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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Crimea: The Great Crimean War, 1854-1856』Trevor Royle その2 ――ボロボロのイギリス軍

 ◆メモ

 2014年のロシアによる併合で話題になったクリミア半島が、本戦争における激戦地となった。

 

 9 不安な盟友

 英軍とフランス軍の指揮統制の問題は最後まで解決されなかった。

 ラグラン卿と、フランス陸軍司令官サンタルノーは、共同作戦の指揮権をめぐって抗争した。

 現場ではイギリス兵とフランス兵はすぐに親しくなり、交流を深めた。当時、兵隊は自分たちの家族を一緒に連れていくことが通例であり、駐屯地は英仏軍とその家族であふれた。

 しかし、大都市イスタンブールに駐屯しているうちに、性病やアルコールが蔓延し問題化した。

 トルコ人たちは、スカートをはいたスコットランド兵をイギリス軍将官らのハーレム要員だと勘違いした。

 

 イギリス軍においては、陸軍と海軍も補給や糧食Provisionの割り当てをめぐって小競り合いがあった。

 フランス陸軍は装備や補給の面でイギリスよりも整備されていた。

 

 海軍に比べ、陸上兵力の目的はあいまいだった。

 ダニューブ沿いのロシア軍を阻止するのか、それともコンスタンティノープルを防衛するのか、クリミアの要衝セバストポリを攻めるのか……。

 最終的にブルガリアのヴァルナVarnaに進軍しオスマン軍を支援することに決まった。

 

 4月、ロシア軍はオスマン軍が要塞化するブルガリアのシリストリアSilistriaを攻撃するが、英軍軍事顧問や兵隊の尽力により抵抗を続けた。

 戦闘は凄惨であり、地元民がロシア兵を虐殺し要塞まで運んできて報酬を得ようとした。

 ロシア軍ダニューブ方面軍司令官パシュケヴィッチは負傷により引退したがこれは雲行きが怪しくなって逃げた可能性もあるという。後任はゴルチャコフGorchakovが指名された。

 

 10 オープニング・ショット

 開戦後、海上封鎖に徹していた英仏海軍は4月中旬にオデッサOdessaを砲撃し戦果をあげた。

 ネイピア率いるバルト艦隊も、世論や海軍本部The Admiralty(海軍卿1st Lord of the Admiralty)から戦果を求められていたが、低練度と人員不足のために、浅く狭いバルト海で行動できずにいた。

 船員が高齢のため、マストを張る等の基本的な行動も困難だったという。

 

 フランス陸戦隊はコレラの流行により、以後の合同作戦を拒否した。

 

 海軍本部のグラハムや内閣強硬派は、バルト海での停滞の責任をネイピアに押し付け、ポーツマスPortsmouth帰還後に更迭した。

 バルト海沿岸では、ロシア側が新式の電気的機雷を設置していたため、英仏艦隊は容易に近づくことができなかった。

 戦果を求めるイギリス世論や政府は、視線をクリミアに向けた。

 

 11 ヴァルナVarnaの幕間Interlude

 風光明媚なヴァルナに駐屯した英仏陸軍はふたたび規律の低下に悩まされた。

 バルト海黒海の封鎖により、ニコライ1世がブルガリアに侵攻するのは困難になった。6月、ゴルチャコフはシリストリアから兵を引き上げた。これを追撃した英軍偵察隊と、フランス軍が、貧弱な補給と疫病により被害を受けた。

 ヴァルナから出発したフランス軍は、当時流行していたコレラに見舞われた。結果、7千人が死んだ。英仏ともに衛生環境は劣悪だった。

 英軍は通信、秘密保全ともに欠陥を露呈しており、戦況の情報は軍の通信よりタイムスなど報道機関のほうが早かった。

 

 12 クリミア万歳!Hurrah

 6月には、膠着した戦線を打開するために、クリミア半島を攻撃せよという声が高まっていた。オデッサOdessaに対してはすでに砲撃がおこなわれていたが、さらに英仏政府と世論は、陸海双方からセバストポリSevastopolを攻撃すべきとの方針に傾いていた。

 8月にはラグラン、サンタルノー(健康をひどく害していた)ともにセバストポリ攻撃を計画していたが、ヴァルナを出港してから、どこに上陸すべきか、どこから攻撃すべきかを考える始末だった。

 戦力を船に乗せるときにまたしても英軍に混乱が発生した。

 英軍は補給物資が足りず、仏軍は馬を病気で多数失った。約7千名のトルコ軍はどちらも持っていなかった。

 兵士の妻と家族は、舟に乗り切れないので多数が置き去りになりかけた。

 

 セバストポリの堅牢さを知らない本国政府と英国民たちは、間もなく決戦と勝利がやってきて戦争がすぐ終わるだろうと考えていた。

 

  ***

 2部

 1 前進

 1854年9月中旬、ラグランとサンタルノーの軍はカラミタ湾Calamita bayに上陸した。上陸時にも混雑と混乱が生じたが、ロシア軍はこの好機を逃し、ただ待っているだけだった。

 連合軍は湾からアルマ川The Almaを通りセバストポリへ進軍を計画しており、これに対しアルマ川防衛はメンシコフが担当した。

 湾からアルマ川への進軍は、酷暑と水不足で厳しいものとなった。フランス軍に比べ、イギリス軍の装備の準備不足、兵站の不足は明白だった。

 メンシコフはアルマ川対岸の高地に陣地を構築し、連合軍を待ち構えた。

 

 2 アルマの戦いThe Battle of Alma

 9月19日、両軍が戦闘を開始した。

 見晴らしの良い場所では地元の上流階級がピクニックを行い、会戦を見物しようとしていた。

 当時の風潮に則り、コリン・キャンベル、サー・ウィリアム・コドリントンSir William Codringtonら勇敢な指揮官たちは陣頭に立ち、砲弾や射撃を物ともせず兵を前進させた。

 ロシア軍は、フランス兵の使うミニエ銃Minie Rifleの精確さに狼狽した。まだ時代遅れのマスケットを使用していたからである。

 その後、ラグラン自ら前進することで兵を激励し、メンシコフの軍を撃退した。ロシア軍は退却した。

 この戦いでは5000名が死亡したといわれる。

 

 

 3 失われた機会

 アルマの戦いのニュースが10月頭にもたらされると、政府と国民は熱狂した。英政府やナポレオン3世は、セバストポリ陥落も間近だと簡単に考えていた。

 一方で、ラグラン卿は現場の実態を知りいらだっていた。


・ラグランも当初追撃を考えたが、フランス軍司令官サンタルノーコレラと癌により瀕死の状態であり、自軍をさらに前進させるのを拒否した。サンタルノーは間もなく、送還される舟の上で死んだ。後任はカンロベールとなった。

・戦場での負傷者は放置された。フランス軍に比べてイギリスの救急体制は壊滅的だった。

 負傷者は戦場で死んだが、船でイスタンブール近郊のスクタリSctari軍病院に運ばれる患者はさらに悲惨だった。かれらは数日間の航海中に大量死し、崩壊した病院でさらに死んだ。

 

 4 ランプの貴婦人たち

 タイムズが10月12日に報じたイギリス軍負傷者の惨状は、国民と政府に大きな衝撃を与えた。

・護送車が壊れているか、まったくなかった。馬は病気で死に、また馭者は病気か泥酔していた。

・負傷者は応急処置さえされず転がっていた。

・救護要員は老齢か泥酔しているかその両方だった。看護婦はおらず医者も不足していた。

フランス軍の救急体制がはるかによく整備されているとのうわさをイギリス外務省が調査した結果事実だったので、不開示情報となった。

 

 タイムズ紙の報道を読んだ看護教育の専門家ナイチンゲールFlorence Nightingaleは、戦時大臣Secretary for Warシドニー・ハーバートSidney Herbertの依頼を受け、政府からの支援を受けて看護団を結成、スクタリの軍病院に向かった。

 

 ナイチンゲールは30名あまりの看護士とともに病院運営の支援を行おうとしたが、様々な障害に直面した。

 

・硬直した組織……軍医たちは、貴族やジェントルマンと比べて、社会的に下位とみなされており、自分たちの領分に部外者が入ってくるのを快く思わなかった。

・医療品や物資が不足

・不衛生……ばい菌とコレラの蔓延、放置された屍体、血や体液の残った手術台

・無能な医師……「麻酔をせずに手術した方が目が覚めていい」

ナイチンゲールらへの嫌がらせのため、宿舎のある部屋にはロシア軍将校の屍体がおかれていた。

 

 ナイチンゲールはその後、バラクラバBalaklavaなどに設置された宿営地病院の支援にも向かった。彼女のほかにも、エリザベス・デイヴィスElizabeth Davis、マニー・シーコールMany Seacoleら著名な治療家・看護師たちがいた。

 

 

 5 バラクラバ:騎兵の戦い

 セバストポリ要塞では、メンシコフ傘下のコルニーロフKornirovとトッドレーベンTodlebenが防御強化に取り組んでいた。

 10月25日、セバストポリに向かう連合軍と、待ち受けるロシア軍の戦闘が行われた。

軽騎兵の突撃Charge of the Light Brigade……ノラン大尉の命令伝達ミスによりカーディガン率いる騎兵隊が無謀な突撃を行い壊滅した。失敗にも関わらず、テニソンが詩をつくり、国民は勇敢さを称えた。この際ノランは真っ先に突撃し戦死した。

シン・レッド・ラインThin Red Line……キャンベル率いるハイランダーズがロシア騎兵の突撃を阻止した。

 

 バラクラバにおいて連合軍はロシア軍を敗走させた。

 

 6 インカーマンInkerman:歩兵の戦い

 11月5日、インカーマン橋付近において戦闘が行われた。ロシア軍は稚拙な通信と部隊間の意思疎通失敗により敗走した。

 勝利にも関わらず、連合軍の士気は低下し始めていた。イギリス兵の装備や補給、医療態勢は非常に劣悪であり、また厳しい冬が近づきつつあった。

 

 7 冬将軍の到来

 11月に冬の嵐がやってきたため、宿営地のテントは吹き飛ばされ、停泊していた軍艦が多数沈没した。ラグラン司令官が要求していた冬用装備品(冬服、コート、食糧など)も一緒に沈んだ。また、年明けにならないと届かない物品も多数あった。

 イギリス部隊が寒さと泥と飢え、不衛生のなかで待機していたのに比べ、フランスは医療・補給システムを充実させていた。

 フランス軍の将校や兵たちは、イギリス兵に同情し、靴や食糧を分け与えた。

 

 厳寒のなか、前線の兵たちはセバストポリの要塞に砲撃をおこなっていた。しかし塹壕のなかは死者、負傷者であふれ、多くが凍傷で苦しんでいた。

 ラグラン司令官は不人気の一方、フランスの司令官カンロベールは、その気さくさによって、イギリス兵からも敬意を勝ち取っていた。

 トルコ軍はもっとも悲惨で、軍首脳たちは兵隊の苦しみにまったく無関心だった。ロシアでは報道の自由がなく、戦場の実態は国民から隠されていた。

 

 タイムズ紙は英軍の惨状について度々報道し、また政府とラグラン司令官を非難した。クリミアの将校たちも、不満を訴える手紙を公表したため、ラグランは失敗の責任者とみなされるようになった。

 ニューキャッスル大臣やクラレンドンも、ラグランに責任転嫁しようとしていた。

 

  [つづく]

Crimea: The Great Crimean War, 1854-1856 (English Edition)

Crimea: The Great Crimean War, 1854-1856 (English Edition)