うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『愚行の世界史』バーバラ・タックマン その1 ――驕り高ぶり言語道断

歴史上の愚行について考える本。

 

◆所感

愚行とは、当時から多くの批判や警告を受けていながら、政府や統治者が誤った固定観念や保身のためから愚かな政策を断行することをいう。

本書で題材になっているヴェトナム戦争と同じく、失敗とされる戦争の多くは、やる前から警告や非難が起こっている。

イラク戦争においても、現地報告や軍から懸念が示されていたが、多くは売国発言、雑音、テロリスト擁護として無視されていた。

 

敵に対する無知や過小評価、そしておごり高ぶりは、失敗の最大の要因である。

 

「米国民の戦意を喪失させる」目的で行った真珠湾攻撃が逆に米国民を団結させたように、独立戦争でのイギリス、ヴェトナム戦争でのアメリカ、宗教改革時代のローマ教皇ユダ王国国王レハベアムらは、強硬策が事態を解決できると判断し、結果的に大損害を出した。

プーチンウクライナ侵攻も、開始前から国内外で反対論は多かったものの、情報機関とプーチンの一存で決行された結果、逆にロシアの勢力を弱めることになった。

 

本書の前半で紹介されるローマ・カトリックの衰退を読むと、よく現在まで組織が存続しているものだと驚く。

 

 

1 愚の行進

悪政の4つの型:

  • 暴政・圧政……過去に多くみられる
  • 過度の野心……フェリペ二世、ドイツ、日本
  • 無能・堕落……ローマ帝国末期、ロマノフ王朝末期、清朝
  • 愚行……自国や国民の利益に反する政策の追求であり、なおかつ当時から非難・批判されていたもの

 

統治上の愚行は、個人の愚行より大きな影響を及ぼすため、本来統治者は理性に基づいて行動しなければならないはずである。しかし、鈍感さや君主の頑迷さが数多くの愚行を生んできた。

 

愚行の例

アステカ帝国のモンテスマは、宗教的な迷信にとらわれ、部下や民衆からの反対や反乱に見舞われたにも関わらず、コルテス率いるスペイン軍にほとんど抵抗しなかった。

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賢明な統治者

ソロン

ペリクレス

合衆国建国の父たち

 

愚行

ルイ14世によるユグノーの弾圧と、カトリック支配の強化が挙げられる。

勤勉なユグノー教徒たちは国外に流出した。陸軍や海軍士官、造船業者、職人、絹工業などの労働者がイギリスやドイツに大量流出した。またユグノー教徒が国外で反フランス運動を行い、プロテスタント勢力の優勢に結びついた。

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第1次世界大戦におけるドイツ……ベートマン・ホルベーク首相をはじめ文官の多くは開戦に反対していたが、軍部やユンカー、大衆は侵略を推進した。

また、無制限潜水艦作戦も、アメリカは参戦しないだろうという見込みの下に決行した。

 

真珠湾攻撃……軍人の中にも、対米戦は不可能と考えるものもいたが、強硬派に押し切られた。当時アメリカでは厭戦気分が支配的だったにも関わらず、日本はわざわざアメリカの参戦を鼓舞するような攻撃を与えてしまった。

日本は、真珠湾攻撃アメリカの士気をくじくことができるという間違った認識を抱いていた。

 

 

2 愚行の原型

トロイア戦争における木馬は、反対の声を押し切って滅亡した愚行の原型である。

木馬に警鐘をならしたラオコーンは、おそらく真実を告げたために、罰を受けて息子たちもろとも毒蛇にかまれて死んだ。

愚行とは、権力が生み出すものである。権力が巨大化するにつれて責任や当事者たちの利益はあいまいになっていく。

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3 法王庁の堕落

ローマ教会を没落させた法王たちに注目する。

ルネサンス時代、法王はフランス、スペイン、ハプスブルクの政治的抗争に肩入れし、自らも堕落していった。

聖職者のレベルは上から下まで堕落し、人びとを導くはずの司祭の中には、一度も聖書を読んだことがない者、酒飲みや売春にあけくれている者が多数見られた。

悪人たちも、自分たちのことを聖職者に比べればましな人間と考えるようになった。

 

14世紀からは、フス派やロラード派などの異端があらわれ、またウィリアム・オッカムは法王のいない教会を提唱した。聖書が各国語で普及し、反ローマの思想が盛り上がっていた。

教会のなかにもニコラス・クザーヌスなど改革を唱える者が少数だがいた。

 

……法王庁と高位聖職者たちの悪に染まった生活のおかげで、平信徒たちは教会のことを「バビロン、地上のありとあらゆる私通と醜行の母!」と呼んでいる……

 

教会は、こうした反対意見を抑圧すべきとしか考えず、その間に国家主義や、国家教会といった考えが勃興した。

 

シクストゥス4世

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後に続く2人の教皇とともに、「三人の悪の天才」と呼ばれた。フランシスコ会出身者で、枢機卿や高位聖職者を家族親戚で固めた。

20歳の枢機卿や、8歳、10歳の教区司教を任命した。

 

インノケンティウス8世

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富裕な家の息子で、2人の私生児を持っていた。かれは優柔不断であり、この時代に教会の腐敗が進んだ。

枢機卿は領主や専制君主と変わらぬ生活を行い、自分の葬式ではじめて聖堂に入る者もいた。

枢機卿同志も互いに都市国家と連携して戦争や抗争を行っていた。

 

アレクサンドル6世

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チェーザレ・ボルジアの父親であり、子供たちや一族の強化に努めた。この法王の時代、ローマは暗殺、拷問、殺人の巣窟となった。

 

ユリウス2世

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イタリア、スペイン、フランスの抗争は続いていた。ユリウスは芸術と戦争に力を入れた。レオナルド・ダ・ヴィンチパトロンとなり芸術作品を作らせ、またフランスとの戦争では自ら馬に乗り軍隊を指揮した。特にこの戦争指揮は、信徒からの怒りを買った。

アレクサンドルの時代から、多くの枢機卿は赤い帽子をかぶって戦場で戦っていた。

フランス王がイタリアに攻め込み、ユリウス2世に対して公会議を開こうとした。

ユリウス2世が死んだとき、教会の求心力は著しく低下していた。教会は、イタリア地方の一領主に堕しつつあった。

 

レオ10世

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メディチ家の出身で、前法王が築いた領地や財産を、優柔不断な政策によって失った。

フランスとハプスブルクとの間を蝙蝠のように行き来した。メディチ家のいとこをひいきし、枢機卿職や財産を独占させた。

 

ローマにおける法王の君主政治は、現状ではキリスト教世界のペストです(エラスムス)。

 

宗教改革

宗教改革の発端は、ドイツにおける免罪符販売だった。教会は、「未来の罪も免罪符を買うことで許される」として犯罪を奨励した。また、死んだ親類の分も免罪符を買わなければならない、と人びとに呼び掛けた。

免罪符で得た収入は、サン・ピエトロ大聖堂の建設費や法王の戦費にあてがわれた。

 

ドイツのとある都市にやってきた聖職者が、「金を払えば払うほど罪が軽くなる」と宣伝したため、ルターを激怒させた。

ルターは1517年に「95か条の論題」をヴィッテンベルクの教会に掲示した。

ローマに対する反乱は瞬く間に広がり、アウグスブルクの国会は、十字軍のための特別税を拒否した。

 

キリスト教世界の真の敵は、ローマにいる地獄いきの輩たちだ。

 

スイスではツヴィングリが抗議を拡大していた。

レオが死んだとき法王庁カトリックの評判は最低になっていた。

 

ハドリアヌス6世

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他の強欲な候補者たちで決着がつかないため、オランダ出身の無名の外国人が法王に選出された。

しかし、改革を志すも抵抗を受けて1年で死亡した。

その後、メディチ家のクレメンス7世が法王となった。

 

クレメンス7世

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分裂したイタリア諸都市は、フランス、スペイン、ハプスブルク、ドイツの君主たちのあさり場となった。

クレメンス法王の時代、自らが新の教皇になろうとしたコロンナ枢機卿がローマなどを侵略し、大量虐殺、拷問、略奪が発生した。

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法王が死んだとき、死体は分解されて晒された。

 

まとめ

法王たちは批判や非難、改革意見に対し無関心で、すべて無視するか抑圧した。また教会の利益よりも、自分とその一族の利益を重視する思考から抜け出さなかった。

当時、ローマ法王は、自己の領地と収入を増やすための肩書のひとつに過ぎなかった。

 

プロテスタントが台頭し、カトリックが勢力を失ったことに気づいたときにはもう遅かった。

 

 

4 大英帝国の虚栄

なぜイギリスは、当時から無益と考えられていた植民地政策を断行し、アメリカ大陸に対して独立を許すことになったのか。

 

冒頭にあげられている原因

当時の政府は、貴族階級によって構成されていた。ノーブレス・オブリージュという概念はあったものの、全体としては適性のない者が多かった。

 

議員は選挙区や、出身団体への利益供与だけを考えて行動することが多かった。

政府や陸軍・海軍には、閣僚が定収入を得られるあいまいな職責が多く、適性のない者が軍の役職についた。

 

イギリス軍人は、アメリカの市民兵を見下していた……アメリカの市民兵は欧州軍隊のように着飾っておらず、また契約違反があれば戦線からすぐに離脱した。

 

1763年に出された国王布告は、新たにフランスから獲得したインディアン居住地域への侵入を禁止するものだった。

名目はインディアン保護であるものの、アメリカの開拓民や、ジョージ・ワシントン、フランクリンにとっては、アメリカ植民地人から土地を奪い、国王の私的な領地とするルールだとみなされた。

 

7年戦争におけるフランス・インディアン連合軍との戦いは、イギリス軍とアメリカ植民地軍との対立・不和を拡大させていた。

当時英国首相だったグレンヴィルは、7年戦争で増えた国債を賄うため、新たな税源を探していた。

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それが、植民地に対する課税の原因となった。

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ジョン・ウィルクス事件は、自由を重んじる植民地人にとって精神的なバックアップとなった。

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対立

1765年の印紙税を契機に、各植民地州で抗議が起こった。抵抗を予想する政治家や軍人もいたが、当時の議会や政府は、ほとんど無頓着に税制を施行した。

植民地に対し議会の代表権を認めれば、アメリカは大義名分を奪われ、反乱はほぼ不可能になっていただろう。

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当時の英陸軍司令官は、植民地が徴税を拒否した場合、これを強制するには大規模な軍事力が必要になると懸念を示していた。

 

7年戦争の時代、ウィリアム・ピット(チャタム伯爵、大ピット)は南部国務大臣としてフランスとの戦争を指揮し、連戦連勝した。ピッツバーグは彼の名にちなんでつけられたものである。

ピットは、植民地に対する一方的な課税には反対していた。しかし、非常に強情だったので、おそらく独立戦争時に首相になっていたとしても、議会と衝突してうまくいかなかっただろう。

 

エドマンド・バークは、印紙法を徹底して、植民地の反乱を招くのは得策ではない、と意見したが、聞き入れられなかった。

 

議員の多数が主権のあるところを植民地に思い知らせてやろうと意を決し、アメリカから入る歳入の結果として自分たちの地租を減らそうと熱心に望んでいたので、議会を動かして撤廃案を可決する望みはほとんど無に等しかった。

 

植民地の抵抗を受けて印紙法が撤廃され、さらにタウンゼント法(各種の課税を取り決めるもの)も撤廃されるにあたって、イギリス議会や政府は、アメリカをこらしめてやろうという風潮になった。

また、本国による課税に反抗して、アメリカではボイコットが広がり、国内産業が勃興しつつあった。

ピットも含むイギリス人の一部は、重商主義に凝り固まっており、植民地はただ原料を供給し、製品を消費する存在であるべきと考える傾向にあった。

 

イギリス政府の一連の政策は、アメリカに独立運動を生じさせることになった。

それまで独立や反乱など考えてもいなかった植民地人たちが、イギリスによる強硬策や軍事介入をきっかけに蜂起することになった。

こうした動きが懸念されていたにも関わらず、当時のイギリスではとある貴族の不倫スキャンダルが中心的な話題であり、アメリカの問題は隅に追いやられていた。

 

アメリカはオランダから茶を密輸入した。このため、イギリス東インド会社の茶の売り上げは三分の一になった。

 

1773年、ボストン茶会事件が起こった。東インド会社が運んできた茶葉を、愛国者集団が切り裂いて捨てた。イギリスはこの犯罪に激怒し、ボストン港の閉鎖を命令し、またイギリスで官職についていたベンジャミン・フランクリンを侮辱し解任した。

 

1775年、大陸会議が行われた。イギリスは軍を投入して植民地を制圧しようと考えていた。かれらはアメリカ人を完全にあなどっており、まともな戦力にはならないと過小評価していた。

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自分たちを強者だと思い込んでいる人びとにとって、武力はつねに最もたやすい解決法に見えるからである。

 

同年4月、コンコードに反乱軍の武器庫があるとしてゲイジ将軍が部隊を派遣させたが、アメリカ人のミニットマンと呼ばれる民兵が警戒をはじめすぐに四散した。

イギリス兵たちの帰還途中に、村や地域から集まった民兵たちが攻撃を開始し、戦争が始まった。

 

植民地の実態を知っていた牧師たちは、本国に警告を発した。

 

……アメリカ人に対して武力を用いるのは常識の行為でしょうかと、私はお伺いしたい。2万人の軍隊、いやその数の3倍であろうと、故郷や補給から3000マイル離れたところで戦争をして、自由のために戦っている国民を征服できるとはとうてい思われません。

 

植民地の人々は、イギリス人が考えるような臆病な農夫ではなかった。

 

戦争

イギリス軍の指揮は怠惰で、準備もまともにできていなかった。

イギリス国内でも士気は低く、新兵は300人程度しか確保できなかったため、ドイツのヘッセン人を雇った。最終的にイギリス軍の3分の1がドイツ人になった

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1776年サラトガの戦いで、イギリス軍は大量の死傷者を出し降伏した。

イギリス本国では戦争への支持率がさらに低下した。元々、アメリカの戦争は、イギリス国民にとっては自由を抑圧する戦いだった。将軍たちの一部は、内戦に参加する意義がないとして辞職する者もいた。

 

根本的な問題として、アメリカを軍事的に征服したとしても、経済的な負担が増えるだけで何も利益がなかった。

 

軍人たちは、この内戦に勝つ見込みはないと知っていた。国王は、自分の代で敗戦記録を作りたくなかったので、戦争をやめようとしなかった。

1781年、ヨークタウンの戦いでアメリカ・フランス連合軍は、イギリス軍を降伏させた。

 

教訓

イギリスは実現できない権利を主張し、植民地の自発的な忠誠心を失うという致命的なミスをした。

閣僚の誰一人アメリカに視察にも行かず、アメリカ人に関心がなく、また対等の人間として扱わなかった。

最終的には意地だけが残り、学ぶ機会を失った。


[つづく]