江戸時代の訴追の流れ、刑罰、牢獄の様子、人足寄場などを説明する。
実際の事件や記録を紹介しながら江戸の刑法制度を理解することができ、非常に面白い。
戦国時代の影響が強く残る江戸前期には、刑罰は一般予防主義(見せしめ、威嚇主義、見懲主義)色彩が強かった。江戸後期になると、徐々に特別予防主義(懲戒主義)へと変化していく。
◆所見
特に興味深いのは牢の生活である。不謹慎だが、牢屋のしきたりの、あまりの過酷さに笑ってしまった。
未決監とはいえ、悪党の集まる雑居房はこれほど理不尽な世界になるということだろうか。
もっとも重い刑である鋸挽が、主殺の罪にあてられていることが、儒教思想の影響を反映している。主殺だけでなく、目上の者に対する罪は、一等重く処分されていたようだ。
◆犯罪と刑罰メモ
・鋸挽:主殺
・獄門:追剥、主人の妻と密通、毒薬売、関所よけ、贋秤(にせはかり)の製造
・死罪:他人の妻と密通、十両以上の盗み
・下手人:喧嘩口論による殺人
・非人手下:下女と相対死(あいたいじに)して生き残った者
・過料:田畑を永代売した者、拾い物して訴え出ない者など
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1 吟味から落着(らくちゃく)まで
江戸時代では死刑はふつうのものだった。1870年明治政府による『新律綱領』(中国流刑法典)の制定により、死刑を減らす方針がとられた。
江戸時代の死刑……斬首、磔、火刑(火焙ひあぶり)鋸挽(のこぎりびき)、獄門(晒首)
戦国時代の死刑……磔、逆磔、串刺、鋸挽、牛裂、車裂、火焙、釜煎(かまいり)、簀巻
一般予防主義……犯罪人に刑罰を科すことで一般の人びとを威嚇し、将来の犯罪発生を予防しようとする主義。
特別予防主義……その犯罪人自身を懲戒して更生させること。教育刑主義。
戦国から江戸前期にかけては、見せしめの意味合いの強い縁座、連座が多かった。
1742年、『公事方御定書』下巻が制定され、刑罰体系が整備された。以降、次のような特別予防主義の方針がとられた。
・時効(旧悪免除)
・15歳未満の幼年者に対する刑
・赦(しゃ)の制度
・人足寄場……受刑者を入場させ、心がけを改善させる
・縁座制の制限
刑法典である『御定書』は、一般には交付されなかった。刑罰体系について知ることができるのは、三奉行と一部の役職者だけだった。
明治以降の刑法の推移……
・1868年(明治元年)『仮刑律』……中国流、死・流・徒・笞。
死刑は斬首(刎法ふんぽう)と袈裟斬(けさぎり、斬法)から、絞首、斬首、梟首へ。
・『新律綱領』……寛恕の精神
・1882年(明治15年)旧『刑法』
・1908年『刑法』……主観主義
江戸時代の牢屋は未決拘留所だった。拷問や肉体的尋問は、吟味役人の無能を示すものとしてあまり好まれなかった。
吟味が終わった後の判決を落着(らくちゃく)と言った。
2 御仕置
通常の刑を正刑、身分によって行われる刑を閏刑(じゅんけい)という。
死刑の重さ……鋸挽、磔、火刑、獄門、死罪、下手人
死刑の言い渡しや執行の具体的な手続きについて説明される。牢名主は、囚人の管理において大きな役割を果たした。
刑の執行には同心のほかに非人も携わる。非人が罪人を後ろから抑えつけ、同心が刀で斬首する。屍体は千住回向院の寮に埋められた。
死刑場は切場あるいは土壇場という。
同心が斬首に自信のないときは、山田浅右衛門に依頼することもあった。
首筋に「東照大権現」のある罪人の顛末はおもしろい。
試し斬り(様斬)の調整があったときは、切場のかたわらに胴体を準備し、浅右衛門が実行した。
武士以上の身分の者は、死罪ではなく斬罪という。この場合、試し斬りはされない。
獄門は古くは梟首といったが、出生地によって小塚原(浅草)か鈴ヶ森(品川)か、晒す場所が変わった。
火刑は、江戸以前にはキリシタン等に行われていたが、江戸後期には火付けの罪でのみ実行されるようになった。
磔について。
――……左右よりかわるがわる20本から30本ぐらいまで突く。藁で槍の血を拭う。このとき鮮血が淋漓として流れいで、臓腑から食物も迸りでる。これを見ては、いかなる剛胆者も顔色を変じない者はないという。最後に検使に伺ったうえ、咽喉に左右より「止めの槍」を突いて終わる。
涼しい顔のまま磔になった、美青年の大悪党、河内無宿貞蔵らにまつわる記録が紹介されている。
鋸挽は、戦国期は実際に鋸で首を切断していたが、江戸に入ると形式化して、磔の前に本人を土に埋めて横に鋸を置くだけの晒になった。見張りをつけ、本当に鋸で挽くものが出ないようにした。
身体刑……入墨、敲(たたき)、剃髪
・入墨は国によって文様が異なる。
・敲は普通50か100、背中から尻にかけてを叩く。数を間違えることは重大なミスで、懲戒処分の対象になる。
自由刑……遠島(おんとう)、追放、閉門、逼塞、遠慮、戸〆(とじめ)、押込、預(あずけ)、手鎖(てじょう)、僧尼の閏刑として追院、退院、晒があった。『御定書』の規定にないものに過怠牢、永牢がある。
遠島は流罪ともいわれ、江戸からは伊豆七島、西国からは薩摩、五島列島、隠岐、壱岐、天草などへ送られ、財産は闕所となった。
追放の細目……門前払(奉行所からの追放)、所払、江戸払い、江戸十里四方追放、軽追放、中追放、重追放
それぞれ、出入り禁止の範囲が異なる。
――追放刑は幕府のみでなく、諸藩でも領分構と称し、旗本領でも知行払と称して行っていた。……ふつうは他領に追い払うのであるから、追い払われた連中が入ってくる他領他支配所の者は、お互い同士のこととはいえ、大いに迷惑である。
[つづく]