うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『江戸の刑罰』石井良助 その2 ――残酷すぎる江戸の牢屋

 

 財産刑……闕所(財産没収)、過料(罰金)

 身分系……奴、非人手下(ひにんてか)、一宗構、一派構

 

・奴は女性にだけ適用された奴隷のようなものである。

・心中に失敗したものは非人手下の刑となり、非人身分に落とされた。

・一宗構、一派構は僧侶の閏刑で、宗派からの追放を意味する。

 

 

 3 牢屋

 小伝馬町大牢を参考に、牢屋の過酷な風習を紹介する。

 

 ――そこには、現代人の考え及ばないような、奇怪な、また残酷な慣習が行われていた。

 

 牢屋敷の一角に処刑場があった。

 牢屋は二重の格子で囲われており、すべて雑居牢だった。無宿者のがらが特に悪いので、無宿者と有宿者で牢を分けるようになった。ほかに女性専用の牢(女牢)、揚屋(武士の牢)があった。

 小伝馬町の牢屋では、石出帯刀(いしでたてわき)が代々、世襲の牢役人として管理業務を行った。

 入牢のときに、金品はすべて没収すると役人に言われるが、ここで供出してはいけない。牢名主にうながされて中に入ると、自分の行状をしゃべり(シャクリといった)、その後金品を名主に渡す。ここで額が多ければ待遇がよくなる。

 手ぶらで入った場合、牢名主からおどしがあり、他の囚人にリンチされ、裸で雪隠(便所)の脇に置かれた。その後、汚い衣類を着せられ、病人のいる中に放り込まれるため、すぐ死ぬ者もいた。

 大牢は多いときで90人前後、揚屋は3、40人収容されており、囚人の合計は常に300人あまりだった。

 牢屋敷には一切火の気がないため、冬は寒く、病人がよく出て死んだ。

 

 牢内役人には名主、添役、角役(すみやく)、二番役、三番役……などがあり、役人が指名するか、名主が指名した。

 名主は畳10枚を重ねた上に鎮座したが、平囚人は1畳に18人が座ることもあった。9人が互いに向き合って輪になり、寝るときは横の者の肩を枕にした。

 このため夜はほとんど眠れなかったが、昼間に居眠りすると役人に叩かれた。

 新入りが、囚人の恨みを買っている者だった場合……叩き、水瓶を背中に落とす、裸にして糠味噌をぬりつけ放置する。多くの者は身体が腫れて死んだという。

・水分をとらせない、または塩水だけを飲ませる

・冬に水の中に入れておく

 

 岡っ引き(警察組織の協力者)が入牢したときは、皆でおさえつけて、器に山盛りの糞便を食べさせた。これは「御馳走」といわれ、本番(牢内役人)の裁量で御替わりもあった。

 

 ――「これ神妙にいただけよ、遠慮をすると、御替わりをつけるぞ、それ早くいただけ」

 

 また、点呼中に岡っ引きの下腹部を叩き、最後に陰嚢を蹴り上げて殺す例があった。

 牢の人口調節のために、囚人を殺すことがあった。

 

 ――入牢者が多いと、一畳に9人も10人も並んで、文字どおり鮨詰めになって身動きができなくなり、立膝のままで昼夜暮らさなければならなくなることがある。

 ――これは名主の承諾を得て、二番役の者が中座の者と協議し、3日目おきぐらいに、3人5人ずつを囚人の中から選んで、キメ板責め、陰嚢蹴りで殺すのである。

 

 医者は検死にやってくると「いかにも病死」といって、牢内役人から賄賂を受け取る。

 1日2回の食事や水の配給は牢名主の部下たちが管理した。また、牢内役人には喫煙や酒の特権があった。

 便所を詰(つめ)といい、これにも見張り当番と厳しい規則があり、違反すると折檻された。

 

 ――夜中に便所に行くのをこのように厳重にするのは、1つは詰を清潔に保つためであるが、2つには窮屈な姿勢で寝ているのが苦しいので、休みをとろうとして、自分の席を離れることを防ぐためだった。

 

 牢は不潔で不衛生なので、1か月に10人から20人が死んだ。幕末には、年間1200人から2000人の死者が出た。

 賄賂、ばくち、届物が横行していた。牢屋改(検査)はあったが、形骸化した。火事の場合はいったん解放したが、戻ってこない場合は地の果てまで追いかけると脅した。

 溜(ため)は、東は非人頭車善七、西は非人頭末左衛門によって運営される病人、15歳未満等向けの預り所である。

 医師の診察は脈をとるだけだった。

 

 4 人足寄場

 18世紀末、無罪の無宿などを収容し、労働を課し、職業訓練を施す場として寄場がつくられた。

 理由は、追放された無宿や御仕置を終えた無宿が江戸近辺にたむろし、治安悪化の原因となっていたためである。

 寄場では収容者を強制労働に従事させた。後、非人を収容する非人寄場も作られた。

 

 ――人足寄場は、たんに懲戒するよりも、むしろ、生業を授けて改悛させるのが主眼であり、「人民御教育」の設備であったから、精神訓話に重きをおき、心学の大家手島堵庵の高弟中沢道二を大坂から招いて、1か月3度の休日に講話してもらった。刑務所における教諭の始まりといえよう。

 

 無罪者に対する制度ということで、人足寄場は保安処分の意味合いを持っていた。しかし、前科者を教育するという近代自由刑の要素も含まれていた。

 人足寄場制度はある程度効果を発揮したので、他の直轄領や諸藩でも類似の制度がつくられた。

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江戸の刑罰 (読みなおす日本史)

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