――ここに登場する内容とは、指導のひどい誤りであり、戦争の圧迫のもとでの将兵の生き方であり、大変な規模での破壊と殺戮であり、独ソ双方の一般市民の信じられないほどの忍耐の物語である。これらの物語を理解することこそ、第2次世界大戦に関するいくつもの誤った一般論を正すうえで、歴史家にとっては必要不可欠のことであろう。
◆メモ
ソ連崩壊によって、赤軍側の史料を検証することが可能になった。
これまでドイツ側からのみ語られてきた独ソ戦を双方の視点から再検討する本。ヒトラーの稚拙な指揮は有名だが、スターリンもそれに負けないくらい荒唐無稽な指示を発しており、その失敗のことごとくを現場の軍人たちに転嫁していることがわかる。
赤軍の死者・行方不明者は約1000万人、ドイツ国防軍は500万人である。おそろしい大量死の時代である。
◆1918~1941
・ソ連は日独の二正面作戦に備えなければならなかった。1938年、1939年の日本との軍事衝突で日本を押し返したことで、日本は北方進出をあきらめ南方へと矛先を向けた。しかしソ連側はこの変化を察知しなかった。
・1939年冬戦争での失敗は、赤軍粛清の方針を若干転換させた。また、ヒトラーはソ連を過小評価した。
・縦深作戦思想を基に、戦車部隊の建造が西側を超えるペースで進められたが、欠陥も多かった。
・大粛清によって高級将校の大半がいなくなったため、その悪影響は冬戦争や、独ソ戦初期まで及んだ。
・ソ・フィン戦争終結後、戦車部隊建造が中止となり、再び保守的な編成に戻された。一方で、政治将校は副次的な地位に落とされ、旧帝政時代の指揮官の権限が復活した。
・独ソ戦が始まるまで、スターリンは平和外交を追求し続けた。このため戦争準備は徹底されなかった。
・ドイツ軍……兵站が弱点であり、長期戦が不可能だった。
・赤軍……迅速な補給と、シベリアからの部隊移転が可能だった。
・赤色空軍のエピソード……実験機が墜落すると、破壊活動の罪により設計技師が銃殺されたため、航空機の発展が停滞した。
・バルバロッサ作戦の奇襲成功の原因は、スターリンの判断ミスとともに、制度的に混乱した赤軍にもある。それも結局はスターリンの偏執狂的な行動によるものである。
・ユダヤ人、スラブ人に対する戦争犯罪はSSやアインザッツグルッペンだけでなく国防軍によっても実行された。ドイツ人は、「共産党員はユダヤ人である」と考えており、たびたび即時処刑をおこなった。また、「劣等人種」スラブ人に対する奴隷労働も苛烈だった。
◆1941.6~1942.11
6.22のドイツ軍侵攻に対し国境部隊の大半はまったく警戒がとられていなかった。指揮官も未熟な者が多く稚拙な作戦を繰り返しドイツ側に撃破されていった。
・ソ連軍最高司令部(STAVKA)は、名称改編を経て7月にはスターリンが長となった。
・緒戦の敗北にともない、中央政治本部長官メフリスが高級将校の粛清を行った。メフリスは大粛清の貢献者だった。
――……赤軍が一個師団を粉砕されても、すぐに新しい別の師団を創設する能力があったことが、1941年におけるドイツ側の失敗の要因の1つだった。
ソ連はモスクワ西側、ウクライナ・ドンバス地域の工業生産拠点を疎開させ、間に合わないものは破壊した。
泥濘期の始まった10月には戦線は膠着を始めたものの、モスクワ侵攻が近いとわかり、スターリンとモスクワ市民はパニックに陥った。
グデーリアン率いるドイツ軍はモスクワ20km手前まで近づいたが、そこで進撃は停止した。12月に厳しい寒波と降雪が始まり、ドイツ軍は機能停止した。現地指揮官らは退却を上申したが受け入れられず、ヒトラーと幹部の溝は深まった。
この一件で陸軍総司令官ブラウヒッチュ、南方軍集団司令官ルントシュテット、グデーリアンらが現場から退いた。
一方で、年末年始にかけてスターリンはドイツ軍への反攻を命じたがことごとく失敗した。
1942.4発令の、ドイツの「青」作戦は、カフカス地方とレニングラードの攻略を、同盟国軍とともに実施するというものだった。
5月の第2次ハリコフ攻防戦、クリミア戦で赤軍は惨敗した。
スターリングラード戦は8月から開始された。
赤軍は開戦から半年で313万人の3分の2以上を失った。しかしドイツ軍も摩耗し、結果としては、ソ連の人口と動員能力そして緒戦の敗北による教訓が優った。
[つづく]
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