第十章 言語と人種と文化
――人種、言語、文化は並行的に分布してはいないし、それぞれの分布地域は、じつに困惑するほど互いに交わっているし、それぞれの歴史は、互いに異なる進路をたどりがちであることを発見している。人種は、言語には見られない仕方で混交するのだ。
自然人類学者によればヨーロッパの代表的な人種はバルト人(北欧)、アルプス人種、地中海人種であるという。言語は人種や文化にはまったく対応していない。アメリカ黒人は英語を話し、英語の象徴とおもわれるアングロ・サクソンも諸人種の混交である。
ゲルマン人がゲルマン諸語を話すというのもあやまりである。
「まず第一に、大多数のドイツ語を話すひとびと(中央および南部ドイツ人、ドイツ系スイス人、ドイツ系オーストリア人)は、背の高い、金髪で長頭の「ゲルマン」人種に属しているのでは決してなく、もっと背の低い、肌の浅黒い、短頭のアルプス人種に属するのである」。
ケルト人、ケルト語という分類も、あいまいで、純粋なものでない。英語も、アングロサクソンにとってかつては外国語であったろう。
言語と文化も対応しているわけではない。アメリカとイングランドは文化的に徐々に乖離しつつある。隣接した人種や文化は同化しがちであるのにたいし、隣接する諸言語は、「ただ偶然に、しかも皮相的な点で同化するにすぎない」。
でははたして人種と文化の「気質」というものと、言語は無関係なのだろうか。著者は明確な答えは出せないと前置きして言う、「ある言語の形式が、国民の気質といささかでもかかわりがあることを示すのは、不可能である」。
注曰く「漠然と国民的「気質」に帰せられているものの大部分は、実は、習慣的な行動、すなわち、伝統的な行為の理想の効果にほかならない」。そのときの文化が気質を生むのであり、ありのままの気質は、とらえにくい。
――言語は、話し手の感情や情緒に無頓着である。
「言語とわれわれの思考の溝とは、密接不可分に絡みあっていて、ある意味では、まったく同一物である」。言語の内容は同じだが、あらわれる形式が異なるのだ。
「ソネット形式が人種から生じないように、言語も人種それ自体からは生じえないのである」。
言語の形態と文化に相関関係はない。
「言語形式ということになれば、プラトンはマケドニアの豚飼いと同列であり、孔子はアッサムの首狩り蛮人と同列である」。
言語の内容は、文化と密接に結びついている。馬のない土地に住む民族の語彙に馬をあらわすものはない。だが言語の研究者は、言語とその辞書を同一視するような誤りを断じて犯してはならない。
――言語は、われわれの知っているもっとも壮大で包括的な芸術であり、無意識の幾世代がものした、雄大な、しかも無名の作品なのである。
第十一章 言語と文学
――芸術はすこぶる個人的な表現なので、芸術が、なんであれ予定された形式に束縛されるのを、われわれは好まない。
翻訳がなぜときにおどろくほど適切に行われるのか、彼は文学には二種の異なるレベルの芸術が絡まりあっているのではと推測する。それは翻訳によっても失われない非言語的芸術と、言語的芸術である。
言葉の内容と形式から成り立つ……シェイクスピアは翻訳しても特質を失うことがないが、スウィンバーンの詩は英語の形式に多くを負っている。
「思考とは、その外部の衣装をはぎ取った言語にほかならない」。
「芸術家は、自分の言語に本来具わる審美的な資源を利用しなければならない」。
「文学的スタイルの自然な理想は、それこそ言語の数と同じくらいに存在する」。現在、その言語に固有の伝統的な詩形式は廃れつつある。
- 作者: エドワードサピア,Edward Sapir,安藤貞雄
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