うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本残酷物語3』 ――DIVIDE AND RULE

メモ

  • 鎖国の成立には、隣国である明や朝鮮が同様の政策をとっていたことが影響している。
  • 幕府の統治においては、下の身分や被差別民が抑圧のはけ口として利用された。
  • 各藩、各集落は孤立し、また共同体の中でも相互監視が行われた。こうした閉鎖的な意識はまだ日本人のなかに根付いているという。
  • 長崎に旅行したときは、この本に出ている教会などを観光した。



 

 

 

 

1部 禁制をおかす者

1 鎖国

幕府の鎖国政策によって海外貿易は長崎に限定されるようになったが、そこには多くの密貿易人たちが集まった。

当時の言葉で抜荷というが、唐人や紅毛人(オランダ人)はさかんに密貿易をもちかけ、また荷を検査し港湾や外国人を監視する役人も、密貿易に係わることが多かった。

品物を運びこむために、密貿易者は多くの役人を買収した。

 

抜荷ものの処罰は時をさかのぼるほど苛酷であり、遠島、死罪はざらであった。……こうした重罪人の処分は江戸幕府への伺いがすんだうえでなければ決定しなかったから、たとえ犯人が自害しても屍体を勝手に処分できなかった。江戸からの返答が長崎にとどくには、早くて3か月かかった。そのあいだ屍体は塩づめにして腐敗をふせぎ、返答到着後あらためて屍体を獄門やはりつけにした。

 

希少価値のある朝鮮人参のために大規模な密貿易団が活動していたが、その実行役は対馬人であることが多かった。

対馬藩と朝鮮は、互いに密貿易者を取り締まる協定を結んでいた。

一方、薩摩藩は藩主島津家自らが大々的に密貿易を展開していた。

国内に支那語朝鮮語の練習所を設け、また口永良部島に秘密の洋館をつくりイギリス人とも交易した。藩は密貿易を独占しようとしていたが、港の住民たちもからくり屋敷や船の隠し倉庫をつくり密貿易に励んだ。

 

2 くるす

 

キリスト者の迫害は秀吉から始まった。宣教者の追放から徐々にエスカレートし、やがて虐殺が頻発するようになった。

 

島原の雲仙岳における虐殺について。

 

この刑罰を最初にうけたパウロ内堀作右衛門は、同囚16人とともに馬にのせられ、白煙たちこめる雲仙岳の火口につれられた。そして硫黄のガスが鼻孔をさす地獄谷の池に裸でたたせられ、背中を立ち割って、その傷口に熱湯をそそぎこんだり、煮える池のなかに身体を沈められたり、さまざまの責め苦を受けた。

 

悪人が死罪を逃れるチャンスを得るため、きりしたんと名乗り長崎に移送を乞う、また人間関係トラブルから相手をきりしたんだと告発するもの、自殺のため自らきりしたんと名乗るものもいた。

牛肉食は、秀吉の時代からきりしたんの兆候だとされていた。

宗門改や奉行には、背教者や元信者が登用された。かれらは過酷な尋問・取締をおこなった。

 

島原の乱で4万人以上が殺害されたあとも、天草の集落にはかくれきりしたんが多数潜伏していた。

かれらは19世紀はじめに宣教師が来ると、ふたたびカトリックに戻った。

 

1865年、開国にともないやってきたフランスの宣教師2名が長崎の大浦に天主堂を建てたところ、信徒たちがあらわれた。カトリックではこれを「キリシタンの復活」と呼ぶ。

その後、浦上のきりしたんたちが表立って仏寺に反抗したため、奉行、手付(被差別部落民)、町司、遊撃隊ら170名が浦上を襲撃した。

 

キリシタン襲撃にたくさんの部落民が利用されていることは注目される。このときの記憶が生々しくかたりつたえられ、浦上付近のキリシタンの一部には、いまも部落民をはげしく憎悪するものがある。

キリシタン部落民。かれらはともにおなじ支配者から迫害を受け、世間の人びとから偏見でみられ、おなじように貧しさにあえぎながら、かえって迫害と貧しさの記憶によって相互の憎しみをきざみこまれたのである。

 

幕末から明治はじめにかけても、きりしたんの復活とそれに対する弾圧が続いた。

大村藩から五島に移住した多くのきりしたんは、僻地や不毛の地に住まわせられ、土地の人から見下され苦しんだ。

久賀島(ひさかじま)では数十名の信徒が拷問され、32名が死亡した。なお、大村藩では人口過剰のため藩による強制間引きがおこなわれており、これが信徒たちを苦しめた。

新政府は各国外交団の抗議を無視し浦上信徒3000名を流罪にした。

しかし、その後条約改正の為に国際社会と妥協し、明治6年には切支丹禁制が解かれた。

ja.wikipedia.org

 

3 かくれきりしたん

長崎県平戸市生月島に住んでいた数多くのカクレキリシタンは、カトリック解禁後も教会に戻らず、戦後まで「隠神」の信仰を続けた。

 

4 異端

日蓮宗は足利幕府の時代から権力者に進言や折伏等を行ったため弾圧された。

秀吉が千僧会を開くとき、秀吉に服従するか否かで日蓮宗が分裂した。不受不施派日蓮宗の本家から分裂した。かれらは一貫して権力から迫害され、拷問を受け続けてきた。

また、岩手ではかくれ念仏という風習が国中に普及しており、役人の取り締まりを受けた。

薩摩藩では、島津家が熱心な禅宗であったことから一向宗浄土真宗)が禁制であり、信者は拷問された。

 

 

2部 国を恋う人びと

1 漂流

嵐により漂流することになった船乗りについて。

かつて日本の造船・公開技術は大航海時代の水準と引けを取らないレベルだったが、鎖国以降、日本の船は劣化し、江戸期の漂流民も外海に出ると、おみくじに運命をまかせるしかなかった。

江戸期に漂流し生還した舟のほとんどは、漁船ではなく豊富な物資を乗せた廻船である。

帰ってきた人びとは、幕府の取り調べを受けた後、幽閉されるか、あるいは外国の見聞を吹聴しないことを条件に、苗字帯刀を許され扶持をもらう者もいた。

幕府の役人や研究者たちは、漂流者の体験や記録を熱心に集めて外国の状況を知ることができた。

 

2 流されびと

八丈島や長崎の五島、佐渡隠岐壱岐といった島は古来から流刑地として用いられた。流刑地では、流人と島民が協力して生活したが、しばしば飢饉に見舞われた。

脱走を試みた罪人は死刑になった。脱走事件が起こった場合、島民が討伐した。

 

流刑となった罪人のほとんどは二度と出られない島で平穏に暮らし、子孫を残した。

 

 

3部 鎖国

1 士族

薩摩藩は江戸時代、部外者の侵入を厳しく取り締まっていた。関所では入国者がきりしたんや一向宗ではないか調べられ、国内を歩く際は監視員がついた。これは、幕府や隣国を遮断し、琉球や大陸との密貿易の秘密を守るためだった。

 

明治維新の担い手となった薩摩藩には深刻な身分対立があった。

上士は下級武士(郷士……農耕を行う武士たち)を見下し、下級武士は百姓を酷使した。

幕末における武士と平民の割合は、全国では6%対94%だったのに対し、薩摩では26%対74%だった。

戊辰戦争が終わると再び城下士(城下町のエリート士族)と郷士との対立は深まり、特に地租改正によって郷士が土地持ちになったのに対し、城下士は没落した。

西南戦争は、私学校出身の城下士の不満が原因となって起こった。

その後も士族と平民の身分意識は残り、公職・警察官・教員などは士族が独占した。

こうした封建的な風習がようやく下火になったのは第2次世界大戦後である。

 

2 武家の女性

水戸藩の対立について……光圀以来の勤皇の伝統と、徳川家に近いことからくる佐幕派が国内で対立した。

佐幕派は攘夷派に対し過酷な弾圧を行ったが、維新後に権力を奪取した攘夷派もまた報復のために私刑や略奪を繰り返した。

 

天狗党の乱では、一族郎党・子供・女中までもが水戸藩において斬罪となった。

戊辰戦争時、会津藩の士族女性は多くが従軍し、敗北すると心中した。

 

3 藩境をこえて

南部藩で発生した三閉伊一揆について。南部藩は江戸に入ると金・銀・銅の算出が落ち込んだ。

藩政は腐敗し、農民には重税が課された。

一揆の発生は藩にとっても打撃であり、徳川幕府は、何か騒動があると度々外様大名を処分し、中央集権化を進めていた。

 

 

4部 身分制

1 部落

被差別部落民の歴史について語られる。

明治の身分解放令に伴い、かねてから新政府の政策(徴兵令や地租改正)に不満を持っていた農民は、部落民が平民となって増長しているとして襲撃した。

美作騒動では数万人の農民が穢多部落を襲撃し十数人(うち半数が女性)を殺害した。

ja.wikipedia.org

 

解放令が出てからも、部落民は新平民、新民として公然と差別を受けた。

 

つまり四民平等になったというのは法制上の問題だけであって、社会的にはなんらあらたまることはなかった。

 

とある周防の農村の話。

 

このあたりの民家は夜戸はしめてもかぎをかけるようなことはない。かぎをかける家へは娘があっても若い衆が夜這いにいくことさえできぬ。夜這いに行けぬような娘は嫁入り時期になっても相手にするなといって、軽蔑されるので、どこの家でも戸締りはルーズであった。

 

1933年、および戦後の1954年の裁判では、部落出身の素性を隠して女性と交際した男が起訴され有罪となった。

このときの裁判官は、「特殊部落民でありながら自己の身分をことさらに秘し、甘言策謀を用いて彼女を誘惑したるもの」、「被告人方が……世人よりひそかに蔑称され、一般社会との交際疎遠である所謂特殊部落内の一家であるとの観念のもとに……」という事実を認めた。

 

法にもとづいて世人の偏見を正さねばならぬはずの裁判官が、あべこべに世人の差別を法律的に認めようとしている。これでは世人の偏見が容易になくならないのも当然といわねばならない。

 

教育界における差別や、部落出身者の貧困・低所得といった状況は戦後も残された。

 

また部落内の企業家で、こうした部落の人びとの失業状態を利用して低賃金で使用して利潤をあげているものもある。

……このような人物は官庁や外部に対しては部落を代表しているように振舞うのである。そしてこのような人びとからよく解放運動に対して「寝た子を起こすな」という反対の声が出る。本人は財力もあり、社会的地位も獲得しているから解放の必要もないであろうが、その足の下にはたくさんの声を出せない部落の人びとが苦しんでいるのに気がつかないのである。

 

部落にはこのようなボスがついてまわる。

差別は戦争末期の前線においても見られた。

 

2 身売り 奉公

人身売買は元和(1619年)に禁止令が出されたが、当時から蔓延しておりその後も根絶されなかった。

貧しい地方では人身売買は一般的であり、また伊勢神宮にお参りする子供たちを誘拐する勢力がいた。

地主に労働力を提供しなければならない名子という身分が東北にはあり、その地主は地頭と呼ばれた。

名子は地頭の者と会ったら額を地面につけてあいさつした。この関係は戦後の農地解放まで続き、また主人と下人の意識はその後も残った。

 

おわり

 

 

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

the-cosmological-fort.hatenablog.com

the-cosmological-fort.hatenablog.com

the-cosmological-fort.hatenablog.com