19世紀末から現代までの、在日朝鮮人の歴史を解説する本。
在日朝鮮人は特殊な歴史的経緯をもって日本に定住しており、そうした事情を理解することができる。
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朝鮮人が日本にやってくるのは、1899年頃からである。九州の炭鉱会社や、朝鮮で軍事施設や鉄道工事を請け負っていた土木工事会社(間組、鹿島組、大林組)等が、朝鮮人労働者を雇い入れることが多かった。
当時、中国人は勅令により日本での労働を禁じられていたため、代わりに企業は、朝鮮人労働者を使った。かれらは労働を終えると帰国するか、または別の労働場所へと渡り歩くか、飴の行商などを行った。
1910年の韓国併合後も、日本人と朝鮮人は戸籍によって分別された。在留朝鮮人は警察の監視下におかれ、特高は内鮮係を設け、排日思想保持者を重点的に取り締まった。
第1次大戦後の1920年には、工業・紡績業の発展に伴い、男女あわせて約4万人の朝鮮人労働者がいたとされる。
1919年の三一独立運動は、朝鮮人留学生のネットワークが中心となり勃発した。
1923年の関東大震災時にはデマが流され、1000名以上の朝鮮人が警察・軍・自警団に殺害された(日本人も多数が巻き添えで殺害された)。根底には朝鮮人に対する蔑視と恐怖があり、政府も暴動のデマを流布させた。
本国に仕事がないこと、日本語が普及したことから、朝鮮人の渡航者は増え続けた。警察は、渡航を阻止するため「渡航証明書制度」という警察の内規をつくったが、朝鮮人を差別するようなこの制度は植民地支配を不安定化し、国際的な反発も予想されたため、法律にされることはなかった。
朝鮮人たちは大阪や京都といった都市部に朝鮮集落、朝鮮街を形成し、文化の保持に努めた。
家族単位の渡航が増えたため、朝鮮人たちは夜学などを開設し教育を行った。しかし政府は朝鮮語教育を独立運動として禁止した。
朝鮮人たちは労働運動、社会主義運動、福利向上のための運動等を行った。
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恐慌時には朝鮮人労働者の流入が抑えられ、代わりに満州に振り向ける方針がとられた。
在留朝鮮人には参政権が与えられ、32年には朴春琴が衆議院議員に当選し、差別解消、融和を掲げて活動した。
関東団震災以後、政府は治安維持のために、在日朝鮮人との融和を志向する「協和会」を設立し、特高・警察関係者と、朝鮮人の有力者を中心に運営させた。
強制連行・強制労働は、39年からは募集、42年からは官あっせん、44年からは徴用の形式で行われた。
いずれも、実態としては官憲による強制を伴ったが、戦後外務省が認めた強制連行は44年以降に限られている。
皇民化政策が推進され、日本での朝鮮語の使用は禁じられた。40年以降、朝鮮本土と同じく、日本でも創氏改名が定められた。
敗戦時には、在日朝鮮人は200万人に達していた。
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GHQの人権指令によって朝鮮人の計画送還が決まり、46年3月までには140万人が帰還した。
敗戦直後から1年間は、「解放された民族」として一部の中国人、朝鮮人などが不法行為(暴力団との抗争、闇市、密売)を行った。
闇市の時代から出世した人物では、坂本紡績の徐甲虎やロッテの辛格浩が有名である。
日本から出ていった朝鮮人のなかで、本国の情勢悪化や生活基盤の欠如、言語の問題などを理由に、日本に逆流する動きが生じた。
在日朝鮮人の恒久的な立場を確立するため、朝鮮連盟が結成された。この団体は、日本共産党と密接なつながりを持っていた。
左翼的傾向に反発した運動家たちは、対抗して新朝鮮建国同盟(後の在日本大韓民国民団)を設立した。朝連と建青・建同はお互いに抗争した。抗争には拳銃を持った暴力団員などが参加した。
政府当局・占領軍と、在日朝鮮人との間での争い……日本側は、朝鮮人を外国人化する一方、独自の教育を当初認めなかった。新たな「皇民化」だとし、デモや暴動が発生した後、私立学校における独自の教育が認められた。
朝鮮戦争……韓国軍への在日義勇兵、北朝鮮側による在日米軍妨害事件(吹田事件、枚方事件、大須事件、「血のメーデー」事件)。
52年、サンフランシスコ講和条約の発効により、在日朝鮮人は日本国籍を失った。また、外国人ということで朝鮮人BC級戦犯等への保障も除外となった。
北朝鮮の呼びかけにより、帰国運動が始まり約7万人が日本を去った。しかし、戦前から生活基盤を持つ在日朝鮮人の9割は韓国地域出身であり、かれらは国籍を奪われ、高い失業率と貧困のなかで生活しなければならなかった。
在日朝鮮人の生活保護率は高く、また韓国に行っても貧しくすぐに戻ってくることが多かったという。
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朴正熙軍事政権の成立と、1964年の日韓国交正常化について。
韓国と日本政府との間で、永住権協定の調整が進んだ。日本は在日朝鮮人に永住権を与え、一方韓国は、在日朝鮮人を日本に棄民する方針を進めた。
66年からの永住権申請により30万人程度の在日朝鮮人が永住権を取得し、国民健康保険の資格を得た。
この動きは、朝鮮籍の朝鮮人減少と連動し、朝鮮籍は20万人程度となった。
・2世たちの社会……公職(大学教員、地方自治体職員、弁護士)への門戸を開くための運動。指紋押捺反対運動。
・在日企業……韓国籍のマルハン、朝鮮系のモランボン。朝鮮系企業は、やがて朝鮮総連を通じて本国への上納金を課されることになった。
・70年代、朴正熙独裁の影響……金大中は民主化運動の旗手だったが東京で拉致された。軍事政権はKCIA(中央情報部)要員を日本各所に配置し在日の監視を行った。
・第3の道……日本で生活するが、帰化はせず、民族としての存在を保持すること。
・91年以降顕在化した従軍慰安婦問題は、日本の植民地支配だけでなく、韓国・在日社会内の女性差別(「汚れた女は韓国が必要とする女ではない」)をも明らかにした。
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高度成長時代、在日朝鮮人は、「地域社会の異物、もしくはせいぜい部外者として同化か異化かの二者択一の生を余儀なくされていた」。
やがて、外国人数は中国人が朝鮮人を上回り、また日系ペルー人、フィリピン人、ブラジル人等も増加した。
協定に基づく特別永住者が減る一方、帰化する朝鮮人が増え、また80年代以降やってきたニューカマーも増えた。大久保のコリアタウンは、主にニューカマーたちによって成り立っている。
朝鮮総連は本国の状況や幹部の不祥事もあり、勢力を弱める一方である。
外国人増加や、90年代の「植民地支配に対するおわび」に反発して、内向きのナショナリズムが勃興しつつある。
韓国社会は、かつては日本と同じく排他的な社会であり、華人や在日韓国人の居住を許さなかった。しかし、21世紀になり外国人の数は激増し、在日に対する受け入れ姿勢も変化しつつあるという。