最近読んでいた本のメモ:
◆シベリア抑留
当時(シベリア抑留者帰国時)、ソ連は自国の政策や抑留政策を対外的に公開しておらず、また日本には理想的な社会主義観が広まっていた。
知識人たちは、抑留者たちの手記や証言を否定し、かれらを批判した。
――「八年間、少しも進歩なしに、旧軍人意識と態度とを持ち続けたまま帰国したということは、恐るべきことである。かれらはほとんど異口同音に何らの政治教育をも受けなかったといっている。しかも8年間、ただ帰りたい一心だったという。これでは目にも耳にも何も入らないし、入ったとしても、それは文字と音響として入るだけで、思想や判断を形成する材料としては働かない。……おそらくその人たちは社会の問題を正しくつかむセンスをはじめから持ち合わせていない人びとではないかと疑う。……だから全然歴史的性格のちがった社会へつれていかれても、目を見張って、何か新しいものを見つけようとする努力をする精神の力を持っていないのである」(岡本清一)
――「……これはまたわれわれの岡目八目的ソヴェート観にも合致する。その躍進は実にすばらしいこと」(同上)
――「(同胞五人の手記は)失礼ながらはなはだつまらない」(桑原武夫)
――「人には眼があるから、目の前にあるものは、みなみえるはずだという素朴な論理が、いわゆる手記の根底にあるわけだが、そんなことはない。……まして、今回帰ってきた人びとは、その理由の正当、不正当はともかくとして、ともかく何らかの犯罪によってとらわれていた人びとである」
◆朝鮮労務動員および徴用
1942年以降の朝鮮における動員は、希望者がいたことも確かであるが、充足を満たすために強制的・暴力的に動員されるものも増加していった。
この様子は朝鮮総督府厚生局労務課の発言や、強制供出による労働能率低下を戒める総督府訓示にも記録されている。
徴用は国家命令であり敷居が高かったが、朝鮮半島においては、官あっせんでの動員が実質的な徴用と変わらない状態になっていた。徴用の場合は被徴用者について正式な書類を作らねばならず、また原則として炭坑・土建業は対象外だった。
日本政府は、「炭坑・土建現場での労務管理が十分になるまで、民族不和を生まないようにする観点から、徴用はするべきではない」と考えていた。
つまり、この時点で半強制的に連れてこられた事業所は、劣悪な状態を労働者に強いていた。
――……寝こみを襲いあるいは田畑に稼働中の者を有無を言わせず連行する等相当無理なる方法を講しようやく……
強制的な動員には、面邑職員(朝鮮の自治体職員)の一部も消極的だった。強制連行の恨みを買って危害を加えられる事件が発生していたからである。
募集難を受けて、1944年1月に徴用発動のための方針が発表された。
1944年8月から朝鮮半島における徴用がはじまったが、元々官あっせんも反強制・強制でおこなわれていたために、それほどの衝撃を与えることはなかった。
徴用は本来、国家命令によって国民を徴用するものであり、その補償として家族には援護政策が行われることになっていた。しかし、朝鮮半島の行政機構が整備されておらず、朝鮮に残された徴用労働者の家族が補償を受けるのは非常に困難だった。