ドイツ語についての文章が多いため、ドイツ語が読めない私には8割方理解できなかった。
母音頌
ドイツ語ふくむ印欧語では母音はあらゆるものの根源をなす。われわれが記憶において日付よりも視覚像を鮮明に思い出すように、言葉において母音は描線にたいする色彩面の役割を演じている。
a-oは崇高、傾倒、讃嘆、賛同を表出し、i-uは深々としたくらい事象にむすばれていて、嫌悪、むかつき、軽蔑、不安がふりあてられている、といった細かいニュアンスはドイツ語を勉強していないので実感がわかない。
言葉になる前の叫びや感嘆はすべて母音の単声である。
「劇場での大喝采は、しばしばひとつの母音にまとまってゆく」。
――大都市で私たちをとりまいている音はたいてい悲劇的で、危険な性質のものだ
――それらはほとんど、UかIに調律されている。労働へとよびたてるサイレンのトーンは、デーモンの発明ででもあろうか。
ランボーの母音のうたをおもいだす。
母音は根源的な感情に深くつながっていて、泣き笑いにも反映する。
「とりわけ笑いは古来、ある人物の特性や異相を知るための試金石とされてきた……私たちはここからなかんずく人種のちがいをいいだしてよかろう――中国では処刑の場でさえも笑うということである。笑いはまた、われにもあらぬ低劣さを、あらわにする」。
「ヨハネの黙示録では、Aは、至上、普遍のシンボルとして語りかけられている」。
言葉とからだ
「言語とからだのあいだに豊富なつながりのあることは自明である」。
ユンガーはここでは精神が言語に先立つと述べている。またからだも言語となる。言語は人間のしごとのうちで最高のものである。
――言語が天の啓示、賜物であるばかりか、また同時に人のわざであり表現である、そのかぎりでは人間の相貌がそこに押印されているのであって、書物に印刷された文字のごとくである。
からだもまた言語に痕跡を残している。
「もし私たちのからだが、左右相称であるかわりに、ヒトデのように五角星状であったり、ユリのように六角星状であったら、語詞、概念、思考は、なんとちがったものとなるだろう」。
「ロジックは言語を支配する王ではなくて、そのしもべなのである」。
どのシンボルも相反する意味を抱えている。動物は野蛮と美徳をあらわす。かたちあるものは残る一方で亡びる。
左右ははじめから対等のものではない。スペイン語の右はla derecha,これはまっすぐtodo derechoと類似する。「右」rightと「正しい」rightも然り。ラテン・ゲルマン諸語では左は不完全な、右に準ずるものを意味していた。
オリエンテイション(方角、方位)においては東(Orient)が正である。太陽、つまり光が価値を与える。価値は向日性の植物である。
――私たちはかくて啓示された法には光を、そして認識による法にはシンメトリイを、その属性とする。
啓示された法は歴史の外にあり、時間の外にあり、雷電のように上から下へと布告される。一方認識による法は歴史によってつくられる。創造説が神の力によって行使されるのにたいし、進化論はほぼおなじものたちが時間をかけて人間をチャンピオンに押しあげた。
「不毛となった掟にふたたび豊穣なちからを賦した、このうえない例が新約聖書である」。
植物は光と種どちらも必要だが、法もまた同じことがいえる。太陽と右手、太陽と王権、右手と王権は密接につながっている。これはサンスクリットからアイルランド語まですべてに共通するという。
「身体による右と左のちがいは、論理では真と偽、法律上は正と不正、倫理的には善と悪、創世の姿をとれば権力と豊饒となる」。
拳の法権とは強者の法権である。開いた手が平和、友好、降参をあらわすのにたいし、拳は低俗な暴力などに転じる。拳銃とは騎士道を冒涜する卑怯道具である。
――幾百万もの人びとがオートマットに呪縛されて生きており、あらゆる形態が、鏡ばりの部屋にあるかのように似通っている状況においては、芸術家の責任はことのほか重いのである。かれは多数にかわって力をかし、そしてまた創造の力が死にたえていないことを、すべての人びとに証ししなければならない。
頭と足など、からだの部位からことばへ、さらにことばが帯びる目に見えない概念に言及する。かたつむりのからだは大部分が足だが、ではなぜへびは足ではなく腹で地を這うのか。
土台の上に塔は建てられる。
「建物のできのよし悪しは、高さと基礎とのつりあいの正しさからわかる。ところが、ある作品は、蛇に似てほとんど全体これ足ということがある――ハーマンや、また部分的にはバッハオーフェンにむけてこの種の異議がとなえられるのだ」。
古典とは縦横の均整を備えたもので、「幸福へのねがい、正義、そしてたとえ小規模とはいえ教養ある階層」を属性とする。
味覚、触覚は毒にんじんや強酸をはじめ種々多様な危険にさらされている。一方、視覚と聴覚は遠距離レーダーであって、直截攻撃される機会があまりない。目と耳を必殺するものとなると、呪いのビデオやらマンドラゴラの叫びの領域に踏みこんでいく。視覚は光がなければ用なしだが触角は手探りでものを把握する。「把握する」ということばがすでに触覚を示している。
それでも「人間や高等動物では眼は支配的な位置をえて」いる。表情や感情をもつ五感は眼だけだ。
耳は言葉にもっとも近い。命令体系、マニューバは作戦・用兵を意味するらしい。演説、口から出る言葉。独裁制Dictaturaは口授するdictoから生まれた。
「耳が言葉とその精気とを容れる器であるように、舌はよりぬきの官能の器官としてあらわれる」。
鼻はもっとも原始的な香気をただよわせている。
「敏感なひとは、鼻がいい、すぐかぎつける」。
鼻持ちならぬやつ。
――耳には理性、眼には洞察をおくことができても、においの感覚にはそれに対応する審理の場が欠けている。したがってまたこれを基礎とする芸術も存在しない……