  • ヤッフォ
  • リッダ・ラムレ地区平野部
  • トライアングル

 

イルグンは英軍基地や英軍の補給列車を襲撃し、装甲車、砲弾、機関銃などを調達した。そして、ヤッフォや各都市の英軍部隊、施設に対し砲撃を行った。

 

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イスラエル国は誕生した。これによってのみ、すなわち血と銃によってのみ、それが可能だったのである。

 

われわれは必ず勝利する。しかし、この戦いに勝ったあとも、国家の自由と独立を維持するため、超人的努力を続けねばならないだろう。それにはまず、イスラエルの戦力を増強する必要がある。備えがなければ、自由は保証されず、祖国の存続もおぼつかないであろう……。

 

……英国その他外国軍の兵隊がひとりでも我が国に残っている限り、主権は夢にすぎない。主権の獲得には、戦場だけでなく、国際部隊で戦う覚悟が必要である。

 

わが祖国においては、正義が最高の支配者でなければならない。暴君の出現は許されず、閣僚や政府の役人は国民に奉仕する公僕であり、主人であってはならない。搾取も絶対に許されない。

 

……われわれは、融和によって敵から平和を買うことはできない。買うことのできる平和には一種類しかない。それは、墓場の平和、トレブリンカの平和である。

 

武器がない? 必要なら敵からでも取得できる。戦う部隊がいないと? それなら組織できる。準備がない? しかし、闘争自体が教育と訓練を授けてくれるのだ。徒手空拳であっても、それは人間次第でどうにでもなる。理想のために全身全霊をささげ、身命を賭す覚悟でなければならない。