うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本残酷物語 1』その2 ――飢饉から生まれた人食い女

 

 南部藩において、領内で畑を泥棒する者が次々とらえられ、カマスをかぶせられて川に流された。

 明治・昭和の飢饉……明治2年の飢饉では外国米を輸入した。このときもたらされた南京袋はその後さまざまな用途に用いられた。

 

 農民は、高値の国産米は売り、自分たちは安く味の劣る外国米を食べた。

 生産者である農民は貧しく、かれらはふだん、大根、野草などを混ぜた飯を食べていた。

 米の品種改良について……「亀の尾」、「愛国」、「愛国亀の尾」。

 

 自然の悪霊

 かつて日本各地に原因不明の風土病がいくつも存在し、住民を苦しめた。

 

 日本住血吸虫(山梨県など)……水田や川に生息するミヤイリガイを媒介にしたセルカリアの寄生により、下痢、嘔吐、肺病、血、膿汁、腹の膨脹などの症状が出て死ぬ。

 この寄生虫は石灰散布、溝渠コンクリート化などで撲滅された(現在はほぼ根絶した)。

 

 ツツガムシ病……ダニから感染し、高熱により死ぬ。政府は有毒地を指定するが、大抵肥沃な土地であるため、住民は立ち入って農作業せざるを得ず、結果的に被害がやまなかった。

 

 フィラリア症……アカイエカから感染し、陰嚢肥大化、乳び尿、象皮症などの症状を引き起こす。特に温暖な地……南九州、天海、沖縄、種子島屋久島、トカラ列島などで多い。

 

 離島には固有の風土病……寄生虫やウイルス、細菌が繁殖していることが多かった。

 風土病と異なり、悪疫は爆発的な感染を引き起こし、恐怖を生んだ。

 

 ――むかしはコレラも、赤痢も、チフスも、すべて疫病とよんで1つにしていたように、それぞれの流行病の正体はほとんど暗黒のなかにあった。したがって防疫の方法も皆目立たず、疫病は暗黒のなかで、無力な人びとにむごい力をふるったのである。

 

 悪疫流行時に役所が示す御触書は、効果のない迷信療法から進歩しなかった。

 外国船から持ち込まれたコレラの拡大について。コレラ隔離をめぐって各地で暴動が発生した。

 疫病にかかった屍体の埋葬をめぐって、村どうしで抗争が起こった。

 キツネ憑きや癩病など、迷信や科学の未発達に起因する偏見や追放がおこった。憑き物筋に対する弾圧・処刑は、ときには役人ぐるみで実施された。

 癩病患者は四国に追いやられ、また九州には癩病患者が多く、かれらは村落からも追い出された。

 ミス・リデル・ライトは癩病患者のための救護活動に尽力し、回春病院を建てた。

 

 

  ***

 3章 弱き者の世界

 

 老人と子供

・間引きと堕胎は日本中で広く行われてきた。その原因は貧しく多産な点にある。

 一方、徳川将軍は40人、50人と子供を残すことがざらにあった。

・村において一定数以上子供を産む者は畜生腹と呼ばれた。

・堕胎には毒薬が用いられ、死んだ子供を水子といった。

・新生児のまま死んだ子供には幻子、幻女などの戒名がつけられる。多くの間引きされた子供がそこに含まれる。

・間引きや堕胎ほど残酷ではないが、捨て子や身売りも広く行われた。漁師町は労働力確保のため養子を重用した。

・死に対する穢れの意識があり、役に立たなくなった老人は隔離された。姥捨て山のような風習は事実である。

・身寄りのない老人、子供に先立たれた老人たちは集落から見捨てられるため、首吊り自殺することが多かった。

 

 女の座

・伝統的に女の地位は低く、その人生は服従と沈黙を強いられるものだった。

・女性は結婚前に見聞を広めるため、女中奉公することや、物参りの旅に出ることが推奨された……田植えの手伝いや農家への出稼ぎ、四国遍路など。

・嫁いだ女は肩身の狭い中、野良仕事・家事労働を強いられた。

 また義父への性的奉仕を「粟蒔き」といった(「……三百両も大金出してもらったヨメだ。みなで使わなかったらもったいねえでねえか!」)

・岐阜北西から富山にかけて、白川郷の中央にあたる諸集落があり、ここは大家族の風習を残していた。そこではツマドイ婚が行われ、家長のもとに数十人が同居した。この風習は、徴兵制により若者が外の社会と関わるにつれて、また経済的に立ちいかなくなるにつれて消滅した。

・月経の女は穢れとされ掘立小屋に追い出されるなどの風習があった。

 

 はたらく女たち

 女性は畑仕事だけでなく炭焼き、炭鉱、機織り、海女など様々な労働に従事した。

 

 遊女

 北陸の遊女は、「もとは神おろしや口寄せをしながら田舎わたらいをした熊野巫女のように、ときには家々の祭りにも招かれて神の声のとりつぎをしたものだが、神の祭りをぬきにした酒の座もちをするにいたった」。

 江戸時代、遊女は一般人との結婚を禁じられた。遊女を正妻にしようと関所破りなどの罪を犯した大名の家来たちが死罪に処せられている。

 特に西日本で遊女に対する偏見が強く、体質が通常の人間と違うと考えられていた。

 港町には必ず遊女がいた。

 遊女の主要な顧客に僧侶がいた。大塩平八郎の時代、幕府が取り締まりを行ったときは、僧侶が大阪の街から消滅したという。

 ゴケとは未亡人または独身女性をいうが、この女性たちも日本各地や、北海道などの開拓地で売春を行い生計を立てた。

 

 天草女

 天草は長崎でも貧しい地域であり、島原の乱以降、九州各地から植民が行われ人口密度が急激に高まった。天草出身の女は国外への出稼ぎにいくことが多く、その大半が女郎屋で働かされた。

 明治の始まりとともにシンガポールやフィリピン、中国などアジア各地に日本人が進出したが、そこには必ず女郎屋と遊女が存在した。

 

 本書は海外女衒の元締めである村岡伊平次を紹介している。

 かれは当初、誘拐され国外で売春させられている日本人女性を救出していたが、女たちの処置に困り、別の国の女郎に売り払った。

 やがて村岡は人身売買と女郎屋経営、賭場経営によって蓄財し、前科者やならず者を集めて誘拐団を結成した。誘拐団は日本各地で女をそそのかし港から出向させ、海外拠点の女郎屋で働かせた。

 遊女たちは本国に送金を続けたため、国内にいる親族や隣人にはその実情がわからず、海外で成功したと思われることが多かったという。

 

 かれの女衒事業は国家主義と結びついていた。女を誘拐し海外で働かせることでそこに商業が根付き、日本の経済拠点が確立するからである。

 

 ――「……おれは、諸君が今一度りっぱな日本国民になり、国家をきずきあげる大事業にたずさわり、一人でも多く国家にご奉公する人間になることを願うのである」

 

 ――「……ただしそれがためには、いま一度だけ国法をやぶり、罪をかさねて、そのうえであたらしく生まれ変わる必要がある」

 

 教師になれる、養蚕工場で働ける、雑貨店で働けるとの口実で女を誘拐し、現地の女郎屋で働かせるという慣習は、そもそも日本の貧しい人びとを対象として行われていた。

 

日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)

日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)