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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Nemesis of Power』Sir John Wheeler-bennett その4(4/4) ――ヒトラーに制圧されたドイツ軍

 

 3 フリッチュ危機から戦争勃発まで

・1938年9月:チェコスロヴァキア進軍と併合

 ヒトラーチェコスロヴァキア進出計画を聞いた参謀総長ベックは、軍事的に不可能だとして恐慌に反対し、辞職した。司令官ブラウヒッチュに対し、クーデタを呼びかけるが、かれは「自分は軍人であり仕える存在である」として拒否した。

 

 軍人の誓約はドイツでは非常に強力で、軍高官の一部は、ヒトラーの無謀さに気づいていたものの、諫言したり、抗議したりする者はほぼいなかった

 

 ベックは、若手将校や、後任参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)、ハンマーシュタイン、ヴィッツレーベン大将(von Witzleben)、ヘプナー(Erich Hoepner)、ヴィルヘルム・カナリス(Wilhelm Franz Canaris)、ハンス・オスター(Hans Paul Oster)、神学者ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)、ベルリン警察長官へルドルフ(Wolf Heinrich Graf von Helldorf)、元ライプツィヒ市長ゲルデラー(Carl Friedrich Goerdeler)、法学者ドホナーニ(Hans von Dohnanyi)、政治家ポーピッツ(Johannes Popitz)ら反ヒトラー勢力と連携し、チェコスロヴァキア進軍に合わせたクーデタを計画した(黒いオーケストラ)。

 ゲーデラーは英仏の支援を得るために、盛んに訪問しヒトラー打倒を唱えていた。かれは、ヒトラーはすなわち戦争を意味すると主張し、チャーチルらの支持を得ていたが、最終的に英仏の協力を得るには至らなかった。イギリスにとっては、クーデタ勢力はせいぜい第一次大戦を起こした君主制の再興に過ぎなかった。

 

 1938年9月、チェンバレンミュンヘン訪問によってクーデタ計画は腰砕けになった。著者は計画失敗の要因が将校たちにあると考える。

 当時ドイツ国民の多くは厭戦気分に満ちていたものの、ハルダーらは計画性と決断力に欠けていたため、例えチェンバレンが譲歩しなくても、一揆を躊躇しただろう。

 

 OKW(国防軍総司令部)とOKH(陸軍総司令部)は対立状態にあった。

 OKWを占めていたカイテル、ヨードル(Alfred Jodl)、ヴァルリモント(Walter Warlimont)らはいずれも非プロイセン人で、プロイセン将校団らの特権的地位を敵視していたという。

 

 1939年の春から夏にかけて、ヒトラーポーランド侵攻を表明するのに合わせて、反ヒトラー派や国内の厭戦派、そして英仏は和平交渉を求めた。しかし独ソ不可侵条約が締結されたことで望みは絶たれた。

 8月末、ヒトラーは「緑作戦」の発動を命じた。ポーランドは、英仏からの圧力により、ダンツィヒ割譲交渉に参加しようと特使を出したが、ドイツは交渉を打ち切り9月1日から戦争が始まった。

 ヒトラー、リッベントロップらナチス首脳は戦争を望んでいた。ブラウヒッチュを筆頭に、陸軍は既に事態をただ傍観するだけになっていた。ハルダーは抵抗運動から遠ざかり、ヒトラーを亡ぼすにはドイツの敗北と被害が不可欠だと諦めていた。

 カナリスやオスターら情報部は、ヒトラーの8月末の命令撤回以来、ドイツは戦争を回避するだろうと楽観視していたためにショックを受けた。

 

 

 4 東方での勝利と「まやかし戦争」

 第1次大戦と異なり、ドイツ国民は戦争の行く末に不安を抱いていた。英仏との全面戦争は、ドイツの破滅を意味していた。

 ポーランドでの電撃的勝利後、ヒトラーは英仏に平和攻勢をしかけるがダラディエやチェンバレンは動じなかった。

 ただちに秋に攻撃をしかけようとするが、軍の反対にあい、ヒトラーはやむなく譲歩した。

 当時、SDやゲシュタポは具体的な反乱計画について何も情報をつかんでいなかった。かれらは軍や外務省の多数、そしてゲルデラーらがヒトラーに反抗的で、敗北主義者であると考えてはいたが、それ以上の調査は何もしていなかった。

 

 1939年11月、ゲオルク・エルザー(Georg Elser)によるヒトラー暗殺未遂(ビュルガーブロイケラー爆破)が発生した。本書は、ヒムラーとハイドリヒによるナチス古参暗殺計画の可能性を示唆している。それはエルザーが終戦直前まで生かされていたことの説明になるとしている。

 

 ノルウェーデンマークへの侵攻は、海軍のレーダー、ローゼンベルクが提唱したものだった。陸軍はこの計画に反対し、ほとんど協力しなかった。

 1940年5月、ベルギー・フランス侵攻に成功したものの、イギリス上陸作戦は不可能となり、戦線は膠着した。

 

 

 5 電撃戦からスターリングラードまで

 この間、反政府勢力は引き続きクーデタの可能性を模索していた。陰謀グループのメンバーは流動的だが、このとき中心となったのはゲルデラー、ベック、外交官ハッセル(von Hassel)などである。

 かれらは君主制復活に向けて、だれを王に立てるべきかをあれこれと議論した。

 なお、カイザー・ヴィルヘルム2世はヒトラーの征服後も、オランダに留まった。連日、国防軍兵士が邸宅に見学に来て、警備のSS将校も元皇帝に対してプロイセン式の敬礼を行うようになっていた。

 クーデタ勢力は王政復古主義者、社会主義者立憲主義者等様々だったため、意思統一が困難だった。一部のメンバーは、ヒトラーを排除しゲーリングヒムラーを擁立する可能性も検討した。

 

 1941年3月、ヒトラーは軍高級幹部を集め、対ソ戦の準備を命じた。このとき、敵の政治委員やパルチザンを抹殺する「コミッサール指令」を出した。

 軍は、これまでSSがやってきた汚れ仕事を自分たちもしなければならないとして不満を抱いた。ある将校は、「これはドイツ軍の汚点になるだろう。ドイツ軍は、プロパガンダにしか出てこないBoche(ドイツ人の蔑称)になるだろう」と嘆いた。

 しかし大方の指揮官はこの指令を実行した。

 

 独ソ戦は当初うまくいったが11月の降雪とともに膠着した。モスクワを目前に停滞していた中央軍集団司令官ボックをヒトラーが直接叱咤するとして訪問することになった。このとき、クーデタ勢力はヒトラー拘束を計画したが実行されなかった。

 

 12月にボックが更迭されギュンター・フォン・クルーゲ(von Kluge)が就任すると、配下のトレスコウ(Henning von Tresckow)は叛乱を呼びかけた。しかし優柔不断のクルーゲは最後までどっちつかずの態度をとった。

 

 1941年8月、チャーチルルーズヴェルトが締結した大西洋憲章(The Atlantic Charter)は、クーデタ勢力に衝撃を与えた。そこには、米国の中立廃止とともに、ドイツの完全武装解除が掲げられていた。

 連合国側は、ドイツには信頼できる反政府勢力が存在せず、ナチ政権とドイツ国民は一体だと認識するようになった。

 停滞した軍に対しヒトラーは「無撤退(No Withdrawal)」の指示を出した。将校たちは、暴走するヒトラーに対し反抗するどころか、勲章と司令杖(baton)をほしがり最高指揮官のむちをなめる始末だった。

 陸軍総司令官ブラウヒッチュは、ヒトラーの伝令になっていたが、将校団とヒトラーの板挟みになり12月に隠退した。するとヒトラーが自ら陸軍総司令官となり、大量の指揮官を更迭した。

 

 1943年1月末、スターリングラードで包囲されていたパウルス元帥(Friedrich Paulus)率いる第6軍9万人が降伏した。ベックらクーデタ勢力はパウルスに蜂起を打診していたが、実現しなかった。

 

 

 6 スターリングラードからノルマンディまで

 スターリングラード陥落は、ドイツ国民に衝撃を与えた。

 ヒトラーは直観に優れた軍事的天才と考えられていたが、実は単なる誇大妄想の伍長なのでは、という疑いが市民、軍の間に生じた。戦争に負けるのではないかという不安が初めてドイツを覆った。

 クーデタの時機も、国民の支持もあったにもかかわらず、もっとも重要な要素……明確なヴィジョンと指導者に欠けていた。

 高級将校たちは、ナチ政権がもたらす特権……勲章、司令杖、手当、不動産等によって懐柔されていた。

 

 クーデタ勢力は伝統的保守派軍人・政治家と、青年(クライザウ・サークルKreisau Circle)に分かれていた。後者は法律家ヘルムート・フォン・モルトケ(Hlmuth von Moltke)が中心で、暗殺計画には反対していた。

 1943年、トレスコウ、その副官シュラーブレンドルフ(Fabian von Schlabrendorff)、オルブリヒト大将(Friedrich Olbricht)、オスターらは、時限爆弾を使いヒトラーを飛行機事爆破しようとするが、起爆装置の不備により失敗した。

 

 ヒムラーへのクーデタ提案の失敗と、カナリス、オスター、ポーピッツらの追放……ヒムラーは、ポーピッツの提案に応じており、逮捕はこの事実のもみ消しでもあった。

 

 工作グループにおけるオスターの後任者として選ばれたのはクラウス・フォン・シュタウフェンベルク(Claus von Stauffenberg)だった。

 1943年、ヒトラー暗殺と同時に発動するクーデタ計画「ワルキューレ作戦」が策定された。しかし、その後何度も暗殺は失敗した。

 1943年2月の反政府グループ摘発をきっかけに、シェレンベルクとミュラーが率いるSDがアプヴェーア潰しを行い、組織をRSHAに吸収した。カナリス提督は反ヒトラー勢力を長い間匿い続けたが、オスターとともに職場を追われた。

 ロンメルも反ヒトラー感情を隠さなかったが、ゲルデラーらは元帥をヒトラー戦争の加担者とみなしていたため(ロンメルは当初ヒトラーのお気に入りだった)、かれらとは折り合わなかった。

 

 軍・外務省は、内部で東方派(ロシアとの友好を求める)と西方派(英仏と協力し、東方を征服する)に分裂していた。シュタウフェンベルクもロシアをソ連から解放するという理想を持っており、ウラソフ将軍の義勇軍支援を担当した。

 

 

 7 1944.7.20 ヒトラー暗殺計画

 戦闘で片手、片目を失った障害者のシュタウフェンベルクは、カリスマ性と行動力を備えていたが、親ソ派であり、他の叛乱メンバーとは異なる思想を持っていた。

 フェルギーベル(Erich Fellgiebel)の総統指令部通信遮断作戦失敗は、作戦に致命的な影響を及ぼした。「総統の巣」を通信遮断しなかったため、反乱側の通信とヒトラー側の通信が同時に拡散され、各部隊は混乱した。

 爆発が起きた後、家来たち(カイテルゲーリング、リッベントロップ、デーニッツら)は、互いに責めて罵り合った。

 ベルリン勢は、国防省を制圧したものの、現場の状況がわからず混乱した。フロム予備軍司令官は、積極的には加担せず、成功した側に加担しようと優柔不断な態度を続けていた。

 ヒトラー暗殺に失敗したため、実質的に反乱は「電話交換機の叛乱」に過ぎなかった。叛乱側は各部隊にSSの拘束を命じたが、同時にヒトラーからも叛乱鎮圧の指示を受けたため困惑した。

 

 勝ち馬に乗るタイプ……フロム、クルーゲ、ロンメル

 

 レーマー少佐(Otto Ernst Remer)は反乱首脳部を鎮圧し出世した。

・パリ……シュテルプナーゲル(Carl-Heinrich Rudolf Wilhelm von Stulpnagel)による唯一の成功

 

 ヒトラーが生きている以上、反乱に加担する者は増えなかった。間もなく計画者たちは制圧された。

 ※ 拳銃自殺の難しさ……ベックは1度目失敗、シュテルプナーゲルは両目を失明したまま捕まり処刑

 

 鎮圧後、名誉法廷により将校特権をはく奪した後、人民法廷によってほぼ全員が処刑された。

 

 ヒトラーがもっともショックを受けたのは、ロンメルの叛乱賛同だった。国民へのショックを避けるため、ロンメルが反乱勢力に加担した事実は伏せられ、SSは将軍を自決させた。

 将校たちの不服従が明らかになったとはいえ、戦争を遂行するには将校団の力が不可欠だった。政権は、反乱者と将校団を弁別するよう声明を発した。

 

 著者のコメント……7.20の暗殺計画は、不十分かつ準備不足だったかもしれない。しかし、かれらは連合国の支援も受けずに、かれら自身で政権打倒を企図した。この点で、暗殺計画は真に自発的な運動だった。

 

 

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 終章

・反乱者やその関係者に対して、ナチは残酷な拷問と処刑を行った。軍は完全に委縮し、党への従属はさらに強まった。ナチス敬礼を採用し、国防軍司令官はヒムラーが兼務した。高官らは党におもねり、軍人であると同時にナチズムの唱道者となった。

・連合国は、無条件降伏により当初の目的――プロイセン軍国主義とナチズムの解体――を達成した。

・本書刊行時の動きとして、暗殺未遂事件で功を挙げたレーマーによる社会主義帝国党の勃興と、再軍備に対し警告を発する。

 

 著者の認識では、ドイツには潜在的軍国主義的・拡大主義的傾向があるため、警戒を怠ってはならないのである。

 

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 メモ

 Wehrhoheit 防衛高権

 Heelesreitung 陸軍統帥局

 Bendlerstrasse 国防省のあった番地

 Wehrkreise 軍管区

 Oberkommando der Wehrmacht 国防軍最高司令部(OKW)

 Oberkommando des Heeres 陸軍総司令部(OKH)

 Blumenkorsos 花のパレード

 

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945

The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945