うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本残酷物語5』 ――残酷フルネス

最終巻は明治以降の貧困がテーマとなっている。

都会のスラム、北海道のタコ部屋、遠洋漁業、炭坑、農業などの現場について紹介される。

北海道に住んでいたときに通った道路やトンネルの多くがタコ部屋労働によってつくられたとおもうと歴史はまだ生きていると感じる。

 

日清・日露戦争後、傷痍軍人は世の中で差別を受けた。この現象は、ちょうど最近読んだソ連に関する本『Secondhand Time』にも登場する。

 

ソ連は)ドイツという豊かな国に勝利したが、ソ連兵たちは帰国すると貧しい配給品のために
数時間も列に並んだ。 
傷痍軍人は母国では特に忌み嫌われた。戦争を思い起こさせるものは何でも嫌われた。

 

 

1章 根こそぎ

1 都会の島々

国家から見捨てられた底辺労働者とその地域について。

  • スラム街の生活……日払い宿で生活する人間は、日雇いの給料を毎日宿に吸い取られるため、抜け出すことができない。宿を経営するのは地元のボスである。
  • 日払いアパートでは3畳、4畳の部屋に一家が生活し、寝場所がないため子供、母親、父親が交代で寝る。生活を失った独身男性は、バクダンといわれるメチルアルコール製密造酒を飲んで、道端で気絶してはまた飲む。
  • 大阪のスラム街釜ヶ崎は明治時代以降に成立した。大正以降、近辺にあった被差別部落と一体化し、また朝鮮人流入していった。
  • 明治20年頃の記録によれば、露店では残飯が売られており、コレラの温床となっていた。コレラで死んだ場合は葬式をしなくてよく、さらに死体を運ぶことで日当が得られた。

 

 ……名護町での変わった職業の1つにガタロというのがある。ガタロは河太郎すなわち河童のことをさしているらしく、市街のなかの川や溝に身体ごとつかって、底の泥をすくい、そのなかから金物をひろいあげる職業で、まれには金の指輪を掘りだすこともあるという。

 

神戸の新川部落に住む日雇い労働者の多くは、港湾労働に従事する。

いやな荷物……牛の生皮、硫黄、小麦、黒鉛などの化学肥料、セメント。

 

セメントは顔がコンクリートになる。……化学肥料の荷役は……作業を終えたころには指紋がなくなっている。

 

新川部落が、大規模な貧民の流入で成立したのに対し、もう1つの神戸の長田地区は古い歴史を持つ。

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2 東京の奈落

関東大震災以後、日暮里、板橋、南千住、西新井などが貧民窟として発展した。

貧民窟では、乞食はまっとうな商売であり、特に収入の多いハンセン病者がもっとも幅を利かせている。屑拾い、もく拾いはみじめな仕事され、中にはこっそり家や店に入ってごみくずを拾ってきて転売する者もいる。

酒と賭博は貧民にとっての生きがいである。

貧民の子はシマの子と呼ばれ差別され、正規の小学校にも行けないことが多かった。

 

第2次世界大戦直後、上野寛永寺の徳川家墓石を柱として貧民がテント小屋を建てたため「葵部落」と呼ばれた。かれらは一度追い出されたが、持ち物整理のために侵入し一夜で仮小屋を復旧させた。

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「役人というものは午前9時前には出勤しないので、その前に片づけて、もとのとおりに建てておきました」

 

3 女工

明治20年代頃から盛んになった紡績工場は、地方に募集人を派遣し、良い環境で働けるとだまして人さらいのように女工を調達した。女工らは2交代、徹夜、最長36時間の過酷な労働に従事させられ、寄宿舎に軟禁された。

とある工場では、脱走を試みた女工は裸で縛られて殴られ、食事を抜かれた。年に2、3人が死に、屍体は樽に詰めて庭に埋めた。

コレラが蔓延したときは、感染した女工に無理やり毒薬を飲ませ殺した。まだ絶命していない者もまとめて焼却炉に持っていき焼いた。

工場監督官が巡視にくると、違法の幼年工を隠した。

 

よくボイラー室にとじこめておき、そのまま忘れて多数の幼年工を焼き殺してしまったということが、昭和のはじめごろにもあったという。

 

女工が風邪をひいても、冷水を浴びせて働かせる世話係がいた。あるとき女工が復讐のために包丁で世話係の眼を突いた。

太平洋戦争後、朝鮮特需の時代にも、工場の合理化は続けられ女工の労働環境は向上しなかった。自殺や発狂するものが頻出したが、工場側はこれを本人の原因であるとした。

女工たちは劣悪な環境に苦しめられる一方で、争議や労働運動によって抵抗した。労働環境の整備や規制はこうした抵抗によって徐々に実現されていった。

 

鹿児島は女工の生産地だったが、女工以上に厳しい仕事が農家の女中(めろ)だった。牛馬と同じ衣食住環境で、家の奴隷として働いた。

 

3章 地の果て

1 監獄部屋

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明治20年代後半以降、人手不足に苦しんでいた北海道の土木工事において、労働者の監視や軟禁・逃走防止が図られるようになった。

これがタコ部屋の起源である。

北海道の道路、鉄道、築港、治水、灌漑工事、鉱山開発やその他の社会インフラは、タコ部屋、監獄部屋と呼ばれる強制労働によってつくられた。

募集屋が都会で人をだまし、刃物を持った監視人によって北海道まで護送され、地元警察とつながった監獄部屋のボスの下で監禁され、土木作業に従事させられた。

見張り人は無宿無頼の徒や前科者があてられることが多く、しばしば虐待や殺人が発生した。

 

監獄部屋の組織:

  • 管理人
  • 世話役
  • 帳場
  • 棒頭(見張り人)
  • 飯台取締。

 

明治のフランス刑法導入により北海道に集治監(刑務所)がつくられると、囚人たちが開拓工事に使われた。

明治22年から空知監獄囚徒1200人あまりを借り出した道路開削工事では、900人が疾病し、82人が病死した。

 

集治監には津田三蔵などの国事犯や、明治の名だたる凶悪犯罪者のほとんどが収容されていた。凶悪犯や大泥棒たちは監獄には慣れており、ささいな理由で脱獄を繰り返した。看守も自衛のために必要であれば脱獄犯を一刀両断した。

あるとき集団脱獄した一団が村の金貸しの家に押し入り、一家を皆殺しにして山に逃げ込んだ。村の猟師を含む討伐隊が派遣され、脱獄囚たちを狙撃し最終的に残った者を捕まえた。

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2 海の流刑囚

明治初期、北海道開拓使が北海道の行政を担うようになったのと同時期、千島列島にラッコが生息していることを各国の密猟者がかぎつけ、ロシア、アメリカ、イギリスなど様々な国のハンターたちが出現した。

密猟者たちは根室や函館など北海道各地に停泊し、日本の役人を相手にのらりくらりと答弁し立ち退きせず、また密漁したラッコの毛皮も引き渡さなかった。

こうした密漁船には日本人乗組員も多く含まれ、またアイヌも乗組員兼射撃手として採用されていた。

蟹工船などの北洋漁業は戦前から厳しい労働だった。船上での虐待や虐殺が頻発したため、やがて共産主義者や活動家に目を付けられ、赤化活動の場となった。

 

3 炭鉱労働

炭鉱労働者のなかには、罪科を見逃してもらうかわりに穴に入っていくものもあり、かれらは「川筋下罪人」と呼ばれた。

 

  • 納屋での集団生活
  • 金券支給
  • 二交代、後に三交代制



炭鉱労働者の地区は周囲から差別された。また、明治初年から朝鮮人の労働者もおり、戦時中には徴用されてきた。かれらもまた差別の対象となった。

夜逃げは頻繁に起こった。炭鉱労働者の子供たちは、父、母の違うたくさんの兄弟と一緒に、炭坑から炭坑へ連れまわされた。無籍の子供も多く、正規の学校にいけないため炭坑の寺子屋に通い読み書きを覚えた。

 

 

4 地下の戦闘

炭鉱でもっとも危険なのはガス・炭塵爆発で、最大の事故では600人以上の死者が発生している。

 

3章 大地のうめき

1 農村

貧しい農村では女児の身売りが常態となった。

2 米騒動

1918年7月に発生した富山県魚津町における米騒動の背景には、漁民たちの極貧生活があった。

騒動は、米の値上げに苦しんでいた京都柳原の被差別部落民に飛び火した。差別やそれに由来する濃い血縁によって連帯する京都市各地の被差別部落がこれに呼応し、米屋を襲撃した。さらに騒動は農村の被差別部落に伝播した。部落民は多くが貧しい小作農であり、副業をしつつ米屋から米を買って生活していた。

騒動全体では、被差別部落民の蜂起は4分の1(残りは平民の蜂起)だが、直後から政治家・警察・世間の間で被差別部落の暴力性や凶暴性を喧伝するデマが発された。

 

山口県宇部村の宇部炭鉱では、鉱山労働者による賃上げ騒動が発生した。労働者3000人規模の暴動に軍隊が出動し、13名が死亡した。

 

4章 狩りたてられた者

1 半島

日本兵たちが目撃した朝鮮人慰安婦の姿や、労働者として、周旋屋に騙され内地に連れてこられた朝鮮人について。

朝鮮人に対する人種差別は苛烈であり、さらに炭坑などを脱走した場合は会社が雇っている暴力団にリンチされた。

 

2 戦勝のかげ

日清・日露戦争以後、廃兵(傷痍軍人)が増加し問題になったが、政府や国民はかれらに冷たい仕打ちを行った。廃兵は恩給だけで生活できず、家族に捨てられることが多かった。廃兵の子供はいじめられ、また徴兵忌避する例がよくあった。

戦傷で手がカニのようになったある兵士は、手続きができずに恩典を受けていなかった。

戦前には廃兵団が議事堂前などで抗議を行い、恩給を増額させたこともあった。