2 シュライヒャーの時代
シュライヒャーは政治的陰謀に長けた、狡猾で陰険な人物と描写される。
1928年には国防相をグレーナーに据えるなど自らと親しい人物(兵務局長ハンマーシュタイン(Hammerstein)など)で固め、自身は官房局(Ministeramt)長官となり、政党政治に対し介入を始め、政党政治や首相選出を操作し始めた。
選挙制度の為にワイマール議会では与党が生じず、脆弱で不安定な連立政権が続いた。このため、継続性を持つ官僚たちが国を動かした。
この年、かれは軍事費を増大させ、海軍の再建に取り組んだ。シュライヒャーはヒンデンブルクへの影響力を使い、ポケット戦艦(Pocket Battleship)(軍備制限をクリアするための小型戦艦)建造を議会に決定させた。
これは「責任なき権力」(Power without Responsibility)とでもいうべきものだった。
かれは大統領の権力を頂点とし、国軍が権力の源泉として国を支配するという構想を描いた。これは、ゼークトの非政治的軍隊のテーゼを歪めたものだった。
1930年の中央党(The Center)ブリューニング(Heinrich Bruning)内閣成立はシュライヒャーの工作によった。
一方ヒトラーは1924年の出獄後、党再建に乗り出した。かれは肥大したレーム、ロスバッハ(Rossbach)らのSA(突撃隊)に対抗するためSS(親衛隊)(Schutz Staffel)を設立した。ヒトラーはSAを都市ゲリラ・警備要員として扱っていたが、革命成功のためには国軍を掌握することが不可欠と考えていた。
ヒトラーは経済界、工業界とのつながりを深めていった。
一時的な景気回復の影響により、党の国会での議席は12に過ぎなかったが、やがて1929年の恐慌が来ると全土で党員数が増加した。
著者は国家人民党(DNVP, Nationalist Party)を、粗暴で無法策、一切議会政治に貢献してこなかった勢力だと批判する。党首フーゲンベルク(Hugenberg)は1929年のヤング案(Young Plan)(ドイツの賠償額再確定)に反対し、ナチ党のヒトラーや鉄兜団(Stahlhelm)のフランツ・ゼルテ(Franz Seldte)とともにキャンペーンを張った。
そこにはゼークトやリュトヴィッツといった過去の軍人たち、シャハトもそろっていた。
ナチ党の精神やプロパガンダは軍にも浸透を始めていた。若手将校は12年間昇進できない等、みじめで屈辱的な境遇にあり、解放や栄光を求めていた。これに呼応し、シュライヒャーはナチ党の体制側取り込みを模索した。
1931年、ヒンデンブルクは再選を果たしたものの(ヒトラーは30パーセント得票)、ブリューニング内閣の維持は困難になっていた。SPD(ドイツ社会民主党)や中央党に頼る姿勢を嫌われ、ヒンデンブルクの信任を失っていたからである。
シュライヒャーはSA禁止令の責任を自らの師であるグレーナー国防相に押し付け辞任に追い込み、続いてブリューニングも辞職した。
シュライヒャーは大統領府長官オットー・マイスナー(Otto Meisner)やオスカルと相談し、後任にパーペン(Franz von Papen)を指名した。
シュライヒャーによる陰謀の結果……軍は政党政治に介入し権力をふるうようになってしまった。また、シュライヒャーはナチ党とのパイプという役割を失い、ブロンベルク(Blomberg)やカイテル(Keitel)などその他の軍人が無断でナチ党と接触を始めるようになった。
支持基盤のないパーペン内閣……プロイセン・クーデタ(オットー・ブラウンの社民党政権を右派クーデタにより乗っ取った)、1932年7月と11月の総選挙。
1932年7月総選挙、11月総選挙でNSDAPは第一党となり、与党の協力なしには内閣が存続不可能となった。パーペンは憲法停止によるクーデタ、議会停止を提案したが大統領は却下した。
国防相シュライヒャーは再び裏切りを行い(かれは「仲間を沈める魚雷」と揶揄されていた)、パーペン内閣不信任に回った。
シュライヒャーはナチス台頭に大きな責任を負っている……総選挙の実施、左派分裂工作、ブリューニング失脚工作など。
この間、ヒトラーは首相以外で入閣する意図はなく、シュライヒャー、ヒンデンブルクとの交渉は頓挫した。
シュライヒャーは自らが首相になり、ナチ党を分断させることでヒトラーを阻止することができると自信を持っていた。グレゴール・シュトラッサーを懐柔し入閣させる工作は失敗し、裏切られたパーペンはヒトラーと共謀してシュライヒャー内閣を倒壊させようとした。
ヒトラーはヒンデンブルクの息子オスカーに対し、土地をめぐる脱税疑惑で脅迫し、自らの首相就任を了承させた。
1933年1月にヒトラーは首相となった。シュライヒャーと国防相ハンマーシュタイン(Hammerstein)、パーペンらは、ヒトラーを制御できると考えていたが、逆にかれらがコントロールされることになった。
***
3部 ヒトラーと軍
1 権力掌握からヒンデンブルクの死まで
将校らは一部(シュライヒャー派等)をのぞいて、ヒトラーの再軍備・軍国主義方針に賛成し、かれを支持した。再軍備を支持する者、軍人としての出世や地位向上を歓迎する者、単純に戦争を待望する傭兵精神の持ち主など、内実は様々だった。
国防相には再軍備支持のヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner Eduard Fritz von Blomberg)が就任し、陸軍総司令官はフリッチュ(Werner Freiherr von Fritsch)が就任、官房長官に熱心なナチ支持者のライヒェナウ(Walter von Reichenau)、海軍統帥部長官はレーダー(Erich Johann Albert Raeder)が留任した。
兵務局長だったヴィルヘルム・アダム(Wilhelmsen Adam)は後更迭され、ルートヴィヒ・ベックLudwig August Theodor Beckが指名された。その後ベックは、兵務局から参謀本部への改称後も、参謀総長として再軍備を推進した。
ヒトラーは陸軍高官との密約(ドイッチュラント協定)を行い、ヒトラーをヒンデンブルク死後、大統領候補として支持するかわりに、SAを無力化させることを約束した。軍高官の大半はSAに嫌悪感を抱いていた。
レーム率いるSAは社会不安の原因と化しており、またその腹心ハイネス(Edmund Heines)(レームの同性愛相手)は、全国から美少年を集めてレームの同性愛ハーレムに供給していた。
レームは自身の計画――自らが国防相となりSAを近衛兵とし、共和国軍と一体化させる――を喧伝していた。
1934年6月、ゲーリング(初代SA指導者)とヒムラー(SS指導者、彼自身もエリート部隊SSの軍事化を構想していた)の計画にヒトラーが許可を出し、「長いナイフの夜」が実行された。
様々な証拠から軍高官がこの大量殺人を黙認していたことがわかっている。
シュライヒャーやブレドーら軍高官の殺害に対し表立って反対したのは、ハンマーシュタインやフォン・マッケンゼン(退役元帥)のみだった。
1934年8月、ヒンデンブルクが死亡した。ヒトラーは「指導者兼首相(Fuhrer und Reichskanzler)」となった。
SSはその後も政治テロやオーストリアにおけるドルフース首相暗殺などを行ったが、国防軍は黙認した。国防軍は、SA粛清の際に自らが手を汚さずに済んだことに安堵し、国内の警察活動を党に委任してしまった。
2 ヒンデンブルクの死からフリッチュ危機まで
1935年3月、ヒトラーはヴェルサイユ条約脱退を表明し、再軍備宣言を行った。また賠償金支払いも拒否した。
かれにとって軍隊は、平和ではなく戦争のために存在しなければならなかった。
再軍備によって、軍は条約によって規制された「対等」な軍から、より「強力な」軍へと変化した。
・共和国軍から国防軍(Wehrmacht)へ
・各軍種の軍服と旗にハーケンクロイツと鷲の紋章
・各軍種名称変更:Heer(陸軍), Kriegsmarine(海軍), Luftwaffe(空軍)
・国防省から戦争省(Reichskriegsministerium)へ、兵務局から参謀本部(Generalstab)へ
・徴兵制再開と陸軍大学の復活
再軍備に軍人たちは満足したが、同時に国防軍の政治的な影響力は弱まっていった。若い将兵の間ではナチに対する崇拝と信仰が高まっていた。
ヒムラーら率いるSS、空軍を指揮するゲーリングが戦争相ブロンベルクを越えて、ヒトラーの直接的な配下となっていた。
ヒトラーは続いて、ロカルノ条約により非武装地帯となっていたドイツ西部=ラインラント(Rhineland)への進駐を計画した。軍は再軍備の未完成を理由に反対したが、ヒトラーは全く考慮しなかった。またブロンベルクや外交官ノイラート(von Neurath)は既にイエスマンと化していた。
1936年3月のラインラント進駐は成功し、軍は自信を失った。
・ヒトラーは軍の臆病さを軽蔑し意見を聞き入れなくなった。軍の政治的影響力は歴史上もっとも弱まった。
・ヒトラーの政策は、ビスマルク以来の軍の方針――親ロシア・中国、日本・イタリアへの懐疑、英仏との中立、反ポーランド――と対立した。
著者ベネットは、ヒトラーは大ドイツ拡大計画を抱いていたと解釈する。その根拠は、1937年11月の秘密会議(ホスバッハ(Hossbach)覚書に記録された内容)である。
ヒトラーのチェコスロヴァキア、オーストリア侵攻計画に反対した3人の参加者……ノイラート、ブロンベルク、フリッチュは、その後排除されることになる。
ブロンベルクのスキャンダル(再婚相手が元売春婦)は、主に将校団によって取り上げられた。もっとも、再婚相手のファイルをゲーリングに引き渡したのは、ブロンベルクの親類にあたるカイテル(Wilhelm Keitel)だった。
ゲーリングとヒムラーはこの機会を利用した。ヒムラーは、ブロンベルクやフリッチュが軍におけるナチ教育導入を阻止したことに恨みを抱いていた。
さらにフリッチュの同性愛疑惑(SSによる捏造)も持ち上がっていたため、ヒトラーはこれを機会に古い軍人たちを一掃することを考えた。
ルントシュテット(Rundstedt)、ベックらはヒトラーに抗議するが最終的に妥協し、1938年2月、国防軍総司令部(OKW)の総長にカイテルが、陸軍総司令官にブラウヒッチュ(Brauchitsch)が就任した。この際、ブラウヒッチュは約50人の将官と高級将校を退役させた。
ノイラートも更迭され、リッベントロップ(Ribbentrop)が外務大臣となった。
ヒトラーは国防軍を完全掌握し、軍の政治的影響力は完全に失われた。
――復讐の女神(Nemesis)の季節が訪れ、いまやかれらは自分たちの過ちによる収穫、まやかしの収穫(Dead Sea Fruit)を刈り取ることになった。
1938年3月:オーストリアにおけるクーデタが発生し、ヒトラーは併合をおこなった(アンシュルス)。これに英仏は反対しなかった。
なお同性愛疑惑を捏造されたフリッチュはその後軍事法廷で無罪を言い渡され、このときはゲーリングもフリッチュを弁護した。
[つづく]
The Nemesis of Power: The German Army in Politics 1918-1945
- 作者:Wheeler-Bennett, S.,Overy, R.
- 発売日: 2005/03/01
- メディア: ペーパーバック