20 火星の出現
1938年、ヒトラーは陸軍参謀総長フリッチュを失脚させた後、国防軍最高司令部(OKW)を設立、軍を掌握した。
ヒトラーはオーストリアとチェコスロヴァキアを侵攻し、その後英仏を侵攻する戦争計画を、軍首脳の前で披露した。
軍の不信感は頂点に達し、この男についていけばドイツが滅亡することを確信した。
ボンヘッファーもまた逮捕され、ベルリンを立入禁止になった。
チェコスロヴァキア侵攻に合わせてドイツ軍はクーデタを計画していたが、チェンバレンのミュンヘン会談により中止となった。
21 決断
1939年1月、ヒトラーは予備役に召集をかけた。ボンヘッファーもその対象年齢だった。かれは侵略戦争とヒトラーへの忠誠に賛同することができなかったが、いま良心的兵役拒否を行使することは、告白教会を難しい立場に陥れるに違いなかった。
ボンヘッファーはニューヨークのニーバーに手紙を出し、ニーバーからボンヘッファーに対し教授職のオファーを出してもらうよう調整した。5月、かれは召集令状を受け取るとすぐにアメリカに出発した。
アメリカに到着したボンヘッファーは、アメリカ人たちの神学や信仰に馴染めず、またドイツから離れていることに納得がいかなかった。ドイツでは告白教会の抵抗牧師たちが収容所で拷問され殺されていた(Paul Schneider)。ボンヘッファーは1か月弱でドイツに帰国した。
22 ドイツの終わり
ポーランド侵攻が始まった。その1か月後、ボンヘッファーはドホナーニからアインザッツグルッペンの活動について聞いた。
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ドホナーニはSSの犯罪行為を、上官のヴィルヘルム・カナリスから直接聞いていた。ボンヘッファーは、海外のエキュメニカル運動家たちとは異なり、和平よりもヒトラーの排除が先だと考えていた。
国防軍高官の多くは現地報告からSSたちの蛮行を知り、ヒトラーや自分の上官に申し立てをしたが、かれらは耳を貸さなかった。
ヒトラーにとって劣等人種の殺戮は思想の中核であり、カイテルやブラウヒッチュらはただヒトラーの機嫌だけをうかがっていた。
戦争と同時に、国内では障害者を安楽死させるT4作戦が始まっていた。
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国防軍グループは、クーデタのためにイギリスと連絡をとることが必要だった。ボンヘッファーは、この分野で、イギリスや北欧に多くのコネクションがあり、貢献が可能だった。
23 告白から陰謀へ
1940年、告白教会の養成所がゲシュタポに発見され閉鎖された。
ボンヘッファーの思想からすれば、ヒトラー暗殺計画への加担は自然の成り行きだった。ある時点では、抵抗せずただ告白することは、犯罪者と協力することでしかなくなった。神に忠実であるためには抵抗しなければならなかった。
ボンヘッファーは、ゲシュタポからの迫害を逃れるため、正式にアプヴェーア(国防軍情報部)の工作員となった。かれはカナリス、ハンス・オスター、ギセヴィウスらと会議し、国外や東方で牧師活動を行いつつ反ヒトラー計画のために働くことになった。
かれは神に忠実に生きるために、原理原則的な信仰を無視した。かれはナチと融和したように装った。戦争中の国家元首を暗殺するという行為は、告白教会の多数から非難を受ける行為だった。ボンヘッファーは孤独な戦いを選んだ。
24 反ヒトラー計画
独ソ戦開始に伴うSSの蛮行、また戦況の悪化を受けて、軍内の反ヒトラー勢力は増えていった。1941年末時点での反ヒトラー勢力は、アプヴェーアを中心とする暗殺勢力と、穏健派のクライザウ・サークルに分かれていた。クライザウ・サークルを率いていたのはモルトケ(軍人家族の末裔)だった。
ロンドンのジョージ・ベル司教は、暗殺グループと連絡し、政府に支援を訴えたが、チャーチルは抵抗運動に興味がなかった。チャーチルはただドイツを完全敗北させることに集中していた。
ボンヘッファーは、ドイツにおけるユダヤ人政策を訴えるため、ユダヤ人をスイスに亡命させる作戦に協力している。
25 ボンヘッファーの勝利
引き続き国外との連絡を続けた。
26 結婚相手
ボンヘッファーは、親交のあったRetzow家の娘マリア・フォン・ヴェデマイヤーと親しくなり、婚約した。ボンヘッファーは自身の秘密活動をマリアに話していた。
27 ヒトラー暗殺
この間、ヒトラー暗殺作戦が2回ほど試みられたがどちらも失敗した。
28 独房92
1943年4月、ユダヤ人亡命援助をきっかけに尾行を続けていたゲシュタポが、ボンヘッファーを逮捕した。同時期に逮捕されたドホナーニもその容疑はユダヤ人亡命援助であり、まだヒトラー暗殺計画は当局には知られていなかった。
ボンヘッファーらは、塀の中から外部と暗号通信を続け、アプヴェーアと連絡をとった。
かれはキリスト者としての生を、受動的ではなく、能動的なものに、神学の観点から再定義した。キリスト者の生き方は、単に神学的コンセプトや原則や規則細則を話し、教え、信じることとは関係がない。キリスト者の生き方とは、自身の全人生を神の招きに基づく行動に従わせることだった。
ボンヘッファーの叔父Paul von Hase(後、ヒトラー暗殺計画で処刑)はベルリン軍管区司令官だったため、それが明らかになると看守たちの対応は様変わりした。それ以上に、看守たちの多くは実際にはナチを嫌っていた。
独房では、シュティフター、ヒュー・ウォルポール、ディルタイなどを読んだ。また獄中でも著述活動を続けた。
平時には、人びとは善悪の概念に基づき、善をおこなおうとする。しかしナチの支配する現在では、こうした善悪の概念はもはや用をなさない。人びとは「私的な徳」に後退してしまう。
こうした人びとは盗みや殺し、姦淫を犯しているわけではなく、かれらの能力に応じて正しいことをおこなってはいる。しかし、かれらは身の回りの不正義に目をつむらなければならない。自分自身をだますことによってのみ、かれらはこの世界における責任ある行為から逃れ、自分の正しさを保持することができるのだ。
そしてボンヘッファーにとっては、神と離れたところで善悪を判断することは不可能だった。
かれが軍刑務所に収容されている間、カナリスがアプヴェーアを更迭された。これはゲシュタポとRSHA(国家保安本部)の工作によるものだった。
しかし、シュタウフェンベルク大佐が暗殺計画を引き継いだ。
29 ワルキューレとシュタウフェンベルク計画
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シュタウフェンベルクを中心に、ヒトラー暗殺計画の準備が進んでいた。ボンヘッファーの妻マリアの親戚、ヘニング・フォン・トレスコウも「ここにいたっては結果は二の次、歴史の前で抵抗したことを示すことが重要」と発言した。
1944年7月20日、シュタウフェンベルクらのヒトラー爆殺は失敗した。
ヒトラーの生存演説に続いて、ゲーリング、デーニッツもそれぞれヒトラーを称え、テロリストたちを非難している。
事件の後、首謀者たちが次々と逮捕、銃殺され、一部は自殺したが、反ヒトラー集団の規模はヒトラーが予想していた以上に大きく、ヒトラーは人間不信となった。ボンヘッファーの関与も明らかになり、助かる見込みはなくなった。
かれはより環境の悪いゲシュタポの監獄に移送された。
しかし、ヒムラーとSSは戦争が破局に向かっているのを察知しており、将来の取引のために和平派の扱いを改善し、生き残りを図ろうとしていた。このためボンヘッファーは1945年のクリスマスに、妻マリア宛の手紙を書くことをゆるされた。
1945年2月には連合軍の空爆でベルリンが破壊され、ゲシュタポ本部も焼け落ちた。ボンヘッファーや、親戚のシュラプレンドルフらはブーヒェンヴァルト収容所に移された。このとき移送された人物には、ビスマルクの孫も含まれていた。
30 ブーヒェンヴァルト
多数の反ヒトラー収容者の人物像について、イギリス軍情報将校捕虜のベスト大尉が後に回想している。
- ヘプナー将軍General Hoepnerは一番の臆病者で、よく泣き崩れていた。
- ファルケンハウゼン将軍は非常に勇敢だった。将軍は第1次大戦でプール・ル・メリット勲章を受けていた。
- 収容所では、空軍所属の軍医が、航空生理の研究のため、人体を生きたまま凍らせる実験を行っていたが、これに空軍側から非難が寄せられた。
- 収容者たちは皆疑心暗鬼になっていた。しかし、仮にかれらが団結すれば、脱獄は容易だったろうとベストは指摘している。
- ゲシュタポたちは連合軍がやってくることにおびえていた。看守たちは収容されていたファルケンハウゼン将軍に戦況報告ラジオを聴かせ、それを説明させていた。将軍の解説をとおしてゲシュタポたちは敵軍の接近を理解した。
- ベスト大尉の回想では、ボンヘッファーは常に静かで、幸福の空気を放っていたと言及されている。
31 自由への道へ
ボンヘッファーら一部の囚人たちは、ヴァンに載せられ、戦火を避けるように僻地から僻地へと移動を続けた。
ヒトラーは自殺の3週間前、カナリス、オスター、ボンヘッファーらの関与の証拠を直接知らされ、処刑を命じた。
ヒトラーは、この人物たちが、自分の勝利を台無しにしたのだと激怒し、復讐することに執着した。ボンヘッファー処刑の同日、ドホナーニ、ボンヘッファーの兄クラウス、義兄リューディガーも処刑された。
おわり