◆所感
特高警察とともに思想弾圧を担った思想検事について、当時の行政文書や、検事・思想犯らの回顧資料を用いて概説する。
法の拡大解釈による様々な思想の弾圧は、特高と検察が連携することにより達成された。
さらに検察は戦後の人権指令や公職追放をすり抜けて、ほぼ人員や体制を維持したまま公安検察として継承されている。
共産党およびコミンテルンが目指していた社会は、非常に抑圧的な、人権侵害の甚だしい社会である。
一方、大日本帝国もまた自由のない社会だった。
治安維持法の拡大解釈や、戦時中の反軍・反戦思想取締、宗教弾圧は、忘れてはならない教訓である。
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太平洋戦争中は、反戦的な言動も取り締まりの対象になった。
2003年のイラク戦争に否定的な言動をして警察に任意同行される社会はどういう社会だろうか。
こうした取り締まりは日本だけでなく、古今東西、南北戦争中のアメリカ合衆国や第1次世界大戦中の英国など、あらゆる国で生起する。
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はじめに
戦前・戦中は、あらゆる反軍・反戦思想などが取り締まられたが、これを担ったのが内務省・特高警察と法務省・司法検察である。特高警察の人員が最大時9000人だったのに対し思想検事は78人に過ぎないが、その重要性は同程度である。
思想検事の役割:
・治安維持法制の柱であり、拡張解釈や改正を担った。
・「転向」方策を推進し、送検後の司法処理過程を担った。
・戦後解体された特高警察と異なり、思想検察はそのまま戦後の司法機関に吸収された。
1 思想司法
戦前の思想弾圧は1900年以降徐々に強化されていった。
1907年の赤旗事件、1910年の大逆事件といった思想弾圧事件を経て、検事総長の平沼喜一郎、鈴木喜三郎は、検察の権限を拡大した。かれらの目的は危険思想を取締り、「国民思想の確立を期する」ことだった。検事総長の地位は、司法大臣・大審院長と同レベルまで引き上げられた。
1919年森戸事件では、クロポトキンを紹介した森戸辰男が朝憲紊乱罪で有罪となった。
ここで鈴木(喜三郎)は、社会主義思想の再興や大正デモクラシーの急進化にともなって、急速に広まった「危険思想」全般に対する厳重な取締を強調し、新聞紙法・出版法・治安警察法の活用を求めている。
当初、思想検察は、特高警察と異なり具体的な情報を持たなかったが、1919年の三・一独立運動では検察自ら朝鮮における調査を行った。なお、治安維持法の最初の適用は朝鮮であり、以後も植民地ではより積極的に取り締まりがなされた。
1925年の治安維持法成立により、思想弾圧・予防体制が確立した。1928年、三・一五事件(特高警察主導により、全国で1600名あまりの共産党員等が検挙された事件)後、司法省は治安維持法を改正した(死刑の適用、目的遂行罪の採用)。
また各検察に思想部が設立され、思想を専門に担当する検事・書記が配置された。
思想係検事は次のような事件を担当した。
・左傾運動
・皇室に対する罪、内乱罪
・出版犯罪(朝憲紊乱、秩序壊乱、尊厳冒涜、思想に基づく風俗壊乱)
・反動運動(右翼)
・労働運動と労働争議
・農民運動と小作争議
・水平運動
・騒擾罪
その後、特高警察からのレクチャー、朝鮮・満州・中国やフランス等の視察・出張を通じて、思想検事の機能強化が図られていった。
2 弾圧と転向
東京地検思想部が作成した執務要領から、当時の思想検事の業務をうかがい知ることができる。
・捜査の準備:
思想研究、情報の収集整理、出版物の収集整理、過去事件の批判研究、捜査方法の研究、実況視察、協議及び連絡、書類の作成配布、司法警察官の教育、法令研究
・捜査:管轄事件、出版物の検閲、事件調査
・公訴
・刑の執行
・思想犯人の保護並びに思想犯の予防
思想検事が特高から独立するのとあわせて、治安維持法の解釈も拡張されていった。
・京都学連事件までは「私有財産制度の否定」が焦点だったが、三・一五事件以後は、「国体」の変革が焦点となった。
我が帝国は万世一系の天皇君臨し、統治権を総攬したまうことをもってその国体となし、治安維持法に所謂国体の意義またこれに外ならざるが故に……
・目的遂行罪の適用により、共産党所属でなくとも、「共産党の目的に寄与した」だけで罪となった。このため外郭団体や非党員が大量検挙された。
満州事変以後、共産党の勢力は衰えず、反軍反戦思想活動が活発化した。この時代は大量の検挙が行われた一方、執行猶予率が8、9割と高く、また懲役も2~3年であることが多かった。
一方、植民地では非常に重い刑が執行された。
大量検挙主義を掲げる特高に対抗し、検事はいかに立件するかの証拠固め、また思想犯の保護や転向に関して先導をしようと試みた。
思想検事を中心に「転向」のための方策が検討され、また法務省は転向した思想犯の保護観察団体を設置した。
1933年、共産党の重要人物である佐野学と鍋山貞親が転向声明を出したことは特高・思想検事にとり追い風となった。
……さらにこれを広く見れば、日本民族は君主を中心とした大家族主義で微動だもしない。この動かざる国民の精神が、ひいて思想犯人を愛情によりて転向せしめる原因を造る。
司法省の思想部門は拡充され、また血盟団事件や五・一五事件を受けて、国家主義運動担当部署も設置された。
1935年の天皇機関説事件では、これまで通説とされていた学説を起訴するかどうか、思想検察でも論議があった。
さきの「起訴稟議案」では、「主要罪状」として、「美濃部の根本思想において民主主義的傾向を有し、国体の本義を尊重せざる」云々があげられていた。もはや、「民主主義的傾向」それ自体が、「国体」に反するものとして断罪されようとしていたのである。
3 思想戦
ファシズム体制への転換、戦争の拡大を受けて、思想検察は共産党の取り締まりだけでなく国民精神の統制・指導といった役割も担うようになった。
1935年には元思想犯の完全転向を目指した保護観察制度が開始した。これは保護観察によって日本精神の習得を行わせるものだった。
一方で、特高・思想検事の徹底した取り締まりにより共産党はほぼ壊滅状態となり、取り締まるべき対象がいなくなるという問題が発生した。
このため両機関は対象を拡大し、民主主義的・自由主義的団体もまた監視し、革命組織であるコミンテルンへの認識や認知が不適切であれば処罰できると法的解釈を拡大した。
またこれまで合法だった社会民主主義も弾圧対象となった(第一次、第二次人民戦線事件)。
さらに、新興宗教も国体を否認し銃後の国民精神をかく乱するものとされ、弾圧された。
宗教の持つ現世否定的傾向とその理想社会への希求とは容易に宗教的妄想と結合し、ややもすれば不敬ないし国体非人的な傾向を有する……
司法省思想部と思想検察は、裁判所に対し思想判事の設置を要請した。司法省のトップは検事で占められるようになり、裁判所への発言権も強くなったためである。
裁判所もまた、思想の統制を推進しようとした。
1940年には、「皇国的検察精神」が司法省刑事局長によって唱えられ、全検事の思想検察化を推進した。
4 思想国防体制の構築
対米戦争開始後は、司法省・検察が戦争遂行に協力するようになり、東條英機も検察を叱咤激励した。東条は「必勝のための司法権の行使」を唱えた。
治安維持法の改正により、思想検察の権限はさらに強まり、取締は厳格化した。
・強制捜査権の付与
・予防拘禁制度
・取締の拡大……反戦・反軍的言辞、在日朝鮮人の独立運動、宗教運動
「決戦段階ゆえに刑罰も厳重化すべき」の発言について。
戦局の悪化に連動するように、検察の試みも荒唐無稽になっていく。
・思想犯をボルネオ島に「島流し」し更生しようとしたが、第1陣は半数が戦死・戦病死した。第2陣は到着前に輸送船が攻撃を受けて沈没した。
・労働意欲のないものを練成する係の設置。
5 公安検察への道
敗戦直後も検察は存続し急いで事件を終結させた。
1945年10月にGHQから人権指令が発せられ、治安維持法は廃止、特高警察も廃止、内務省警保局の特高関係者、司法省保護観察関係者は全員罷免となった。
しかし司法検事は指令に含まれておらず、検事たちは引き続き公職に残った。また労働運動の取り締まりや、朝鮮戦争勃発に伴う共産党取締の波に乗じ、思想検察は公安検察として復活し、思想検事出身者たちが検察の要職を占めるようになった。
思想検事の立役者たちは、治安維持法や思想検察について概ね肯定的であり、こうした意識が戦後も受け継がれた。
治安維持法に準ずる破防法が成立し、公安調査庁が設置されたが、現在でもその団体規制が凍結状態であるのは、戦後の市民運動によるものである(その後、オウム真理教事件などで適用が始まる)。
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