うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The Indian Mutiny』Saul David その3

 10 「嵐は去った」

 アーグラー(Agra)は北西地方政府の首都であり、ヒマラヤのふもとから中央インドのジャバルプル(Jabalpur)までを担任し、デリー、ベナレス(Benares)、アラハバード(Allahabad)、ミルザブール(Mirzapur)、カーンプル(Cawnpore)を含んでいた。

 行政長官(Lieutenant-Governer)のジョン・コルヴィン(John Colvin)は、バハードゥル・シャーが皇帝を名乗り蜂起したことを受け、反乱の背後にムガル帝国がいると考えた。そこで、帝国の仇敵であるグワリオール(Gwalior)藩王国やバラトプル(Bharatpur)に支援を要請した。

 カルカッタのインド総督カニングは、反乱の報を聞き憤激した。インド庁長官のヴァーノン・スミス(Vernon Smith)と連絡をとり、ペルシアとの戦争が終わったこともあり、ただちに援軍を出すことを決定した。

 かれはボンベイエルフィンストーン卿(Lord Elphinstone)にイギリス軍2個連隊と砲兵隊を要請した。また、マドラスのハリス卿(Lord Harris)に歩兵とマスケット歩兵(Fusiliers)を要請した。あわせて、アグラとメーラトにアンソン将軍とヘンリー・ロレンスを派遣した。

 さらに、セイロン(Ceylon)やパンジャブからも援軍を要請した。

 

 カルカッタでは、グルカ兵やシク教徒が反乱をおこすといううわさが広まり、ヨーロッパ人たちは恐慌をきたした。
 アンソン将軍は、デリー奪回の拠点となるアンバラにおいて援軍を待った。

 

 最大の動員はパンジャブ地方において行われた。好戦的なパシュトゥン人を抑えるため、パンジャブには10個連隊が駐屯していた。

 ラホール(Lahore)の行政官ロバート・モントゴメリー(Robert Montgomery)、コルベット(Corbett)准将はただちにインド人部隊を武装解除した。

 植民地最北端のペシャワール(Peshawar)では、ハーバート・エドワーズ(Herbert Edwardes)、ジョン・ニコルソン(John Nicolson)、フレデリック・スレイ・ロバーツ(Frederick Sleigh Roberts)ら卓越した青年将校らが、インド人部隊の反乱を鎮圧した。

 かれらは皆、ヘンリー・ロレンス卿の影響下で育った軍人(Lawrence's Young men)たちで、1846年の第1次シク戦争(1st Sikh War)の後、北西インドの安定化に貢献した。

 ニコルソンやコットン(Cotton)将軍らは、叛徒たちを大砲の砲口に縛り付けて処刑した。これはムガル帝国が実践してきた方法であり、戦士にとって名誉ある死だった。

 

 11 反乱の拡大

 メーラト郊外やアーグラーでも反乱が起こり、ヨーロッパ人たちはパニックに陥った。

 デリー攻略を命じられたアンソン将軍はカルナール(Kernal)に到着したところでコレラにかかり死亡した。代行のヘンリー・バーナード(Henry Bernard)は、援軍が来るまでデリー攻撃を延期したが、このためデリーの反乱軍が増強される結果となった。

 インド軍の実質的な指揮は、カルカッタのインド会社軍指揮官パトリック・グラント(Patrick Grant)がとった。

 

 12 アワド

 旧アワド王国の顧問となっていたヘンリー・ロレンスは、反乱の報を聴いてただちに動き出した。かれは会社から准将の階級を受けて、ただちに首都ラクナウ(Lucknow)の警備を強化した。アワドの反英感情は強く、またヨーロッパ兵の比率が少ないため、危険な状態にあった。

 一方で、かれはカーンプル(Cawnpore)がより危険であることを認識しており、ラクナウから信頼できるインド人部隊を派遣した。

 ラクナウで蜂起が始まり、ヨーロッパ人たちは居住区に籠城した。近郊のシータプル(Sitapur)では多数の将校、ヨーロッパ人が虐殺された。6月初めには、アワド駐屯部隊のほぼ全てが反乱をおこし、イギリス行政は消滅した。

 離反(dissafection)しなかった部隊のなかには、20年以上務めてきたイギリス人指揮官に、忠誠を誓ったものもあった。そうでない部隊は、将校を殺害し、ヨーロッパ人を殺害した。

 

 13 カーンプル

 カーンプル師団の指揮官ヒュー・ウィーラー少将(Major-General Sir Hugh Massy Wheeler)は、優れた軍歴で昇任した人物だった。しかし、かれは東洋人に頼りすぎていた。

 カーンプルには、インド兵17人に対しヨーロッパ人1人しかおらず、間もなく反乱が始まった。

 ウィーラー少将はじめとするヨーロッパ人は、マラーター同盟の王子ナーナー・サーヒブを信用していた。ナーナーは、イギリスと傭兵、どちらか有利な方につこうとしており、イギリスは裏切られた。

 陣地に籠城したウィーラーたちイギリス軍とイギリス人たちは、反乱軍から大量の砲撃を浴び、多数が殺害された。

 近郊の都市でもイギリス人が虐殺されていたが、カーンプルに支援する余裕はなかった。

 

 ナーナー・サーヒブと傭兵将校のように、地方の領主と反乱軍将校が協力する例が各所で見られた。しかし、かれらはインド人の反乱を統合することができず、最終的にイギリスに敗北することになった。

 生存者によれば、叛徒たちは大変臆病であり、決して突撃しようとしなかったという。

 

 14 サーティチャウラー・ガート(虐殺のガート)

 籠城していたウィーラーは、反乱軍の頭領となったナーナーと交渉し、陣地を明け渡すことに同意してしまった。

 6月27日、200人超のヨーロッパ人たちが、舟の用意されたガート(池や川岸に設置された階段状の親水施設)に徒歩で向かった。かれらが舟で出発しようとしたとき、傭兵たちはいっせいに発砲した。

 ウィーラー将軍を含む100人超が虐殺された。ナーナーは、途中で子供と女性の殺害をやめさせたので、ごく一部は死を免れた。ウィーラー将軍の娘を含む若い女性数人は、イスラム教に改宗させられ、インド人の側室となった。

 ヘンリー・ロレンスは、ナーナーの反乱部隊に対し報復攻撃を試みるが、失敗し自身も戦死した。かれは作戦系の経験がなかったため、部下に戦闘をまかせるべきだったと著者はコメントしている。

 [つづく]

 

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)

The Indian Mutiny: 1857 (English Edition)