3 ナチズムと暴力
戦争がはじまると、東方をゲルマン化する計画が始動した。
国家保安本部、ドイツ民族性強化全国委員部、東部省、人種・移住本部、ドイツ民族対策本部が、それぞれ協力しゲルマン化政策に参加した。
・東方において、帝国の外に居住する「民族ドイツ人(フォルクスドイッチュ)」は異民族の中の浮島であり、危機にさらされている。
異民族を排除し、東方にドイツ人、北欧人、ゲルマン化された民族を植民する必要がある。
・ゲネラルプラン・オスト(東部総合計画)とは、東部における異民族追放とドイツ人植民について、RSHAが作成したもの。
・異民族……チェコ人、ポーランド人、ベラルーシ人、バルト人、ウクライナ人、ユダヤ人は強制移住か、収容所への連行か、物理的な殲滅により排除する。
・SSの計画では、およそ3000万人の追放、2000万人の殺害が予定されていた。
・移住担当部署では、植民のためのドイツ人の村、都市の建設構想が作られた。
・これは、第1次世界大戦と同じ「防衛戦争(アプヴェーアカンプフ)」である。
移住村では学生やボランティアが民族ドイツ人を支援した。これは「ユートピア」建設だった。
――ユダヤ人共同体は、フル稼働していた絶滅収容所と、第101警察大隊とともにポーランドとロシア占領地全域ですべての共同体を銃撃していた殺人部隊の、両方の犠牲になったのだった。彼女が目にしたユダヤ人の村はどこもからっぽで、まさしく、一時滞在キャンプで待機するあの「フォルクスドイッチュ」たちがそこに暮らしていた。……「オストアインザッツ」とは、SDの将校やゲシュタポの警察官たちが、「アインザッツグルッペ」の活動に対して使った言葉である。そこから東部への出動という考えが生まれ、北欧主義の「人道的な闘士的活動」が征服と戦争の領域に属する仕事と結びついたようである。
ポーランド……パルチザンと義勇兵に対する戦いから、ソ連……共産主義者=ユダヤ人を殲滅する戦いへの変化。
――ユダヤ人といえば混乱を引き起こし、残虐行為を行い、放火犯であり、共産主義体制の主要な支持者であるといった三段論法的表現は、東部のユダヤ人をおもなターゲットとして描いている。こうした見方により、開戦初期の8週間に、ユダヤ人がドイツの侵攻に対する潜在的レジスタンスの尖兵であるという考えが増幅するにつれ、15歳から60歳までのユダヤ人男性が、しだいに組織的に銃殺されていった。
アインザッツグルッペンの活動は、国家の中枢で計画されていた。
・第1段階……移動しながら、ユダヤ人、行動主義者を探しては殺していく狩猟の段階。
・第2段階……対象となる異民族を子供から老人まで家畜化し屠殺していく段階。
――SS知識人たちは機動部隊の内部で正当化の役割を果たしていた。
実行者たちは、自分たちがされないために虐殺を行った。かれらの弁明は自己防衛論に基づいていた。
――自分自身と自分の家族の消滅を含む集団的な消滅の恐怖、「人種」の生物学的生存がかかった戦いに参加しているという感覚である。
ゾンダーコマンドは前線に近い箇所で集落の制圧を行った。アインザッツコマンドは後方で絶滅収容所的な活動を行った。
・1941年9月 バビ・ヤール(キエフ)の虐殺:ゾンダーコマンド4aによる3万人の処刑
・効率よく処刑を実行するための兵站機能の整備、また、処刑の準備や清掃作業に対する隊員たちの嫌悪について。隊員の心的負担を軽減するため、準備や屍体の処理は民間人が行った。
『普通の人びと』(Ordinary Men)は、処刑の準備や計画ができておらず、現場が混乱した例とされる。
東部出動に従事したSS知識人たちは、部隊の監督、組織化を行い、命令した。しかし、時には直接処刑に立ち会い、自分も射撃した。
子供と女性の虐殺は実行者に深いトラウマを残した。また、1942年から採用されたガス・トラックには、屍体を運び出さなければならないという重大な問題があった。
――SS知識人たちは、ジェノサイドの暴力の異常な側面をよく理解し、処刑の儀式化によってその影響を抑えようとしたようである。
負担軽減のために、現地人の補助警察や民兵に処刑をやらせる指揮官もいた。一方、部下のストレスに無頓着な、不人気な指揮官もいた。
残虐行為、殺人の快楽が蔓延したが、ナチスはこうした行為をタブーとした。
アインザッツグルッペ指揮官としての参加は、必ずしも懲罰ではなく、通過儀礼の意味も持っていた。
敗北が迫るにつれて、SS知識人は現実逃避を始めた。かれらの多くは武装親衛隊や国防軍の前線に送られた。敗戦直前になっても、RSHAは昇進や褒賞の命令を出し続けていたという。
オットー・スコルツェニーと一部のSS知識人は、ナチスのパルチザン部隊「人狼運動」(ヴェーアヴォルフ)を結成し活動した。敗戦後、ソ連と連合軍の占領地で活動したが、1945年12月にはほぼ鎮圧された。
SS知識人たちのほとんどは戦後、責任を追及された。虐殺行為の隠ぺいはできなかったが、かれらは様々な方法で責任回避に努めた。
ヴェルナー・ベストはSS知識人の被告たちと意見調整し、「最終的解決についてはハイドリヒ、アイヒマンら幹部しか知らなかった」という回答で統制しようとしたが、それが発覚した。ベスト自身は訴追を免れた。
オーレンドルフは、虐殺は戦時中の命令であり、回避不能であったと主張した。しかし、命令拒否によって射殺された事例は1つも見つからなかった。
また、オーレンドルフは「防衛戦争」、「生存戦争」の世界観を強く訴えたが、戦後、そうした考えはすでに時代遅れになっていた。
終わり
――……第1次世界大戦は、2度にわたって原点の役割を果たした。1918年、混乱するドイツに移植された戦争の想像力の原点。そして防衛戦争とユートピアの刻印を押されたジェノサイドの暴力の原点である。このふたつが、死刑執行人となった戦争の子供たちの恐ろしい運命の中で融合した。
◆参考