有名な翻訳者、著述家による本。
通訳としての経験を交えて、異なる言語間、文化間のコミュニケーションについて考える。
母国語について深く知ることが通訳のみならず外国語学習にとって重要だという。英語や外国語を使えるというのは、母国語を使いこなせてはじめてメリットになる。
言語は民族性やイデオロギー、価値観を持っている。
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――異なる言語間のメッセージや情報の伝達、意思疎通の必要性が生じたときに初めて、その存在価値が認められるという、思えばはかない、はかない商売なのだ。
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通訳・翻訳業は多様性を持つ営みである。
・様々な顧客・分野に触れることができる。
・言語間の組み合わせは多様である。
・訳の仕方や形式は多様である。
・受け手と送り手に依存する。
・通訳・翻訳はコンバータ(変換)作業だが、そのプロセスは未解明であり、まだ機械やコンピュータが人間に取って替わっていない。
――結局通訳というのは、基本的には言い換えだと思います。まず、日本語的な日本語を、ロシア語的な日本語へ一度言い換え、ロシア語的日本語から日本語的ロシア語へ、それからロシア語的ロシア語へと四つの段階がある。(森俊一)
訳者の機能は、異なる二言語間でのコード変換であり、概念の伝達である。
通訳業はほとんどが文系出身だが、仕事の対象は科学技術分野のほうが多い。
動詞は変化するためもっとも身に着けにくい語である。一方、通訳が日々蓄積していく語彙のほとんどは名詞である。
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・発音間違いから起こる悲喜劇
・放送禁止用語、差別語は、その根底にある差別意識に対処しない限り決してなくならない。禁止用語はそれだけ魅力を持つもので、いくら禁止してもより婉曲な言い回しで差別が続くだろう。
・メモをとることは通訳に不可欠である。
・同時通訳は時間との勝負である
・記憶のかぎは意味付け……脈絡のないものを覚えるのは非常に困難なので、語呂合わせでもいいから意味を持たせて記憶することがよい。
・通訳と翻訳の差……時間的制約、完成度、見直しの有無
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本書のタイトルは、美しいが忠実でない翻訳、文として雑だが精確な翻訳を例えたものである。
日本語は例えばヨーロッパの語からかけ離れているため、精確性を重視する。この場合、外国語を母国語とする通訳が日本語に訳すため、意味は精確に把握しているが日本語としてはおそらく流麗ではない。
これは外交交渉も同じで、必ず自国の通訳が相手に向けて外国語を話す。
言語はそれぞれ語彙や概念が異なるため、ぴったりと対応する語がない場合がある……中国語は親類すべてに個別の単語があり、逆に「いとこ」という広い概念はない。姉妹の区別が英語などにはない。
各国語の定型あいさつは中身がなく、そのまま訳そうとしてもうまくいかないことが多い。「お疲れ様」を音楽家にロシア語で直訳したところ、「疲れていたから不出来だったんだろう」という意味にとられた通訳者がいた。
・ダジャレの通訳の難しさ
・固有名詞の連続
・ことわざ
気づかぬうちに相手の気分を害している、発信者のイメージを悪くしていることもある。
罵り言葉をすべて訳すのは非常に難しい。
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通訳にとって文脈は非常に重要なので常に事前知識や前提となるテーマについて調べておく必要がある。
日本語は、特に文脈に依存する、同音異義語の多い言語である。
お互いが異なる文脈で話している場合、通訳が相互認識のサポートをできることがある。
――結局、言葉ができる方のそれが特権でもあり、義務でもあるんじゃないでしょうか。
――異なるさまざまな文化が雑居している多民族国家アメリカでは、相手が自分と同じ文脈を持っていないほうが当たり前、そういう心構えが、とりわけ不特定多数の読者を相手にする編集者にはしみついているようだ。
日本人が、コミュニケーションにおいてうまくいかない理由の分析
・閉じた日本語共同体で生きてきた結果、あまりにも省略しすぎる
・あいまいにする、ぼかす、論理性を隠す
・身内のコミュニケーションに慣れすぎて、枝葉末節に分け入り、全体が見えない話し方をする
くどくどと冗長なしゃべりをする日本人が多いがこれをそのまま直訳した場合外国人は混乱する。
日本語は子音と母音がセットで使われるため外国語をそのまま訳すと非常に長くなる。
ある通訳者は長々した前置きや前口上を「まあ」と訳した。
シャドーイングについて……
――……正確で美しい発音やイントネーション、自然で無理のない文型や表現を身に着けるためには、やはりシャドーイングは捨てがたいトレーニング方法である。
外交交渉や官僚答弁等で、あえて要領を得ない回答をする、また回りくどく答えることがある。こうした意図を通訳者は尊重しなければならない。
5
文体にまで手を出さず、基本的に標準語を使うというのが通訳術の鉄則という。
通訳者は日本語能力もまた重視される。
――日本語が下手な人は、外交語を身に着けられるけれども、その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない。コトバを駆使する能力というのは、何語であれ、根本のところで同じなのだろう。
――そもそも日本語ができるからこそ英語は付加価値に成り得るのであって、英語だけしかできない人なら、アメリカにもイギリスにもオーストラリアにも、ちょうど日本に日本語しかできない人がウヨウヨいるように、掃いて捨てるほどいる。
――……ある程度基礎を固めた母国語を豊かにし、磨きをかける最良の手段は、外国語学習なのではないだろうか。
国際会議の場において母国語を使うのは民族自決の証である。著者の首長では、総理大臣は日本語でしゃべり英語は通訳に任せるべきである。
――言語と同時に人間は、その言語の背負っている文化を否応もなく吸収してしまうようなのだ。……言葉は、民族性と文化の担い手なのである。
単語が思い浮かばない場合は類似語か、その語の定義(トンボ→ヘリコプターに似た昆虫)で間に合わせる。
異なる文化をつなぐのが通訳の醍醐味である。
――他の民族に対して自国の言語を押し付けたり、あるいは逆に強国に迎合して自国語をないがしろにしている人びとには、この感動は永遠に訪れまい。