うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『We Crossed a Bridge and It Trembled』 Wendy Pearlman ――シリアの中の人の証言

 ◆所感

・アラブ語圏滞在歴の長いジャーナリストが、シリア内戦についての証言を集め組み合わせた本。

 シリアのハーフェズ・アル・アサド政権時代からデモ、内戦、難民発生にいたる様子を、当事者の言葉によって描く。

 

・シリア人たちの生活や境遇に関して証言を聞くことは非常に重要である。独裁政権の下で長年生きていたシリア人たちの多くは、穏健あるいは世俗派であり、賄賂やコネ社会、秘密警察による監視に苦しんできた。

・シリア人たちが、生身の人間を伴わない単なる概念として取り扱われたとき、「悪いのはデモの学生、中東では秩序が最も大事」、「シリア人はアサドが一番ましということを高い授業料を払って学んだ」、「難民になって生活保護を受けるのではなく、国内で戦って解決しろ」などの、そこで生活している人を侮辱するような言説がまかりとおる。

・シリアは、少数派であるアラウィ―派が、他の少数派や商人階級を味方につけて統治していた国であり、その権力基盤は軍と秘密警察だった。国には大量の秘密警察、密告者が存在し、国民の自由や権利はほとんど存在しなかった。

 住民の証言からは、文化的・経済的にもまったく異質な人びとが強い権力によって統治されていたユーゴスラヴィアが連想できる。

・バッシャール・アル・アサドが大統領に就任した2000年代以降、縁故主義や腐敗、失業率が悪化し、大量の不満を持つ若者が生まれた。これが反政府デモのきっかけとなった。

・シリア内戦に対する論争の焦点は、当初のデモがどのような目的でなされたかということである。

 

 本書では、デモは長年の圧政に対するシリア人の蜂起だとする見方である。一方、アサド政権擁護派は、デモを西側諸国の工作・過激派のテロ活動だと非難する。

 しかしシリアにおける反政府抗議活動初期の動きを見ていると、アメリカや西側諸国は非常に消極的である。欧米が実際に軍事活動を開始したのは、ISISがシリアを拠点にイラクに進出してからである。

 

 

  ***

 1 権威主義

 シリア軍は、フランスが作った組織であり、その原理は分割統治だった。

 軍は少数派をさかんに採用し、アラウィ―派、キリスト教徒などが多数派のスンニ派アラブ人を支配するようになった。

 ハーフェズ・アル・アサドは自らの出自であるアラウィ―派に国家統治を行わせるだけでなく、ライバルとなる同胞も粛清した。

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 1982年、ハーフェズ・アル・アサドに対する反乱がハマで発生したとき、政府軍は住民を無差別に攻撃した。兵士はゲーム感覚で市民を拉致し拷問・処刑した。

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 シリアは、表面上は安定した、しかし実態は恐怖に支配された国家だった。より腐敗したものが上にいき権力を持った。学校長は絶対的な権力を持っていたが、清掃員を畏れていた。清掃員はみな政府の密告者だったからだ。

 

・医者を目指すある人物は、秘密警察に呼び出され、医師免許取得と引き換えにスパイになることを要求された。

戒厳令が敷かれ、学校では軍隊式教育が実施されていた。結婚式や、読書でさえも、当局のコントロール下にあった。もしくは、全生活をコントロールされているような感覚に陥っていた。

・子供の時、学校の汚れた場所を掃除するための委員会を作ったところ、校長が激怒し、父親に対しどんな本を読ませているのか、と詰問した。教育の目的は、国民から夢見ること、考えることを奪い、ただ飲み食いし、子供を育てるだけの動物に仕上げることだった。

 

 

 2 失望

 バッシャール・アル・アサドは民主的・リベラルという触れ込みで登場したが、シリア人学生はこれが嘘であるとわかっていた。

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 かれらは大学において、シリアの政治や社会問題を議論するフォーラムを作ったが、間もなく警察に逮捕され監視下に置かれた。

 

 アサドは政治システムをコントロールすることができず、高級官僚の言いなりになった。肥大化する公共部門と赤字を解決するため、突如資本主義が導入された。すなわち、大統領に近い2つの一族があらゆる企業を保有するようになった。

 一切の福祉システムが停止し、2006年には干ばつで食い詰めた農民が都市に押し寄せた。

 公務員の給料さえまともに払われず、警察署が組織的に当たり屋行為を行い市民から金をせしめ、分け合っていた。大統領夫妻は見る見るうちにリッチになり、着飾っていた。

 現アサド政権が始まってから、格差は拡大し、宗派間の不公平が増大した。賄賂は日常的になり、バース党員の資格も売買された。

 

 

 3 革命

 チュニジア、エジプトにおける政権崩壊は、シリアにも拡散された。2000年代から抗議活動やデモは始まっていたが、周辺アラブ諸国の動きはシリアの大衆運動を加速させた。

 

 Daraaでは、学校の落書きが原因で多くの子供が秘密警察に逮捕された。保護者が抗議すると、B.アサドの甥にあたる警察責任者は「子供のことは忘れてまた子供を作れ」といった。これがSNSなどで拡散し、激しいデモの契機となった。

 デモや落書き、抗議活動はシリア全土に拡大した。治安部隊は取締や銃撃を行い、またデモ隊に潜伏した。

 デモに参加した人びとは、初めて自分の感情を発露できたことで感動し涙を流した。

 

 湾岸諸国で育ったあるシリア人学生は、シリア人の奴隷根性に我慢がならず、シリア人をやめたいとおもっていた。しかし、かれはデモの光景を見て感動した。

 

 わたしは自分が出自を否定したことを申し訳ないとおもった。また、シリア人を悪く言い、かれらを臆病者といったことを申し訳ないとおもった。

 

 

 4 崩壊

 デモに対してB.アサド大統領はテレビでスピーチし、「もしおまえたちが戦争を望むなら、われわれは準備ができている」といった。体制支持派もショックを受け、この男はシリアを統治するに値しないと感じたという。

 

 治安部隊や警察は抗議者とその家族を拉致した。ある少年は全身にタバコを押し付けられ、また刃物で切られ、首の骨が折られ性器を切断された状態で自宅に返された。こうした行為から、反政府側は、政府との対話は不可能だと悟った。

 

 アラウィ―派コミュニティの多くはアサドを憎んでいたが、コミュニティはアサド政権のライフラインだった。政府は、過激派が流入してアラウィ―派を迫害するだろうと警告した。政府は州は対立を煽ったが、実際にはスンニ、シーア、クルドその他は連帯していた。

 市民たちはうかつだった。負傷した市民を政府の病院に連れていくと、市民は射殺されてしまった。

 シャビーハと呼ばれるアラウィ―派のギャングたちが政府に雇われて無差別に市民を拉致・拷問した。狙撃兵が都市のあちこちに潜み、市民を射殺した。

 

 

 5 軍事化

 デモに対する暴力的な弾圧を受けて、一部の反体制派は武装した。亡命軍人は武器を集め政府の監視所などを襲撃した。

 反政府側のミスは、国際社会が支援してくれると期待していたことだった。オバマエルドアンは「レッドライン」に言及したが、実際的な支援はなく、反政府勢力は孤立無援となった。

 

 シリア軍は徴集兵から構成されていたが、かれらは国営テレビの情報のみを与えられており、反乱を鎮圧するとしか聞かされていなかった。

 ホムス包囲戦においてシリア自由軍に参加した兵士は、指揮官が物資を横領するのをみて幻滅した。

 かれらは空き地で榴弾砲を撃つ様子をビデオに録り、それをトルコやメディアに売って金を稼いでいた。シリア政府だけでなく自由軍の指揮官も内部にスパイを置いていた。

 

 2012年、アサドは過激派を釈放した。かれらはヌスラ戦線に合流した。ヌスラ戦線は当初、シリア自由軍が制圧した都市を後から占領しにやってきた。ISISに対してシリア自由軍は完全に敵対していた。

 アレッポにもISISがやってきたため、世俗派の戦闘員たちは、残虐な軍罰の庇護を受けなければならなかった。ある戦闘員は戦う意義を見失いシリアを去った。

 

 

 6 戦争

 爆撃や戦死・殺害が日常となり、携帯電話の連絡先で生きている者は稀になった。死者から連絡が来た場合、それはだれかの罠だった。

 

 政府軍は、レバノンヒズボラ、イラン、ロシアから支援を受けて各都市を包囲し、市民を無差別に砲撃した。

 

 ダマスカス郊外に、Yaumoukという地区があり、20万人ほどのパレスチナ難民が生活していた。反乱勢力がこの地区に浸透を試みたため、パレスチナ人自警団はこれを防ごうとした。しかし反乱勢力が地区を奪取すると、政府による砲撃と狙撃が始まり、大半の難民が逃げ出した。無差別攻撃は、「おまえたちは反乱軍を招き入れた。これはその報いだ」と言っているように聞こえた。

 

 政府軍は当初、ISISを攻撃しなかった。ロシア空軍や反ISIS連合による爆撃が、一般市民を殺傷した。

 

 政府側地域と反乱地域に分断されたアレッポの様子は、サラエボに酷似している。境界上にある大通りは「死の交差点」と呼ばれ、毎日多くの人が渡り、20人程度がスナイパーによって殺害された。

 

 たる爆弾は建物全体を倒壊させることができ、市民にとって脅威だった。

 アレッポの反政府地区にやってきたISISは、はじめは大した勢力ではなく、子供にお金を与えて、ヴェールをかぶらない女に石を投げさせる程度しかできなかった。やがてかれらは町を統治するようになった。

 

 

 7 逃亡

 トルコやレバノンに亡命した難民たちは、その国の劣悪な環境下で、低賃金労働者として働くことになった。

 

・子供たちは、いつか学校にいくことを夢見て働いている。壁のある本物の家に感激したある娘は、壁の横にいる自分を写真にとってもらいたがった。

・ヨルダンのZaatari地方は、草木も生えない不毛の砂漠だった。シリア難民はそこにあてがわれた。ある日、難民たちが蝶を発見し、みなで興奮して騒いだ。

・密航業者の力を借りてヨーロッパやリビア、エジプトに行く者も多かった。

・密航船に乗っていた兄弟……途中で船が壊れて沈んだ。人びとは救命胴衣をめぐってお互いに殴りあった。そのため、救命胴衣を着ていないほうが安全だった。

・とある難民は言う……シリア人の命は、その他の命よりも劣等である。シリアには友人はいない。シリアは、大国同士が遊ぶためのチェス盤に過ぎない。

・亡命先のスウェーデンでIDを無くしたシリア人は、警察署で親切に対応された。シリアで無くした場合どうなるかを思い出した。

 

シリアがここの民主主義システムの10パーセントでも持っていればよかったのにと思う。もしそうだったら、革命は起きていなかっただろう。

 

 

 8 回想

 シリア革命と内戦を回想する人びとの言葉が続く。

 

・自由と民主主義はタダではないが、シリアはあまりに高い代価を支払った。

・アサド政権は、少数派を保護しているのではなく、少数派を操り自分たちを保護しているに過ぎない。

 

アラブ人はかつて科学と代数学を発明したことで知られていたが、いまは殺人者として有名である。

 

・最初の革命運動は失敗だったのか? わたしたちはより注意深く、組織的にできたかもしれない。