比較言語学とは近代に創始された学問であり、特にインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)を対象とする。言語学は19世紀から20世紀にかけて大きく発展したが、本書で紹介される方法は今でも有効性を持っている。
第一章 言語の比較研究
比較研究はおもに三つの方法に分けられる。
まずは言語同士の比較である。シュタインタールは『言語構造の主要型の特徴』のおいて孤立語、膠着語、屈折語の三つの大きな型を見出したが、それが優生思想と結び付けられたことが不幸だった。
ちなみに屈折語とは「語そのものの中に形態部が渾然として融合していて、両者を分かちがたいものを指し、印欧語族の諸言語、ことにサンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語等」が該当するが、英語やデンマーク語は、ほぼ中国語に近いほど単純なものに変化している。
次に、「なんらかの歴史的に関係のあった諸言語間の比較」である。
第三の方法は、同じ系統の言語同士の研究である。よって孤立した日本語は対象にはならない。
ここで問題になるのが印欧語族である。ほかにアッカド、ヘブライ、シリア、アラビア、エチオピアなどのセム語族、アフリカのハム諸言語、ハンガリア、フィンランド語を含むフィン・ウゴール諸言語、南洋のインドネシア諸言語、アフリカのバントゥー諸言語が存在する。セム・ハム語族。
著者が指す比較言語学とはこの第三の方法のことである。
第二章 比較文法の方法
言語の根本的な機能は伝達である。音韻と意味には結合関係があり個人は共同体内の規約によってことばを発する。
「言語はその中に過去の変化の記憶をも保持しているといいうるのであって、これが言語の歴史的研究の必要にしてかつ可能な所以である」
「言語にはかくのごとく常に個別化と平均化の力が相拮抗して働いていて、言語の無限の文化を防いでいるのである」
分化の代表的な例は言語所有者の移動である。印欧語族もこうして分化したのだった。一方、言語が静的に次第に外延を拡大したときにも分化の現象が生ずる。たとえばラテン語とその派生たるロマン諸言語である。
ラテン文学に名を残すものの大半はイベリア、カルタゴ、ガリア出身である。これら地域はすでに独立心をもっており、ローマ市没落を機にラテン語も変化をこうむり、それがロマン諸言語のもととなった。
ロマン諸言語は互いに著しく似ている。――「父」を意味する語は葡語・西語padre、カタロニア語pare、プロヴァンス語paire、フランス語pere、イタリア語padreであり、「良い」を意味する語は葡語bom、スペイン語bueno、カタロニア語bo、プロヴァンス語bo、フランス語bon、イタリア語buono、ルーマニア語bun……
印欧語族は東はイラン(Iran、アーリア人の土地)、インドまで、これはインド・イラン語派とよばれる。クルド語、オセト語、アフガン語、バルチー語、ペルシア語、サンスクリット語。
スラヴ語派の原住地はおそらくカルパティア山脈地方である。
ギリシアの共通語コイネーはのちマケドニア帝国とともに広まった。
ゲルマン語派Germanicは北・西・東に分けられる。北はスウェーデン、デンマーク、ノルウェー、アイスランド語だがほぼ同一言語に近い。西ゲルマン語はオランダ語、英語、ドイツ語より成る。東ゲルマン語はゴート語に見られるが現在では死んだ言語である。
ヒッタイト語は印欧語族最古の文献を提供する(ボガズキョイBoghazkeui)。印欧語族は以上のような広大な範囲にわたっている。
これらの共通基語を解明する研究がすすめられた。比較研究は、文献以前の言語史形成をおこなうための手段なのだ。
第三章 共通基語の再建と比較資料
共通基語は梵語学者Sir William Jones以来すべての印欧比較文法学者によって意識的・無意識的に予定せられていた。そしてシュライヒャーSchleicherにより印欧母語の組織的再建が実行にうつされることとなった。
現代英語では名詞の格変化が消滅している。ドイツ語では「昼間、日」TagはTag,Tages,Tageと変化するが古英語となるとDaeg,Daeges,Daegeである。
言語の最古層とはなんであるかの問題。印欧共通基語の下にゲルマン共通基語、スラヴ共通基語等がある。ところがロマン諸言語を見るに、「これは今日ではポルトガル語、スペイン語、フランス語、イタリア語、ルーマニア語のごとくに分かれているが、これは要するに近代国家の形成とともにある一つの方言が勢力を得て多くの方言を統合した結果であ」る。つまりイタリア方言の共通基語はラテン語のなかには存在しないのと同様、「ゲルマン諸言語も遡ってみればその共通基語はすなわち印欧共通基語であったかも知れないのである」。
また「共通基語の再建が非歴史的である」ことも問題である。推測される共通基語の活用がはたして同時代に並立していたのか、そういうことはわからない。
つづいて共通基語の性質にかかわる問題、シュライヘルの系統樹。彼によれば言語はOrganismus、器官であるから「原始語と姉妹語との関係はまったく生物のそれに等しい」とした。だが「言語変化は言語の所有者が以前のように話さなくなったというだけのことで、新しい言語が古い言語とは別に生まれるわけのものではない」。
共通基語ははたして単一だったのか。そうではない。共通基語にも方言が存在したことを認めざるをえなくなった。
またラテン語の拡大をみるに共通基語の拡大も静的なものではなく政治的におこなわれたものであるかもしれない。そしてその下には埋もれた素地があったかもしれないのである。
「言語の外的歴史の知識なしには完全な分類は不可能である」。
共通基語に遡れる可能性がもっとも高いのは価値関係の伴わない音韻の史的研究である。結論としては、純粋に理論としての基語を再建することを目指すべきである。
第四章 比較方法と歴史言語学
ここでは具体的な法則がいくつか挙げられている。
――十九世紀において言語学が自然科学の目ざましい発展に刺戟されて、研究方法を自然科学のそれに求めた結果、音韻変化の規則的なのに驚いた言語学者は、不幸にもこれを音法則と呼んだのである。
だが、「言語は明らかに時間と場所との制約の下にのみ存在するものであって、音法則もまた同じである」。
「音韻変化の規則性は厳然として存在する」。
音法則は法則とはいうが純粋なる叙述であり対応と同じ価値のものである。
以下、音韻の変化について具体例が示される。
第五章 比較方法は何をなしうるか?
語源的研究……ホメーロスの詩はすでに古代ギリシアでも難解になっていた。語源の探求は古代から人間の好奇心を刺戟するものだった。だが語源とは共通基語の探求と同様あいまいなものである。
言語による先史研究……「ある言語の存在は、言うまでもなく、その言語を用いている民族の存在を予想する。印欧共通基語はこれをいつかどこかで話していた民族があったはずであって、これを印欧語民族と呼ぶ」。
共通基語に「雪」があることは彼らが雪を知っていたことまたその地域に住んでいたことを推測させる。「神」は「天界」にすんでいたとされているだろう。このようなことを言語的先史研究linguistic palaeontologyと称する。
この印欧語民族は紀元前三〇〇〇―四〇〇〇年ごろにはまだ単一であった。彼らは新石器文化をもっていた。だがそのほかのことは大部分言語から推測しなければならない。
転用があるため、どれが共通基語の原意かを定めることは難しい。生活から不要になっても語は蓄積される。たとえば弓だとか槍だとかは実生活にまったく関係がない。
そもそもの、語族―語派―諸言語という分類にある問題。まず対応の量的・質的規定は不可能である。つぎに「かかる対応を最初に認める手がかりは、外形と意味との相似にある。かかる相似が認めえない言語間においてはこの方法は、たとえこの言語がかつて同系であっても、これを認定することができないのである」。
また比較方法は印欧語内でのみ通用し、中国語やセム語のまえでは無力に等しい。また言語が分化したのか、それとも接触や混合によってできたのかを判別するのも困難である。