うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Bonhoeffer』Eric Metaxas その1 ――ヒトラー暗殺計画に参加する牧師

 

 

 

ヒトラー暗殺計画に参加し処刑された牧師、ディートリヒ・ボンヘッファーの伝記。

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所感

  • ディートリヒ・ボンヘッファーの生涯や、かれの取り組んだ神学について知ることができる。かれは戦争の時代に生まれ、ナチス政権と戦ったが、かれの神学研究もこうした時代に向き合って生まれたものだった。
  • 1933年にアメリカに留学していたボンヘッファーは、黒人問題を見て、「わが国の人種問題はここまで深刻ではないが……」と手紙に書いている。しかしユダヤ人への攻撃は、この時から一気に加速していく。
  • ボンヘッファーにとっては、キリスト教とは言行一致であるべきだった。かれは形だけ(教会に通う等)、言葉だけ(信仰について話す、教える)の信仰を否定し、神に全人生を委ねて行動するべきだと考えた。
  • ボンヘッファーの思想は、著者のメタクサスによれば、実証主義的な神学、自由主義神学とは異なり、強固に神の実在を信じるものである(分類としては新正統主義とされる)。これは非キリスト教徒からすれば、「ID理論」のようなものではないかという感覚を受ける。しかし、非道徳的な現実社会のなかでボンヘッファーに信念を保持させたのは、こうした一見、非科学的な思考である。

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  • わたしはボンヘッファーの思想についてどう考えたか……
    • 信仰者としての言行一致の姿勢、ユダヤ人に対する迫害を不正として許さず、また実際に不正な体制に抵抗したことを素晴らしいと考える。ボンヘッファーの原動力となった神学思想についても、納得のいく箇所が多い。しかし、神にすべてをゆだねよ、というときのその神を、わたしが信じるのは困難である。
    • なぜ信じないかといえば、明確な根拠がない以上、信じ込めといわれても難しい。釈迦や神社の神を、その実在を信じろ、といわれても、難しい。また、そのようなキリスト教環境で育ってきたわけでもない。これは本人の性格や育った環境が大きな要素を占めると考える。
    • わたしは道徳・倫理的な思想としてキリスト教を解釈しているが、これはボンヘッファーや一般的なキリスト教徒からみれば、キリストの復活を事実として信じない点で邪道である。わたしと同じような考え方を、ドーキンスが『神は妄想である』で書いていたので、教徒から敵認定されても仕方がない。

 

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なぜドイツはこうなったのか

ボンヘッファーとともに反ヒトラー運動にかかわった人間の多数は、プロイセンの軍人貴族階級出身者だった。その中には、参謀総長モルトケの孫や、ビスマルク首相の孫も含まれていた。このような社会的に恵まれた基盤を持った勢力も、ヒトラーの台頭を阻止することはできなかった。

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Nemesis of Power』で描かれているように、国防軍ヒトラーとナチ党の伸長を見くびり、また断固たる態度をとらなかった。このため、全体主義体制が確立する前に、既に軍は掌握されてしまっていた。

 

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軍人たちが機能不全に陥った要因の1つが、服従の原則である。軍の指揮系統が乱れた場合、日本のように国家崩壊に至る危険性がある。ドイツでは、服従原則の墨守ヒトラーの支配を許すことになった。

 

ナチ党の議席獲得過程には多くの非合法活動や他党弾圧があり、純粋な民主主義によって支配政党となったとはいえない。しかし、背景にヒトラーを支持、黙認、容認する人びとがあったことは確かである。

 

1 家族と子供時代

ディートリヒ・ボンヘッファーの父親、母親ともに、王族や宮廷牧師、芸術家、学者などに連なる由緒正しい家の出身だった。かれは非常に恵まれた家庭環境で育てられた。

1906年、ディートリヒは父カールと母パウラの4人目の息子として生まれた(ボンヘッファー家は8人兄弟姉妹だった)。母パウラは「プロイセン人は公立学校と軍隊で2回背骨を折られる」として公教育を信用しておらず、義務教育前まで自身で子供たちを教育した。

家にはHerrnhutという教会組織から修道女を招き、主に自宅で宗教的な教育を行った。母パウラにとって教会に通うことそれ自体は意味をなさなかった。

信仰には行動が伴っていなければならない。子供たちが常に教えられたのは、無私の心、他人への思いやり、隣人を助けることだった。

父カールは精神科医だっが、子供たちには「陳腐な決まり文句、軽薄な、傲慢な言葉を話すな」と指導していた。

 

ディートリヒら子供たちはよく別荘に行くと、聖歌を歌った。これはルターから続く文化である。ドイツ文化はルターによってつくられたといっても過言ではない。ルターがカトリックを追い出し、かれの聖書は統一ドイツ語の基礎となった。 

 

1914年、ドイツがロシアに宣戦布告すると、別荘のあった村の住民たちはお祝い騒ぎを始めた。

ところが数日後、イギリスがドイツに参戦布告すると、とたんに重苦しい沈黙が訪れた。戦争の見通しは瞬く間に暗いものになった。

戦時中も、ボンヘッファー家は幸せに生活した。かれらは行事の日には、トラップ一家のように家族で音楽演奏を楽しんだ。しかし1918年、次男ヴァルターが出征し、2週間後に砲撃のけがが悪化し死んだ。両親は非常に落ち込み、長い間立ち直れなかった。

1918年11月の敗戦によって、ドイツがこれまで確立していたあらゆる秩序と価値観が崩壊した。右翼と共産主義勢力が衝突し、内戦が続くなか、ボンヘッファーは神学専攻の道を選んだ。

 

 

2 テュービンゲン

1923年、ボンヘッファーテュービンゲン大学に進み神学を学んだ。

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この間、ボンヘッファーはワイマル共和国軍の軍事訓練に参加した。

当時、ヴェルサイユ条約によって陸軍兵力が10万人に制限されていたため、軍は学生に一定期間の軍事訓練を課すことで「黒い共和国軍」と呼ばれる潜在戦力の維持に努めていた。

 

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3 ローマ

ディートリッヒは、ローマに研修し、バチカン等の歴史的教会を訪れた。「教会とはなにか」というテーマは、後のボンヘッファー神学の中核となった。後年、かれは民族や宗派に縛られない教会の概念を追求する。

カトリックキリスト教の担い手として大きな役割を果たしたが、ドグマとなった教会に対してはボンヘッファーは賛同できなかった。かれは、カトリックプロテスタントの垣根を超えた、神の言葉に忠実な信仰の形を探すようになった。

 

4 ベルリン

かれはベルリン大学に移り、1927年に博士号をとった。

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ベルリン大学は、フリードリヒ・シュライエルマッハ以来、歴史批評神学自由神学の砦であり、ボンヘッファーは、当時の教授アドルフ・フォン・ハルナックから大きな影響を受けた。しかし、それ以上に強い影響を受けたのは、ゲッティンゲン大学に在籍していたカール・バルトだった。バルトの神学はハルナックらとは対極だった。

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バルトは自由主義神学に対抗し、新正統主義といわれる思想を追求し、神学を神という本来的なテーマに戻そうとした。

バルトは、聖書を歴史資料としてのみ考察する自由神学を否定し、聖書の奥に神が存在し、解放が存在することを主張した。著者はこの論争を、厳格な進化論者とID論者とになぞらえる。

ボンヘッファーは自由神学の科学的な手法は認めたが、聖書を含む世界の背後には神が存在すると考えた。

 

5 バルセロナ

博士号をとってから、かれはバルセロナに向かい、ドイツ人教会で牧師を補佐した。途中パリで礼拝に出席したとき、多数の娼婦が参加していることに感銘を受けた。

スペインのドイツ人社会は大戦前から変わらぬ保守的・唯物主義的な雰囲気だったが、ボンヘッファーの日曜学校や説教は人びとを教会に引きつけた。

かれの説教は非常に挑発的であり、後年のかれの神学の基礎が既に形成されていた。

 

かれの神学はバルトにならい、神が一方通行的にわれわれの前に顕現するというものだった。バベルの塔と同じく、人間の努力だけでは神を見出すことはできない。

キリストの宗教における本質は、宗教ではなくキリストその人である。

キリスト教倫理のほとんどはユダヤ教か他の宗教で説かれていたものに過ぎない。道徳的な努力で神に到達できるという考えは誤っている。

 

キリスト教はその中に教会にとって害をなすばい菌を隠し持っている。われわれのキリスト宗教と教会活動を、神への追求における基盤とすることは簡単である。しかし、そのことによってわれわれはキリストの観念を誤解し、歪曲しているのである。

 

一般的な意味のキリスト教組織と、キリストに従うこととは、まったく別だった。キリストに従うとは、人生その他すべてを要求するキリストに従うことである。

ギリシア由来の心身二元論ヒューマニズム人間主義)は、キリストとは程遠いものである。

もっとも神に無関心とおもわれる実業家、子供、ティーンエイジャーに対し説教することは、かれにとって貴重な体験となった。

 

 

6 ベルリン

1929年には、ワイマール共和国は分裂過程にあり、人びとは誰でもいいから指導者を求めていた。

 

……神学は哲学の単なる一分野ではない。むしろ、まったく別のものである。かれにとって哲学とは、神から離れた心理の追求である。それはバルトのいうタイプの「宗教」であり、そこでは人間自身が天国や真実や神に近づこうとする。しかし神学では、キリストへの忠誠がすべてであり、キリスト自身が人間の前に現れる。そのような解放なしに、真実はありえない。

 

この頃、かれは友人のヒルデブラントとよく議論し、友情を築いた。ヒルデブラントは改修ユダヤ人の神学者だった。

ドイツにおけるユダヤ人はほとんどが同化ユダヤであり、またボンヘッファーの友人のように、キリスト教徒も多かった。ナチスユダヤ人をその人種を理由に攻撃したが、その際ルターの言葉が引用された。

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ルターは当初ユダヤ人に同情的だったが晩年にはユダヤ人(教徒)の焼き討ちや強制移住を主張するようになった。

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7 アメリ

1930年から1年間、ボンヘッファーはニューヨークのユニオン神学校で学んだ。かれが渡米して間もなくナチ党が第一党となった。

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当時のユニオン教会では、ロックフェラーやFosdick牧師が率いるリベラル派と、ファンダメンタリストとが論争していた。しかしボンヘッファーは、アメリカの神学が非常に軽薄であり、またアメリカ社会が、鋭い真実よりも共同体の和や公平性を重視していることを発見した。

大学でのディベートは知的な探究というよりは社交場の意見交換に近かった。

 

ユニオンの学生たちは総じて、実用主義的な部分に関心を持ち、政治経済的な学習に取り組んでいた。

 

ボンヘッファーはアビシニア出身の黒人牧師の説教に感銘を受け、また黒人問題に関心を持った。このときはまだ、ドイツの人種問題はアメリカほど深刻ではなかった。しかし、状況はすぐに変わった。

 

兄弟愛や、平和その他たくさんのスローガンに満ちた地域で、このようなこと(黒人差別)がまだ是正されずに続いているというのが信じがたかった。

 

 

8 ベルリン

ドイツに帰国後、かれはスイスのカール・バルトを訪問し、友人となった。

 

時折、神なき呪いが敬虔な賛美よりも心地よく聴こえることがある。――ルター

 

1932年のドイツは、ヒトラーを首相に迎え入れるような情勢に陥っていた。ドイツ人は国粋主義に染まり、ヒトラーを救世主とみなしつつあった。ルターの命日を称える盛大な式典において、ボンヘッファーは「これが死者を悼む会合なのか」と、聴衆に冷や水を浴びせた。

 

預言者の役割は神が人びとに要求することをただ忠実に話すことだった。それを人びとが受け取るか否かは、神と人びととの間の問題だった。

 

ベルリン大学では、ボンヘッファーは聖書を神の言葉として読むよう学生たちを指導した。また生身の人間として生きることがキリストの要求であるとした。教徒として生きるとは、単に頭や観念で生きるのではなく、生活を律することでもあった。

北ベルリンの貧しい地区で堅信学校Confirmation Schoolを任されたボンヘッファーは、態度の悪い悪ガキたちに対し授業を行い、子供たちの家庭を訪問した。

 

 

9 指導者原理

1933年1月30日、ヒトラーが首相となって2日後、ボンヘッファーはラジオで「誤った指導者」に関する説教を行ったが、なぜかこの放送は途中で中断した。

ボンヘッファーにとって、指導者とは神に由来し、自己抑制を要求するものだった。一方、ヒトラーの指導者原理はヒトラー自身の上に何物もなく、かれ自身を縛る規律もなく、無制限の権力を振るうことを可能にするものだった。

皇帝がいなくなったドイツは無秩序に陥り、再び指導者を求めた。

 

ヒトラーは、ドイツ人がよく教会に通っていることを知っており、実用的な観点から神と宗教を口にした。しかしボンヘッファーは、かれが神を信じていないことを見抜いており、政権発足当初から批判を始めた。

 

10 「教会とユダヤ人問題」

書物が燃やされる場所では、かれらは最後には人びとをも燃やすだろう。――ハインリヒ・ハイネ

 

1933年には早くも公職からのユダヤ人追放が始まっていた。

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聖職者をアーリア人種に限定せよという指示は、それほどナチに融和的でない者のあいだでも抵抗なく受け入れられた。まだ当時は、人種・民族別に教会を形成することが自然だと考えられていたからである。また、聖職者の多くは、たとえ若干の神学を歪めたとしても、ナチ体制への順応が教会の繁栄につながると考えていた。

ボンヘッファーはすぐにナチの教会コントロールを批判する論文を発表した。かれは論文において、教会の国家に対する役割を次の3つに規定した。

 

  • 国家が神から命じられたとおり正しく運営されているか、判断する。
  • 国家による犠牲者を、たとえキリスト教徒でなくとも(ユダヤ人であっても)救助する。
  • 国家が暴走していれば、国家が神の命令から逸脱し、教会の存在を脅かすのであれば、国家に対抗し、それを止める。

 

そして、ボンヘッファーの解釈では、教会が教会であるためには、キリスト教徒とユダヤ人、異教徒は皆ともに立っていなければならない。

大学や法律業界に身を置くボンヘッファー家は、ナチによる行政コントロールを間近で見ており、これに対し家族は明白に抵抗活動を行った。

父カールはニューヨークのユダヤ教ラビに手紙を送り現状を訴えた。

 

 

11 ナチ神学

 

間違った宗教を持ったことがわれわれの不運だった。なぜわれわれは日本の宗教を持たなかったのか? かれらは祖国のための犠牲を最高の善とみなす。ムハンマドの宗教もまた、キリスト教よりよほどわれわれにふさわしい。――アドルフ・ヒトラー

 

ヒトラーキリスト教を否定していたが、まだ表立って敵対することはしなかった。

かれの部下であるヒムラー、ボルマン、ローゼンベルクらが反キリストを推進したのとは対照的である。ヒムラーはオカルトにこっており、SSの儀式の多くはかれのオカルト趣味を採用していた。

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党の統制する「ドイツ的キリスト者」は、旧約聖書を排除し、賛美歌から「ホサナ」「ハレルヤ」などのヘブライ語を除去し、聖書の言葉を反セム主義的に歪めるなど取り組んだが、徐々にばかげたものになっていった。

かれらは、カール・バルトボンヘッファー、ニーメラーが設立した告白教会をたびたび攻撃した。

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その後、戦死者追悼式で「Jerusalem, Thou City High and Fair」のメロディが演奏されただけでゲシュタポに通報がいくようになった。

つづく