うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ゴー・フォー・ブローク』渡辺正清 ――日系人部隊の話

 アメリカ人としての存在意義を証明するために従軍した日系二世部隊の足跡をたどる。

 著者自身もアメリカ生活が長く、かつての退役日系人たちとともにイタリアの戦跡を再訪することで、かれらの歴史を振り返る。

 

 ◆メモ

 なぜ日系人部隊に注目するのか

・なぜかれらは嫌々ではなく自発的に、自分の国を守ろうとしたのか。戦うに値する国とはどういうものか

日系人たちが保持した徳目……忍耐、我慢、勤勉、「恥」は、いかにして良い影響を与えたのか。

 

 

 ◆思い出

 ハワイにはいまも日系人が多数住んでおり、とくにハワイ州兵は高確率で日本の名字を持つ軍人に遭遇する。

 コロナ対策で最近よく批判されているイゲ知事も、沖縄系である。

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 ただし、こちらが日本人であっても特に同胞・特別扱いするというわけではなく、ドライな人も多い。日本の軍からきた、とあいさつしても「あ、そう」という感じの人もいる。

 一方、ハワイ在住の日本人でも「あの人(日系人)たちは日本語話せないのに日本人同士といってくる」と冷たいことを言う人もいる。

 フィリピン系や韓国系が本国とのつながりが非常に強く、また家庭で母国語を教えていることが多かったのとは対照的である。

 

 日本文化を残そうと活動している人たちもおり、伝統芸能や武術・武道、和太鼓などの活動が盛んである。

 

 

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 真珠湾攻撃の後、本土、主に西海岸に住む日系人たちは差別にさらされ、また砂漠地帯の収容所に強制連行された。一方ハワイでは、人口の半数近くが日系人だったことから強制収容は一部にとどまり、また本土ほどの反日待遇も受けなかった。

 本土日系人とハワイ日系人とでは、感性や境遇に差があった。ハワイでは日系人は白人の下、中間管理職まで上がることができたが、そこから上に壁があった。

 本土では日系人は大学を出ても就職口がなく、親である1世の野菜屋で働くことが多かった。

 

 

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 ハワイ州軍にいた日系人たちはいったん基地に集められた。米軍は日系人たちの扱いに困っていたが、日系人と、部隊の将校たちは、戦闘によって自分たちの能力を証明しようと考えた。

 ハワイ州日系人部隊である第100大隊は、ハワイから本土へ移動し、訓練で優秀な能力を発揮した。これが上層部に認められ、かれらはイタリア戦線に派遣された。

 第100大隊には、韓国系アメリカ人将校であるヤング・キム中尉や、ドイツ系将校であるシュメル少尉なども加わっていた。

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 第100大隊に続いて、ハワイ州日系人部隊や本土の日系人部隊も訓練を受け補充を待った。

 

 

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 スパーク・マツナガ氏によれば、日系人部隊は本土での整備・補修勤務や、アフリカ占領地での警備業務などを提案されたという。しかしこれらを断り、前線での戦いを希望した。

 日系人たちは、戦後の自分たちの地位向上も見据えて、アメリカ兵としての能力を祖国に証明しようと考えていた。

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 第100大隊はイタリア中部サレルノから上陸し、山地に陣取ったドイツ軍との戦闘に従事した。

 激戦地として有名なモンテ・カシノの戦いなどを通して、日系人部隊はその勇敢さを称えられた。これには、ライダー第34師団長や、米第5軍司令官クラーク中将といった、偏見のない指揮官の判断もあった。

 かれらは直ちに日系人の戦士としての優秀さを認め、評価した。

 

 ローマ進駐を前に、第100大隊は第442連隊戦闘団に編入された。連隊はほぼ全員が日系人からなる部隊だった。

 

 

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 その後442連隊はフランスへ転戦し、リヨンを北上した。

 1944年10月のテキサス大隊救出作戦は、現在でも賛否両論である。ダルキスト師団長は、自らの稚拙な戦術によってテキサス大隊を山中に孤立させ、その救出のために442連隊を使った。

 200人のテキサス大隊救出のために、800人近い日系人部隊の死傷者を出したため、ヤング・キム大尉や当時の大隊長日系人たちはダルキスト師団長を批判する。

 日系人部隊が、精鋭部隊として使われたのか、消耗品として使われたのかは不明である。

 戦術の特徴……一人の兵士が捨て身で突撃し突破口を開く。自己犠牲的な作戦。

 

 

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 1945年3月、北部イタリア山岳地帯のドイツ軍防衛線「ゴシックライン」の戦い……バッファロ部隊(黒人部隊)があきらめたジョージア高地を442連隊が攻略した。

 このときサダオ・ムネモリは手りゅう弾に覆いかぶさり戦死、名誉勲章を受章した。

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 後に合衆国上院仮議長となるダニエル・イノウエ中尉も、一連の山岳戦で重傷を負っている。

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 砲兵部隊の日系人たちはその後、ダッハウ収容所の解放を行った。

 

 

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 戦後も、日系人に対する差別や排日運動は続いた。ダニエル・イノウエは、右腕を失い、勲章を下げていたが、床屋で髪を切るのを拒否された。

 

 日系人たちの一部は政治家になり、自分たちの地位向上のために尽力した。

 それが、二世たちが戦場で奮闘した原動力でもあった。

 

 著者は日系人の勇気や精神を称えているが、決して戦争を美化したり、賞賛したりしているわけではない。

 

 逆に、二世たちは自分たちの戦争体験をあまりに凄惨だとして口をつぐむことが多かった。

 日系移民は、子孫たちが米国で生きていけるよう教育に力を入れていた。

 

 兵士の多くは教育程度が高く、将校・下士官は多くがハワイ大学を卒業していた。

 

 

 

 ◆参考

 日系人部隊が訓練を受けたミシシッピ州キャンプ・シェルビーに潜入

the-cosmological-fort.hatenablog.com