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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Indian Mutiny』Saul David その2

 4 Go to Hell, Don't bother me!

 東インド会社軍の問題は、インド人傭兵だけではなかった。ヨーロッパ人将校も、様々な問題を抱えていた。

 

・一般的な会社の将校は、低い階級出身で、学はなく、純粋に金銭的動機によって就職した者たちである。

 イギリスの正規軍は、階級の高い者たちが占めていた。かれらには恒常的な収入(不動産等)があるため、軍の給料自体は低かった。一方、東インド会社軍は、将校たちに高い給料を支払った。

・1809年、アディスコム(Addiscombe)に軍学校が作られたが、教育のレベルは低かった。

・直接採用の士官候補生たちは、さらに低い教育しか受けられなかった。

・インド支配領域の拡大によって、将校が他の行政機関に出向することが多かった。このため、部隊における将校の充足率は急激に低下した。

・出向して文官として勤務する方が手当てが良かったため、将校たちの勤務意欲は低く、いかに部隊を脱出するかしか考えなかった。かれらは退屈なインドでの生活にうんざりしていた。

・19世紀中盤以降、将校たちが本国から家族を連れてくるようになると、ヨーロッパ人とインド人との関係は変質した。指揮官(イギリス人)と兵(インド人)との溝は深まり、中にはインド人を劣等とみなし、黒人奴隷のように扱う将校も現れた。

・軍司令部(Army Headquaters)に権限を集中したことで、部隊指揮官の人事権・懲罰権が失われた。このため指揮官は威信を失い、兵隊の規律は低下した。

 体罰(Corporal Punishment)の禁止は、インド人を増長させた。

・特にベンガル軍の練度の低さ、規律の乱れは悪名高くなっていった。

・通説と異なり、傭兵たちはヨーロッパ人の過酷さに反発したのではない。かれらは職業上の不満を多く抱えており、また主人(Sahib)たちの弱さに目を付け、蜂起したのだった。

 

 5 陰謀

 ベンガル軍は反乱の火種になっており、ヨーロッパ人に代わる別の政府を求めていた。また、イギリスによって領地を奪われたインドの太守たちはみな不満を抱き、陰謀を計画した。

 マラーター同盟(Maratha Confederacy)の宰相(Peshwa)バージ・ラーオ2世(Baji Rao2)の養子ナーナー・サーヒブ(Nana Sahib)は、失権の原理により奪われた領地と年金を取り戻そうと、イギリス人弁護士を雇い争っていた。

 ナーナー・サーヒブの部下アジームッラー・ハーン(Azimullah Khan)は反乱の実行者となった。かれは、イギリス軍がクリミア戦争においてロシア軍に苦戦する様子を目撃し、反乱計画への自信を深めた。

 

 6 脂を塗られた薬包

 1854年、会社は本国政府からエンフィールド銃を調達した。このライフルの薬包に、禁忌である牛と豚の脂が塗られているという噂が、ダムダム(Dum-Dum)とアンバーラ(Ambala)の2か所の補給処で持ち上がった。

 上位カーストの兵隊たちを牛や豚の脂で汚染させることで、イギリス人たちがかれらをキリスト教に改宗させようとしている、という陰謀が広まった。

 ベンガル師団司令官ジョン・ハーゼイ(John Hearsey)や他の高官たちは、これを宗教にまつわる深刻な問題ととらえ、鎮静化に努めた。

 しかし騒ぎはおさまらず、アワドの失権した王ワジド・アリーや、デリーのマイノッディン・ハサン・ハーン(Mainodin Hassan Khan)は反乱を扇動した。

 1857年には、ブラフマプル(Berhanpore)や、バラックポール(Barrackpore)等で反乱・不服従の兆候が現れた。

 イギリス軍(正規軍)のインド軍司令官(Commander-in-Chief)のジョージ・アンソン少将(George Anson)は、インド人に対する蔑視が露骨であり、傭兵たちの感情を逆なでした。

 大事変の兆候をあらわす謎のチャパティが、インド広域にわたり出現した。兵隊は謎の人物たちからチャパティを受け取った。

 

 7 マンガル・パンデ(Mangal Pande)

 1857年3月、バラックポールの第34インド人歩兵部隊において、マンガル・パンデという兵がイギリス人将校に対し発砲した。

 武器庫(Bell of arms)の占拠。

 反抗は、ハーゼイらによって制圧された。マンガル・パンデと、射撃を拒否した傭兵は銃殺刑になった。

 

 8 嵐がおこる

 メーラトにおいて、薬包をめぐるインド人傭兵たちの発砲拒否が起こった。5月10日の蜂起前日、ヨーロッパ人将校たちは、不服従の兵を牢屋(Gaol)に入れていた。

 

・指揮官たち……第11インド人歩兵部隊指揮官ジョン・フィニス大佐(John Finnis)、第20インド人歩兵部隊指揮官ジョン・クレジー=ハーケット中佐(John Craigie-Harket)の代行ジョン・テイラー大尉(John Taylor)、第3軽騎兵部隊指揮官ジョージ・カーマイケル=スミス(George Carmichael-Smyth)、メーラト師団長ウィリアム・ヘウィット大将(William Hewitt)。

 

 高官たちは、反乱の兆候ありとの報告を受けても、問題を過小評価し、動こうとしなかった。

 10日の夕方、傭兵たちが蜂起し、ヨーロッパ人将校多数を殺害した。牢に入っていた兵隊たちは解放され、また現地人もヨーロッパ人を襲撃した。

 将校の家族のなかには喉を切られ胎児をひきずりだされる者、生きたまま焼かれる者もいた。

 反乱軍は、大砲を手に入れるためデリーに向かった。この日の蜂起により約50人が殺害された。

 

 9 デリー

 反乱軍は翌日デリーに到着した。かれらは、バハードゥル・シャー(Bahadir Shar)のラール・キラー城塞(Red Fort)に押しかけた。シャーはムガル帝国の末裔であり、現在はデリー領主(King of Delhi)に格下げされていた。

 傭兵たちはシャーに懇願し(半ば脅迫)、反乱の首領に祭り上げた。

 デリーのイギリス人守備隊は、次々と蜂起するインド人騎兵(sowar)部隊に応戦したが、多数が虐殺された。ヨーロッパ人居住者たちも、イギリス軍区画の旗塔(Flag staff tower)に避難した。街は逃げ惑うヨーロッパ人と、略奪する傭兵、現地人で混沌となった。

 パハールガンジの警察(Thanadar)マイノッディン(Mainodin)や王の医師らは、ヨーロッパ人に対する虐殺行為をやめさせようと叛徒たちに呼びかけた。しかし、傭兵たちは王の提案を拒否した。かれらは、宮殿に匿われていた女性や子供を引きずり出し処刑した。

 反乱の実質的な権力はインド人の将校(SubedarやJemadar)にあった。

 [つづく]

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)