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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『江戸時代の罪と罰』氏家幹人 ――治安があまりよくない

 江戸時代の犯罪と刑罰について包括的に書かれた本。著者は江戸期の犯罪や、人斬り、敵討ちといったテーマを専門に研究している。

 

 ◆所感

 特に興味深いのは、江戸初期における武士たちの振る舞いである。かれらは試し切りや辻斬りなどで身分の低い者を虫けらのように殺害したが、これは平民がかれらにとって同じ人間ではなかったからだと著者は推測している。

 

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 1 残酷時代

 当時の記録が明らかにするところでは、戦国が終わった直後の江戸初期には、人命が非常に軽いものだった。

 気に食わない家の者を片っ端から切る武士や、人の生首を見ていないと落ち着かない武将などが多数存在した。

 戦国武将出身の僧、鈴木正三(しょうさん)は、身分の低いものだけを切る当時の人斬りや辻斬り武士を直接非難し説教した。また安易な処刑や追い腹(殉死、正三は「阿呆腹」と呼んだ)もまた批判の対象だった。

 人斬りの風習は幕末にふたたび流行し、江戸に出てきた田舎藩士薩摩藩士がよく平民や犬を斬った。

 

 18世紀の文人画家としても知られる武士の平野貞彦は若いころにムラマサを携えて千人切りを敢行した。

 

さて田熊は、暗夜小提灯で道を照らしながら通りかかった者に「これをこそ」と斬りつけたが、倒れたのは意外にも田熊のほう。小提灯の男もまた「辻斬りの名人」だったというのである。

 

 南方熊楠は古今の資料を調査し千人切り(主に集団犯行だった)の伝統について評論を残している。

 千人切りによる既願成就の原典は、古代インドの仏典にあるアングリマーラの逸話である。

 殺戮という犯罪行為そっちのけで、大願、悲願のために千人切りを行う人物は多くの浄瑠璃狂言、能に登場する。

 特に江戸初期の作品には、罪の意識が完全に欠落している。

 

 水戸黄門徳川光圀も若いころはかぶきものとして知られ、縁の下から非人を引きずり出して斬った。

 

古き武士の世界の成員であった武士たちにとって、武士ならざる庶民は、いわばかれらの世界の外の存在であり、自身の領地の生産者でもない限り、刀の切れ味を試すために殺害してもなんら利害に反するものではなく、良心の呵責を感じさせることもなかった。

 

 美談……浪人時代に金に困り強盗した武士が、仕官し大成した後に店にやってきて金を返しにきた。
 江戸初期の徳目:「切取強盗は武士の習い」……生活のため、主君のためなら、いざとなったら強盗殺人や家族を売春宿に売ることも恥ではない。乞食になるなら辻斬りになったほうが素晴らしい。

 

 江戸時代初期にはまた牛裂、釜煎、生き胴などの残酷な刑罰が行われていた。

 

 刑罰は見せしめ、威嚇主義の意義が強く、縁座が広く適用された。凶悪犯罪の場合、縁座として幼児や家族親類も処刑された。親類が、縁座を要求することもあった。

 

理由は、息子たちは性格が父親に似ていて、これまで特段の悪事は犯していないが、いずれ悪事をはたらくに違いないから、というものだった。

 

 主君や父母に対する罪は非常に重く、犯罪自体は軽微でも死罪になることが多かった。

 

 死刑囚を地方の大名がもらいうけ試し切りをするという風習があった。中には抜き打ちの達人である藩主もおり、水戸光圀なども自ら試し切りをした記録が残っている。

 

 江戸初期の旗本たちは壮絶な喧嘩を行ったが、これは喧嘩というより市街戦・マフィアの抗争に近い。

 

かれらにとっては、喧嘩の理由がなんであれ、一歩もひかず相手を切り殺し喧嘩の勝者になることが重要だった。正しくなくてもいい、とにかく勝てば。それは理非や善悪を超えた力の倫理といえる。

 

 殺し合いの理由は侮辱や口喧嘩、(修道の)痴情のもつれが多かった。

 

喧嘩口論は男道(武士道)の華。恥辱をこうむり名を汚されたら、即座に相手を倒さなくてはならない。米倉伝五郎や阿部善八の行為は、単純でも矯激でもなく、名君保科正之も推奨する武士の倫理に則ったものであった。

 

 

 2 吉宗の改革

 このような武士の野蛮な風習は、4代家綱・5第綱吉の代になると急速に衰えていった。

 

 この時代の幕臣天野長重は、敵を作らず、周囲と協調し、口を慎み、アンガーマネジメントをすべきという武士道を説いている。

 

 綱吉の代や、吉宗の代になるまでは、戦国時代から続く身体刑が行われた。

 僧侶や女の不義密通、少女強姦などに対しては、鼻削ぎ、耳削ぎ、男根切除、入墨などの刑が科された。

 

 吉宗は中国の刑法を学習しつつ、刑の寛大化に努め、1754年に『公事方御定書』を完成させた。

 

 拷問と尋問には4つあり、最初にむち打ち、次に石抱、海老責、釣責と強化されていった。

 不義密通を行った妻や子供を裁判所に訴えた場合、追放等の刑になった。これは寛大な措置で、江戸前期までは、自分の家で不義密通があった場合その身内や相手を殺害する名誉の殺人が習慣となっていた。

 この風習(名誉殺人)は現在でもアジア広域にみられる。日本では、時代が下るとともに徐々に行われなくなった。

 

 

 3 冤罪

 取調べ(吟味)が高レベルであればあるほど、虚偽の自白をうながし冤罪をつくる可能性が高い。

 ある熟練の与力は、試しに自分の下男を尋問してみたところ、やってもいない盗みを白状した。与力はショックを受け隠居した。

 役人が上司にこびへつらうために無理やり自白を引き出している、という批判が江戸期に残されている。そして、こうした組織の弊害は中国南宋の史料にも記載されている。

 

 家康などに仕えた学者林羅山は、中国の裁判小説を朝鮮語訳を通じて翻訳し普及させた。また、中国の法医学や検死要領などが幕府によって研究された痕跡がある。

 

 

 4 小伝馬町牢屋敷

ja.wikipedia.org

 

 幕末には、小伝馬町での牢死者は年間1000名に達した。これは、大量の囚人が押し込まれていたためである。薄暗く換気の悪い大部屋で過密状態となった囚人は、蚊やアブなどの害虫、疥癬、悪臭、伝染病、熱さと寒さに苦しめられた。

 幕末、高野長英渡辺崋山吉田松陰らは投獄された際の経験を書き残している。

 皆、身分の高い拘留者であるため待遇は平民よりも良かったようだ。

 

 牢名主は、石出帯刀と担当与力が正式に選出し、牢内の統制を委任した。牢名主には在牢日数の長く、規則を熟知している者が選ばれた。

 

牢屋の役職:

・牢名主

・名主添役 代理

・角役 すみやく 囚人の出入りに注意

・二番役 新人に牢法を言い聞かす

・三番役

・四番役

・五番役

・下座本番

・下座本番助

・詰之助番 雪隠の番

・五器口番 食事世話係

・隅の隠居 元牢名主

・大隠居 戸前役人の休んだ者

・若隠居

・隠居並

・穴の隠居

 

 牢名主らは「地獄の沙汰も金次第」と新人から金を集め蓄財し、またリンチや処刑が横行した。

 

・ぬかみそを全裸の囚人にぬりつけ放置

・キメ板で殴り殺す

・大便を食わせる

・塩などを大量に飲ませる

 

 牢屋内で運用される牢法は慣習法であり、文書化されていなかった。

 当時の役人が、牢屋の環境改善などに努めた記録も残っている。

 牢屋敷が火事にみまわれた場合、牢屋奉行は囚人を緊急釈放し、後日ちゃんと戻ってくれば減刑した。こうした火事に伴う恩赦を与えるために、あえて牢屋敷は市街地に置かれたままだったという。

 

 当時、死や病は今よりはるかに忌み嫌われていた。幕府重役のなかには、死刑執行の押印を押すのをなるべく遅らせるものが多かった。

 赦免は、遺族の訴えや将軍の代替わり、改元に伴って行われた。

 

 

  ***

 明治初期の記録……

 政府転覆嫌疑で拘留された元幕臣の記録によれば、冬になると囚人同士が抱き合って寝るため肛門性交や手淫が多発し、不潔な環境のため腸チフスなどの疫病が蔓延したという。

 

 

 ◆参考

 

the-cosmological-fort.hatenablog.com

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