うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本残酷物語 1』その1 ――飢饉から生まれた人食い女

 古代から近代までの、歴史の奥に埋もれた貧しい人びとの生活を描く。

 

 ――これは流砂のごとく日本の最底辺にうずもれた人びとの物語である。自然の奇蹟に見放され、体制の幸福にあずかることを知らぬ民衆の生活の記録であり、異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現代の狂熱のさなかでは、生きながら化石として抹殺されるほかない小さき者の歴史である。

 

 出典は主に当時の文献からなる。

 

 ◆所感

 1巻「貧しき人びとの群れ」では、貧困に苦しむ農民やその他の人びとに焦点をあてる。

 大多数が貧困や病気、暴力のなかで生きてきた日本人の歴史を、様々なエピソードや記録によって明らかにする。現代からは想像もつかない慣習や価値観を知ることで、歴史を理解する助けにもなる。

 

 『兵士たちの近代史』では、近代化の象徴として、当初、軍隊が民衆から支持された経緯を説明しているが、その背後には本書が語るような悲惨な社会があったと推測できる。

 最後の「天草女」では、現在まで後を引く慰安婦問題に連なる話――貧しい女をそそのかして誘拐し、海外で遊女として働かせる女衒たち――に言及する。

 

 『残酷物語』でえがかれる悲惨な人間の生活――残飯・生ごみを拾って売る、人肉を食べる、子女をだまして売春婦として海外に売り払う――は、近現代でも世界各地で発生している。

 

 

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 上のドキュメンタリー映像と完全一致する「生ごみ・残飯売り」習慣が、『残酷物語』4巻か5巻に載っている。

 自分たちがどのような時代を経て今に至ったかを知らなければならないと感じた。

 

 

  ***
 1章 追い詰められた人びと

 

 海辺の窮民

 海辺の村々にとって漂流船や沈没船の積荷は生きるために不可欠の物資だった。かれらは海風の神に祈り、通りかかる船が座礁し漂泊するのを願った。

 それどころか、村が沈没船を略奪することも珍しくなかった。漂着した舟は略奪され、船員はときには口封じのため殺された。

 船頭と海辺の村が共謀し、わざと船を沈めて積荷を山分けすることもあった。

 瀬戸内海は海賊の跋扈する海として船乗りから恐れられていた。海賊のほとんどは近隣の貧しい人びとによって構成されていた。海賊は明治中頃まで残存していた。

 ある村では、年貢米を運ぶ江戸幕府(公儀)の船を襲撃し、略奪した。また、調査にきた役人をも殺そうとしたため、軍が派遣され鎮圧された。

 

 山民相奪う

 日本は山がちな地である。戦火や圧政から逃れるために、人びとは山奥に入りこんで暮らさなければならなかった。その生活は過酷であり、旅人は下手をすれば殺された。また住民同士もお互いに殺し合い、略奪しあった。

 しゅう馬の党は、9世紀ごろに坂東に出現した、馬借・運輸業を営む武装強盗集団である。かれらは馬泥棒かつ盗賊だった。

 それ以外にも、山中には多くの盗賊がいた。

 山村の家には、山を背にし、間口を広くとることで侵入者に備えるよう設計されたものが多い。

 

 天竜川の断崖にへばりつく家々は、侵入者がやってくるのを監視する機能を持っていた。

 静岡・愛知・長野の国境である坂部(現在の天龍村)は日本有数の山岳地帯だが、ここに落ち武者や落人がやってきて住み始めた。お互いに「猫の額ほどの」土地をめぐって殺し合い、やがて自衛のための連合を組み始めた。

 やがて坂部も戦国大名の戦争に巻き込まれ、土豪たちも百姓となった。

 

 掠奪に生きる

 強盗武士……戦国大名の中には、完全に強盗だけで生計を立てるもの……近隣の富豪から強奪し勢力を広めるものもいた。

 かれは最後には敵の計略によって追い詰められ滅亡した。

 四国……土佐は貧しい地域であり、山林を盗伐するものは取り締まられた。伊予は主に平地からなるが、さらに貧しく、飢饉のときには土佐の山にやってきて木の伐採などを行った。

 農民は副業として工芸品を作り、町に下りて売って回った。町民が買おうとしない場合には、かれらは付け火をおこなった。

 買わなければ放火されるということで、お互いに生き延びるため便宜を図らなければならなかった。

 

 放火は京都などの古都では慣習となっていた。強盗は逃げるときに放火して時間を稼いだ。

 

 都会の各所には犯罪者が集まった。京都七条の五回裏には盗品が集まった。

 江戸、大坂、京都には乞食や犯罪者があふれ、当局は厳罰……磔、斬罪、火あぶりをもって対応した。しかし、主に貧しさからくる犯罪は後を絶たなかった。

 

 乞食

 日本は貧しい国であり、乞食がいたるところにあふれていた。乞食たちは非人頭などの統制下にあることが多かった。

 乞食のなかには癩病患者(ハンセン病患者)も多かった。

 飛騨はかつて天領であり、百姓たちは救恤米などで生かされていたが、明治維新とともに失業する者が増え、出稼ぎ乞食が激増し、「飛騨乞食」と呼ばれた。

 

 著者(宮本常一)が聴き取りした乞食の話……性に寛容な社会、馬喰に対する蔑視。

 農村では、農業に従事しない人間、異なる職業の人間は異端者として扱われる。

 

 

  ***

 2章 病める大地

 

 飢えの記録

 享保天明天保の飢饉にまつわる話。

 

 ――むかしの飢饉というものは、今日では想像もつかぬほどの、はげしい破壊的な力をふるった。生産力がひくく、飢えと粗食が日常であった時代には、凶作はただちに生死の問題に直面することであった。しかもいつ救済の手がのびるか、まず期待できなかったのである。

 

 こうした大飢饉は全国規模ではなかったが、余裕のある地方からの食糧移送などの政策はあまりとられず、甚大な被害を生じた。

 飢饉になると餓死者が続出し、都市部でも自殺者が毎日出た。飢饉の後には疫病が蔓延した。

 

 天明の飢饉……転がる屍体、家畜や木を食べる。

 

 ――人肉の味をおぼええた犬は、やがて生きている人間までかみ殺すようになった。

 

 とある娘は、実家に行くと家族が餓死しているのを見て悲しんだが、飢えの為に屍体を食べた。味をおぼえた娘は自分の夫や子供を殺して食べた。

 

 ――また倒死人の肉を食い、あちこちの新しい墓を掘り起こし、夜な夜な生きている子供まで追い求めるようになったので、近所のものが相談して、ついに殺すことに決められた。しかし凶年の百姓5、6人がかりでは、女は頑健でとても手に負えない。棒や鎌をもって追い立てたところ山奥へかくれ、今度は焚き木取りの者を殺して食うようになった。そこで狩人にたのんで猟犬で狩りだし、ようやく鉄砲で射殺したという。

 

 人食いが暴れ、また私刑にされた。人肉を食うこともあったが、家畜(犬や馬)を食うこともまたあった。

 

 乞食や非人たちが街路にあふれ、また屍体も積み重なった。

 都市部にも飢えが襲い掛かり、米の値段を釣り上げる米屋に対して暴動が発生した。

 

 天保の飢饉……政府は備荒食を配備したが、それでも飢饉の被害を抑えることはできなかった。

 [つづく]

 

日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)

日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)