うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日本残酷物語2』 その2 ――ブラックとしか言えない昔の生活

 

 山の騒動

 大坂冬の陣と同時に発生した紀州北山の一揆には、熊野の山伏たちも多く参加したが、浅野家により鎮圧され、発起人や参加した村人たちが数百人処刑された。

 宮崎県(日向)椎葉村におけおる土豪らの抵抗について。

 

 石徹白騒動

 越前石徹白(いしとろ)には社家山伏が居住しており、代々神祇白川氏の統治下にあった。室町になり吉田(卜部)氏が進出し勢力争いが始まった。社家の合議体制で成り立っていた村では、吉田家の後ろ盾を得た上村豊前が支配者となった。

 豊前寺社奉行所の判決を用いて96家族500人強を追放した。そのうち72人の社人が餓死し、その後訴状によって豊前らは死罪となった。

 山の住民たちはまた、検地や隠し田の摘発に対抗して一揆をおこした。

 

 北上山地

 日本のチベットと呼ばれる北上山地は、兵役甲種合格者を多数出すことで知られていた。

 

 しかし乳幼児死亡率がもっとも高かったこの北上山地から、兵隊の甲種合格者をいちばん多く出したとは、何という皮肉な事実だろうか。その甲種合格者たちも、多くは非道な戦争で死んでしまった。

 

 以下は戦後の風景である。

 稗の生産……人糞尿と種子を樽で混ぜ、手桶にくんで素手でまく「ボッタまき」を行った。

 雇われ労働者型の炭焼きは「やきこ」と呼ばれ、失敗者や土地を持たない者が従事した。

 山林地主はやきこを働かせ、悠々と暮らした。

 生活の厳しさから、主な楽しみは濁酒と性行為だった。濁酒は村内の融和がないとつくれなかった。警察の摘発は主に密告によるものだからである。

 

 ハンセン病患者について……山地に一定数患者がいるが、村の恥とみなされ幽閉されていた。市役所の担当職員はうまく村に溶け込み、患者を療養所に案内することを職務としていた。

 

 伊那谷の山村……味噌を重宝し、動物性たんぱく質をとるために虫やヘビを食べた。村にはオヤカタと呼ばれる領主に近い百姓と、ヒカンと呼ばれる小作人がおり、領主と家来の関係に近かった。

 

 むかしから獣害を避ける鉄則として、「熊山騒げ、犬山黙れ」といわれている。――犬山、狼のいる山では、物音をたよりに狼がよってくるから、静粛にしてじぶんの存在を気づかれないように、ふるまえというのである。

 

 猪狩りのため、ウツ鉄砲やフミハズシといった鉄砲罠を獣道に仕掛けた。

 

 夜這いは通常3人で行い、外に待機した2人が見習い兼補助者である。夜這いの風習は徐々に廃れたが、代わりに売春業が多くなった。

 

 砂丘は不毛の地だがそれでも人が住み、塩田を作った。砂の飛散を防ぐため、防潮林、防風林形成のための植林が江戸時代以前から行われていた。

 鹿児島県のシラスは不安定な土壌であり、台風や長雨などによって崩壊を起こす。

 

 

 3 北片の地

 蝦夷

 北海道の開拓者たちは、行きの舟でコレラが蔓延したため、腐乱死体とともに目的地まで運ばれた。

 泥炭地の開拓は過酷であり、子供はよくくる病にかかった。

 耕作に向いていない火山灰地では酪農がおこなわれたが、資本が必要だった。

 凶作により集落に対して救済米が配給されたとき、処分に困り学校の給食となった。しかし集落では米を食べることなどめったになかったので副食は一切与えなかった。

 

 第二次大戦中、国民精神作興のためとのふれこみで、日を決めて梅干し入りの握り飯でがんばろうという指令が中央から流れてきたときに、怒ったのはこの地方の人びとであった。

 

 「おれたちにそんなぜいたくなまねはできない。そんなぜいたくなことを耐乏生活と考えている政治家の顔が見たい」

 

 北海道の土地の多くは泥炭地、重粘土地であり、開拓には困難がつきまとった。

 

 虫

 アイヌや開拓民は無数の吸血虫……蚊、ヌカカ、アブ、ブユに苦しめられた。毒虫の大群は雪解けから11月まで消えることがなく、農夫はいぶすものを口にくわえて作業するか、顔に手ぬぐいをまいた。

 ヌカカの大群は煙のように襲いかかり皮膚はさされて腫れ、口と鼻に入りこみ呼吸困難になったという。

 トノサマバッタによる蝗害や、ブランコケムシの大量発生による鉄道運行停止について。

ja.wikipedia.org

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 クマ

 クマは開拓が進み集落ができてからも、人間や家畜を襲い続けた。石狩沼田村では家族とアイヌクマ狩り銃士らが惨殺された。大正14年、三毛別部落では10人がクマに殺された。

 

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 山火事

 明治44年、山火事のために稚内・宗谷の市街地がほぼ全焼した。

 

 虹別原野の移民

 本州や四国から移民してきた人々の体験談では、春の雨霧や6月の霜で凶作に苦しみ、また黄金虫が作物を食い尽くす被害が語られる。冬が近づくと夜逃げ、逃亡が相次いだ。

 

 戦災疎開移民団

 空襲被害を逃れて東京から移民してきた人びとは、貧しい資本で作物を育てていかなければならなかった。

 

 おわり