◆所感
歌舞伎とはなにかについて解説する本。
歌舞伎の成り立ちや、時代ごとに生まれたテーマや題材、著名な作家の代表作や役者について知ることができる。
ただし、各作品の細かいあらすじは、なかなか追うのが大変である。
明治以降も、ヨーロッパ演劇の要素を取り入れて歌舞伎は変化していったが、現在は新作が生まれず岐路に立たされている点を指摘する。
観客の大半が地方からの団体客で、歌舞伎という芸能を探究していくことが難しい状況にあるという。
最近SNS上で話題になっている舞妓と同じく、歌舞伎も成立の過程で性風俗や人身売買、身分制などが密接に関連している。
芸能を時代に適合させつつ保持していくというのは困難であると感じる。
***
1 歌舞伎の夜明け
カブキの由来は、関ヶ原の戦いが終わり、平和の世に行き場がなくなった牢人たちの振る舞いに由来する。
かれらは安定の社会に適合できず、派手な服装や長い刀(生き過ぎたりや、の銘文)を身に着けて道を練り歩いた。
ほぼ同時期に、出雲のお国という巫女が、男装して踊るカブキ踊りが行われていた。お国は傾奇者に変装し、女装した狂言師とともに、茶屋で売春に興じる「モノマネ」踊りを行い人気を博した。
性的な刺激や踊り・音楽による刺激に観衆は熱狂し、家康やその子供たちも、お国を招いてほうびを与えた。
おとなしく秩序の中に生きる生活者ではなく、逆境に生きるエネルギッシュで個性豊かな人物。そこにこそ、傾奇者の傾奇者たるゆえんがあったのではないか。
カブキがいつまでも「歌舞伎」と呼ばれ続けてきたことの根拠に、このかぶいた主人公の発見があるのだと思う。
お国が飽きられて地方に行くのと前後して、茶屋の経営による、遊女や若衆(少年)の歌舞伎が行われた。
観衆は遊女・若衆の踊りを見定めて、その後売春行為におよんだ。
徳川幕府は社会秩序確立のため、1608年に遊女の歌舞伎を禁止し、遊女を一か所に集めその範囲内で営業させた。
――1612年、お国は京都に戻ってきた。その年、江戸では、傾奇者300人あまりがいっせいに逮捕され、死刑に処せられた。お国は、それから程なく引退したとみられている。
若衆の歌舞伎も1651年には江戸で完全に禁止され、その後全国に禁令がいきわたった。
2 劇として
1680年頃、歌舞伎は「狂言尽くし」といった変名で行われた。
この頃、女性の物真似をおこなう若衆役者を「女方」というようになった。かれらは女性表現をベースに技芸を洗練させていった。
「ふたなりひら」とは、両性具有と、両性愛者在原業平をかけた言葉である。
狂言や前句付けといった知的な、言葉の芸能が台頭するのにあわせ、狂言尽くしも単純な踊りから物語的な芸能に変化していった(続き狂言へ……『今川忍び車』、『非人敵討』)。
この時代に歌舞伎の基盤となる役柄や「ヤツシ」などが定着した。
役柄:
・立役(たちやく)……成人男性、善人
・女方……成人・未成年女性、善人
・若衆方……未成年男性、善人
・親仁型……老男性、善人
・敵役(かたきやく)……成人男性、悪人
・花車方(かしゃがた)……中年以上女性、善悪双方
「ヤツシ」とは、身分を下降させて本来の生活とは違う生活を生きる人物をいう。智略のために身分をやつす者と、貴種流離譚に通じる、落ちぶれて身をやつす高貴な身分の者とがある。
『けいせい仏の原』などで題材にされる客と傾城(遊女)との関係は、封建社会の制度の1つであった婚姻と対比して、「人間的な、利害関係を超えた性愛」の意味合いを持たされていた。
ヤツシという造形が生まれた背景には、太平の世となり、不安定な身分のまま放り出された牢人たちの存在がある。
3 義太夫狂言と舞踏
18世紀に流行していたのは竹本義太夫の人形浄瑠璃であり、かれの座で活躍したのが近松門左衛門だった。浄瑠璃のために作られた『国性爺合戦』などが歌舞伎にも取り入れられ、義太夫狂言と呼ばれた。
人形浄瑠璃から歌舞伎に移行する際には、台詞の口語化、登場人物の増加などの加工がなされた。
脚本を離れて独り歩きするような得意芸を繰り返すのではなく、脚本の内容、もしくは、脚本に書かれた人物像との関係の中で演技を創造することが求められたのである。
義太夫狂言は人形浄瑠璃の音楽性や舞踏の要素も取り入れた。巣の人間としての演技「地芸」に対して、「怨霊事」という表現も発展していった。
「無間の鐘」や『道成寺』といった演目では舞踏が取り入れられヒットした。
人びとが役者に求めたのは、せりふに従属する肉体ではなく、肉体の動きそのものによる劇的な心情の表現だった。
4 歌舞伎再興
並木宗輔……浄瑠璃および歌舞伎作者として有名。『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、『仮名手本忠臣蔵』など。
かれの弟子並木正三は「愛想尽かし」、「殺し」という痴情のもつれ型を創造し、やがて四代目鶴屋南北に受け継がれた。
並木正三は舞台機構や仕掛けも発明した。
5 鶴屋南北と棺桶
鶴屋南北は大器晩成の作者で、首席作者となったのは45歳過ぎである。
南北は役者の尾上松助とともに新しい仕掛けを開発し、人気作を世に出した。
『天竺徳兵衛韓噺』……異国人の血を引く男が幕府転覆をたくらむ。
『東海道四谷怪談』……忠臣蔵の裏で、犠牲になった妻が怨霊となり報復する。
南北は棺桶のモチーフを愛用した。棺桶は「この世とあの世との境に人を位置づけ、生と死の相異なる2つの世界を媒介して人間を両義的に存在させるための仕掛け」だった。
6 黙阿弥と白浪物
河竹黙阿弥は19世紀に活躍した作者である。かれの作品では武士身分からドロップアウトした人物たち、白浪が描かれる。かれら盗賊たちみおヤツシの一種だが、すでに復元力を失っている。
黙阿弥の描く義賊たちは、世の不安を反映したものだったが、かれはまた極悪非道の人間も題材にした(『勧善懲悪覗機関』)。
7 狂気と英雄
明治維新によって平民はほとんど影響を受けなかったが、士族は没落し武士階級の62パーセントが極貧状態に陥った。
河竹黙阿弥はこうした没落武士を主題に作品を書いた。
新政府は1872年、歌舞伎界に介入し、リアリズムや歴史的事実を尊重すること、「大星由良助」や「羽柴久吉」といった歴史的人物の虚構化を禁止することを命じた。
これは、狂言綺語を廃し、歌舞伎を道徳教育に資するものにしようという政府の思惑によるものだった。
こうした潮流を受けて、「活歴」とよばれる写実的な作品が生まれた。活歴自体はあまり流行らなかったが、人物造形に写実性を取り入れるという点でその後の歌舞伎に影響を残した。
1888年、改良演劇協会が東京に歌舞伎座を設置した。以降、上方歌舞伎は衰退し、歌舞伎の中央集権化が進んだ。
観客は外国人と東京見物の地方民が主となった。歌舞伎座は非常に立派な建物で観光客の目を引いたが、舞台は無駄に広くなり、劇を冗長化させた。
8 新歌舞伎の創造
19世紀末、市川左団次はヨーロッパ演劇等を学び歌舞伎に新しい要素……演出、監督、舞台機構、照明等を持ち込んだ。歌舞伎作者としては岡本綺堂や真山青果が活躍した。
9 現代の歌舞伎
歌舞伎はまだ生きており社会条件や人びとの感性の変化に影響を受けて変化している。
新作がでないということは、歌舞伎にとって、致命的である。
傾奇者とは社会秩序から疎外された人間であり、アイデンティティを喪失し、両義的生に引き裂かれて生きる人物、また、下降した社会的立場に自分の人生を一致させて生きるドロップアウトした人びと、あるいは、両義的な生の状況の消滅によって、アイデンティティのありかたが見えなくなってしまった人びと、もしくは、社会秩序を自ら阻害して生きる、自我に目覚めた孤高の反秩序的存在である。
なぜ歌舞伎は新作が出ないのかについて、著者は以下の点を指摘する。
今日、歌舞伎の観客は、会社からチケット・食事券を与えられてやってきた団体客である。役者は団体客を嫌がるが、それは団体客にとって歌舞伎が東京観光の1つでしかないからであり、主体的に歌舞伎を見に来たわけではないからである。
観光客に対して安定した出し物を供給するために、舞踏的に変質した『勧進帳』が繰り返し上演されるようになった。
秩序の多層化にともない、傾奇者という題材を現代に見出すことが困難になった。いま、人びとが歌舞伎に求めるのは現実との向き合いではなく、夢・非日常的なパフォーマンスである。
歌舞伎を復興させる試みは、1つは中村雁次郎による近松物の再検討であり、もう1つはスーパー歌舞伎である。