うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本残酷物語4』 ――ニートになった旗本が強盗殺人犯になる

 

 

所感

  • 幕末から明治にかけての民衆には、正確な情報を知るすべがなく、デマや荒唐無稽な噂が大きな力を持った。また人びとは、今日からは想像もつかないほど暴力的である。
  • 社会が急激に変化することで、それまで通用していた職業や産業が消滅していく様子をたどっている。かれらはかつて存在し、いまは歴史のはざまに消えた人びとである。武士階級は没落し、また庄屋や名主の中でも地方で領主のような力をもっていた者たちが、徐々に村人から反抗され勢いを失っていく。
  • アイヌが土地や生業を奪われ、徐々に絶滅・同化させられていく過程が描かれる。
  • 移民は貧しい国家が必ず生み出す存在であり、かつて日本からも多くの移民が海外に向かった。そしてその多くは、あっせん業者にだまされて苛酷な労働をさせられ、また現地社会からは排斥された。
  • 明治時代のアメリカにおける日本人移民排斥は、多くの国や時代で行われてきた移民排斥運動とまったく同じ様子である。

 

1章 過渡期の混乱

1 庶民

明治維新は、正確な情報の得られない農民にとっては新しい災厄ととらえられた。

「新政府を運営するのは外国人であり、キリスト教を強制される」といううわさが流れた。また廃藩置県で藩主が東京に去ると、藩主からの涙金を庄屋が横領したといううわさもあった。

廃藩置県に合わせて広島では大規模な一揆が発生し多数の死傷者が出た。

各藩が劣悪貨幣や信用のない紙幣を作ったため民衆の不満がたまり、信州松代では藩機関が焼き討ちされた。

福岡では、デマを発端に竹槍騒動という大規模な騒乱がおこった。

徴兵が実はみせかけで、実際は外国人が人体から脂を絞り殺す策謀だといううわさが広まり一揆がおこった。血税一揆は各地で発生した。

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当時の農民には、洋式建築の学校、徴兵令、髪形服装の規制、「裸の禁止」などすべてが、国による統制と解釈された。

 

2 うばわれた山林

木曽(長野県)の木は品質が良いといわれていた。しかし、幕府・新政府が森林伐採を規制したため住民は困窮し、盗伐が行われた。

江戸時代には、山林の多くは無主無住の地とされ、山村の民は自由に出入りしていた。しかし新政府が官用地に指定するともはや住民は入れなくなった。

山林が国と大地主のものになると、林業労務者が生まれた。かれらは山奥で賭博や酒にひたりながら木を切り、またその子供は帯同であれば学校に通うことができなかった。

国有林関係の役人もまた山奥での仕事を強いられたため、絶望して退職をする「辞職峠」が全国に多く残っている。

山村の人びとの間では密造酒が盛んで、いろいろな隠し場所で酒を造った。

 

3 開化

黒船来航後の貿易開始によって、米価の値上がりや生糸・茶の値上がりが発生した。一方、絹織物産業は輸入により打撃を受けた。こうした状況で多くの商人が投機を行った。

戊辰戦争後の江戸は、多くの大名が屋敷を引き払い、子供たちと盗賊のたまり場となった。残った武家たちは呆然とし、一銭の収入にもならない商売をしようとしていた。

 

江戸のある問屋では、女主人が丁稚奉公と性交渉しテストした後、この若者を娘と結婚させる習慣だった。

 

没落した旗本の中には犯罪者になった者もいた。

 

 剣術のできるもので、強盗殺人を働くものもかなりいた。切ってやる、殺してやる、という腹立ちまぎれなニヒルな気持ちから出発して、それで天朝に逆らい、幕府の旧恩にこたえているような自己満足も感じていた。

 

かれらはしばしば、同じ武士出身の巡査と戦闘し、夜明けには屍体が転がっていた。

 

横浜の混血児:

  • 開国直後、外国人との交際は公娼のみが許可された。外国人と付き合う女はラシャメンと呼ばれる。ラシャとは羊であり、イギリス人が船に羊を持ち込んで犯すという風習から来たという説がある。
  • 外国人用売春婦が多く出現したが、齢をとったものは用がなくなったため、中国人商人によって異国にまとめて売られていった。
  • 混血児は忌み嫌われ捨てられた。堕胎や性病によって死ぬ「ラシャメン」が多く生まれた。また、ある4人の混血児は橋の建設の際人柱として生き埋めにされたという。

 

  ***

2章 ほろびゆくもの

1 町村

明治から日清・日露戦争期にかけて、筑豊地方では石炭運搬に川舟が使われた。その他河川の交通は全国でさかんだったが、鉄道建設が始まると、船頭、農村、問屋などが反対にまわった。

廃藩置県後、特に雄藩の武士は多くが東京に移住したため、城下町はさびれることが多かった。一万石、二万石の小規模城下町は跡形もなく消えて水田になることがあった。

 

時代の歯車はあくまでも非情であった。古い生産基盤と生産様式にのるものの存在はたやすくこれをゆるさずゆすぶりつづけ、やがては没落へ追い込んでいった。

 

2 流亡の邑

明治政府時代から、僻地に住む人々は軽視された。政府がかれらの後進性を指摘しても、その対策はとられなかった。

北陸山間部では雪崩が頻発し、そうした谷は「アシタニ」と名付けられている。大雪に見舞われた農家は家から出られなくなり、4カ月近く冬眠するようにじっと横になって過ごした。

 

村人を一番悲しませたのは、冬の間に子供を死なせることであった。……すでに冷たくなったものを、後始末のために、一日中雪の中を背負って歩かねばならぬほどむなしい悲しさはない。

 

雪崩は「アワ」とも呼ばれたが、これが襲いかかれば家がまるごとつぶれ中の住民は死んだ。

ダム建設のために補償金をもらい、大阪など都会に向かった村民の大半は、都会の空気で肺をやられ、また金品をずるがしこい人びとにだまし取られた。

ある村では、都会に出た人の大半が行方不明になった。

 

三陸地方は津波被害にたびたび見舞われた。津波襲来の知識がある者がいるといないとで、避難の速度、死者数に大きな違いが生じた。

明治29年三陸津波が発生したときは、政府の復興対策がほぼゼロだった。津波の直後は、波を警戒して内陸側に家を建てようという呼びかけがあったが、徐々に不便さから海岸に移動していき、数十年後に再び大きな被害を出した。

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和歌山の十津川流域はたびたび水害と土砂崩れに襲われたが、あまりに頻繁なので人びとは気にも留めなくなっていた。

食い詰めた十津川郷士たちは北海道に渡り、新十津川開拓を始めたが、多くは馴染めずに失敗し北海道内に四散した。

 

一部は郷里にもかえったが、多くは郷里にかえることを恥じた。十津川郷士として敗北の姿を郷里にさらしたくなかったのであろう。そうしてじつに移住者の6割が新十津川をはなれて道内各地を流浪した。この人びとを「十津川衆」といった。

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3 士族

初期の屯田兵は、困窮した士族が採用されることが多かった。かれらは開拓地で厳しい教練・訓練・警備や演習に従事しながら農作業に従事した。

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下級武士たちの多くは、北海道や福島など僻地の開拓要員として送り込まれた。これは、士族反乱が問題になったときにはかれらの雇用対策となった。

西南戦争後の士族反政府派は、板垣退助が率いる土佐愛国社に集結したとみられていた。

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4 アイヌ

近代以降、アイヌは和人に対したびたび反乱をおこしてきたが、鎮圧された。

明治維新後、アイヌは和人に騙されたり脅されたりして土地を追われ、また鮭や鹿の乱獲によってアイヌの狩猟業は立ちいかなくなった。

松浦武四郎アイヌの生活や和人とアイヌとの関係を記録したが、幕府はその出版を禁じた。

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旭川では、土人保護法に基づいてアイヌに一定の土地が与えられたが、役人や和人に騙されて困窮することになった。かれらは農業を知らなかったので、和人に開墾してもらい、小作権を設定され、名ばかりの所有権しか持てなかった。

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千島・樺太には漁労で生活するアイヌが生活していたが、日露両国が領土拡大を進めるとその影響を直接被った。

 

北千島に居住していたクリルアイヌは、日本政府の方針により全員が色丹島に移住させられた。色丹島には海獣がおらず、また農業の習慣もなかったため数年後には半数が病死した。

残ったアイヌも減り続け、第2次世界大戦が終わるとさらに色丹から根室に追い立てられた。

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樺太の日本側に住んでいたアイヌたちは、日本政府の以降で北海道中央部の江別太に移住させられ、炭鉱労働に従事させられることになった。この移住は脅迫をともなうものだった。

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こうして自然から離されてしまったアイヌたちは、賃金労働者として働くより途がなかった。しかも最下級の、もっとも危険な労働に……。

 

アイヌの若者の一部は、射撃の技術を生かしてオットセイ漁船等に乗り込んだ。

 

***

3章 流離

1 落伍

封建制時代の村共同体は、明治政府の政策……個人に対しての課税、職業選択の自由、個人の所有権……が広まるにつれて、崩壊していった。

 

村八分というと、すぐそれを封建的残存部分のように考えるむきがあるが、これはまちがっている。むしろ共同体的な部落から近代的な部落へとかわってゆく過程で生じたものである

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村八分は、独立農民が他の農民に対して合法的におこなう排除行為だった。

 

愛媛の山中のまずしい家などでは、大正時代までは女の子が生まれると赤飯をたいて祝った。成長してから売るとよい金になるからである。男の子ならば二、三男以下はただ同様に他の地方の者にくれてやった。

 

2 漁民

(略)

3 家

明治は多くの没落者、敗残者を生み、様々な犯罪者を世に放った。愛媛では村落を恐怖させる大泥棒の話がよくあった。

 

4 移民

1866年、慶応2年に幕府が海外渡航を解禁すると、江戸、神奈川、函館、長崎の奉行所で旅券発行が行われ、多くの日本人が海外に向かった。

明治元年にハワイに渡った移民は、明治維新の混乱のなか、旅券ももたされず、半ばだまされるように連れてこられた。かれらの多くは農民でなかったが、現地で甘藷栽培に従事しなければならなかった。賭博や喧嘩の好きな者が多く、他の移民たちは悩まされた。

移民総代表の牧野富三郎は、日本政府とハワイ政府に嘆願した結果、現地のアメリカ企業による待遇は大きく改善された。

 

www.aloha-program.com


ハワイでの生活も楽ではなかったが、日本のように上の身分の者に頭を下げる必要はなかった。

 

アメリカ東部に向かう日本人は多くの場合その地位も高く、境遇もめぐまれ、明治政府から留学を命ぜられた者や官費の旅行者が多かったが、西部に上陸してそこにおちついた者の大半は貧困のために本を捨てた者か、または難船して漂着したものであった。

 

……横浜はそこに集まってくる労働者や外人を相手の売春婦がぐんぐん増えていって、明治10年代には、3000人をこえるほどになったというが、そういう女たちが海のかなたへこぼれ出始めたのである。

 

売春婦の誘拐船や、密航で大量死する事件が頻発した。政府は国家建設に注力しており、生活の立ちいかない人びとが海外に多く流出した。

ハワイへの官約移民は希望者が多かったが、現地では日本人や東洋人は差別され、参政権を与えられなかった。また移民のなかにも無頼の徒が多く、ホノルルやヒロには賭博売春の黒社会が生まれた。

 

サンフランシスコに向かった移民も、排斥運動の標的になった。

 

移民の道は実にけわしかった。そこには、祖国の劣弱な姿がそのまま反映していたのである。

 

直接アメリカ大陸に向かう移民は、ハワイの契約移民とは異なり、資産を持っているものが多かった。

 

日本からやってくる移民の9割は「苦力のような下等労働者」であるとされ、明治初期から、中国人と合わせて蔑視や排斥運動は始まっていた。日清・日露戦争で日本が台頭すると、日本人への蔑視や危険視に変わった。

 

日本人は他の民族にくらべてアメリカに同化しがたく、危険な民族である。かれらは人種的に非常な誇りをもっており、その国家的観念をなくしようとは少しも考えず、アメリカへきたのは、かれらのほこる大和民族をこの地に扶植しようとするにある」

 

フランス領ニューカレドニアグアテマラなど、悪徳周旋業者に連れていかれた移民たちは過酷な労働を強制され、全滅した一団もあった。

沖縄は最貧県であり、1899年には、暴君といわれた奈良原知事の政治に苦しんでいた。沖縄出身のハワイ移民は、日本人からいじめを受けた。

 

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とりわけ沖縄の労働者にとって何よりも我慢ならなかったのは、同国人である日本人ルナ(労働者監督)の冷酷な仕打ちだった。……同じ日本人の労働者仲間でも「沖縄人」といって、言葉の通じない同国人を馬鹿にするむきがあった。

 

日露戦争前から、フィリピンにも大量の沖縄移民が渡航し、危険な道路工事や麻栽培に従事した。

 

つづく