うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『「日本人」という、うそ』山岸俊男――「心」のせいにしないで考えること

 

 

所感

心理学者の研究によれば、心は、人間世界の善悪の源泉ではなく、あくまで進化の産物である。すなわち、動物の他の内臓器官と同じ、特定の機能に特化した部位である。

 

様々な問題を「心」という漠然とした存在・概念に帰結させるのは誤りである。

この誤りは、「心」を幼いうちから矯正できるという考えに基づいた、教育万能論とかかわりがある。

わたしも、漠然と教育をやっておけば問題が解決するのでは、安易に考えてしまうことがある。

本書の主張は、人間の理性を万能とする西洋思想を批判したニーバーにも通じる。ただしニーバーが提示する解決策は、心理学者とは異なる。

 

著者は、集団主義的な安心社会から個人主義的な信頼社会への移行がうまくいっていないと主張する。

ただし、現代日本に見られる企業不祥事やそれに対する対応がすべて、我々の心の移行ができていないからだとする説は若干雑であるとも感じる。

また、アメリカ型信頼社会の誠実さ・公平さに対していささか楽観的な印象も受ける。アメリカでの生活が充実していたのだろうか。信頼社会は「正直者が得をする」商人道徳の世界だという認識だが、著者が参考とする合衆国は、どうみても正直な商人が繁栄している国ではない。

 

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現代の社会科学や心理学では、人間は進化の産物であるということが前提となっている。

本書は人間の利他性に関する研究成果を、日本社会にあてはめて検討する。

著者の考えは以下のとおりである。

 

人間の社会を成立させる仕組みは、利他主義が最終的に自己の利益につながるシステム、「情けは人の為ならず」である。このシステムが機能不全に陥っているのが、日本社会の問題である、という。

 

倫理的な行動、あるいは利他的な行動は、それを支える社会的なしくみがなくなってしまえば、維持することは困難です。

 

1 「心がけ」では何も変わらない

人は社会問題の原因を人の「心」のせいにしがちである。それは精神論で戦争に勝とうとした日本軍の過ちと同じである。

 

……いくら国民に徹底した倫理教育を施したところで、「いい国」、「美しい社会」など生まれないということは歴史が証明しているからです。……20世紀において国民に対する倫理教育・道徳教育に最も熱心だったのは旧ソ連や中国といった社会主義国家でした。

 

社会主義実験の失敗から得られる教訓は、人間の心=脳が、好きなように洗脳できる「真っ白な板」ではないこと、我々の心に最初から組み込まれている「人間性」を無視できないことである。

いじめは、純然たる犯罪行為(恐喝や暴行)と、自律的な集団維持(排除や「シカト」)とに分けられる。後者は、上位の権力に頼らず自治を行う集団の精神が誤って運用されている例である。

いじめを許しているのは子供たちの環境である。

 

……社会問題の解決を考えるためには、「心がけを改めよう」などといった安直なスローガンに乗せられてしまうのではなく、もっと物事を根源的に考え、物事の本質的な部分に目を向けていただきたいということなのです。

 

 

2 「日本人らしさ」という幻想

現代日本が抱える問題に対して、保守派も改革派も「日本の伝統が失われた」、「いや、日本の因習が原因だ」とその心性に原因を求めている。

 

日本人が和を重んじ滅私奉公を重んじる人びとという考えは疑わしい。戦国時代には上から下まで実力主義で活動した。日本人が会社人間になるのは、それが日本社会に最も適応した行動だからである。

 

つまり、日本人とアメリカ人の行動パターンの違いは、文化の違いがもたらしたものというよりも、その人が置かれている「環境」、つまり社会の在り方がもたらしたものにすぎないというわけです。

 

よって、社会環境が変わると会社人間は古くなり、日本人らしさのはずだった精神は失われていった。

日本人は謙虚である」という通説があるが、それは謙虚なイメージを抱かれるほうが社会で有利になる(と我々が考えている)からであって、日本人が特別謙虚なのではない。

デフォルト戦略は、人が置かれている社会の条件によって異なる。

 

……日本人とアメリカ人では「自分の行動が他人にどういう影響を与えるかわからない」という状況においてどうするかという「デフォルト戦略」は明らかに違います。

 

では、日本は謙虚と没個性を好む社会なのかといえば、個々人は特にそう考えない。ただ、「世間は謙虚と没個性を好むだろう」と皆が予測しているのである。このずれはどうして生じるのだろうか。

 

3 日本人は「個人主義者」

本章は、著者の別の本でも書かれていた内容である。

 

「日本人は自分たち日本人のことを集団主義的な傾向があると考えているが、ただし「自分だけは例外」と考えている集団である」。

 

我々は個人主義的であるにも関わらず、日本社会が個人主義者を排除するだろうと考えて、集団主義的に振舞っているのである。

実験の結果は、日本人がある面ではアメリカ人以上に個人主義的で一匹狼であることを示している。また、日本人はアメリカ人よりも基本的に他人を信用していなかった。

そしてこの結果もまた、日本国籍アメリカ市民との「心」という生物器官の違いではなく、社会環境の違いに由来する。

 

4 日本人は正直者か

集団主義社会は、信頼を必要としない社会である。

田舎の家がかぎをかけないのは、お互いに監視が行き届いておりまた隣人の家に泥棒に入るインセンティブが存在しないからである。

しかし都会では、誰が信頼できて誰ができないのかを常に疑心暗鬼となって判断しなければならない。都会には、村のような身内の安心が存在しない。

 

日本人は、相手が自分の身内であれば、それだけで相手を無条件に信用していいと考えるのですが、そうでない「よそ者」に対しては最初から「泥棒ではないか」と警戒感を抱いてしまいます。集団主義社会に生きている日本人にとって「よそ者」とは自分を騙し、利用しようと考える油断のならない存在というわけなのです。

 

著者は、こうした集団主義社会がもたらす「安心」が、経済成長の要因となったと考える。

 

5 なぜ企業はうそをつくのか

日本の安心社会は崩壊し、アメリカ型の信頼社会へ移行しようとしているがうまくいっていない。

著者は、日本を停滞させているのは不信だという。

 

……日本人が長らく生活してきた安心社会とは、実は「正直者である」や「約束を守る」といった美徳を必要としない社会であったからです。つまり、安心社会とは正直者を必要としない、正直者を育てない社会であるというわけで……。

 

村社会では、正直者である必要はない。正直にしないと制裁をうけるシステムがあるから正直でいるだけである。その義務がなければ、正直な振る舞いはしないだろう。

身内のいないところで露骨な行動が出たり、「旅の恥は掻き捨て」という行動が見られたりするのは、その例である。

 

 

6 信じる者は得をする

アメリカ型信頼社会について:

アメリカは人を信頼する能力に長けている。すなわち、相手を正確に観察している。一方、不信にとらわれた人びとは「囚人のジレンマ」のように相互の不利益に陥っていく。

 

7 なぜ若者は空気を読むのか

既存の閉鎖的な安心社会が崩壊して苦しんでいるのは高齢者だが、若者もまだ脱しきれていない。

 

 

8 「臨界質量」によるいじめ解決

どうすれば、正直者を増やし、人を観察する力を身に着けさせることができるのか。

よくある解決策は道徳教育だが、教育の成果にはムラがある。このため、教育にすべてを頼った場合、一部のずるがしこい者が、お人好しや正直者を搾取する社会ができてしまう。

 

たとえば日本でも前の戦争では「愛国教育」がさかんに行われましたが、それが結局、愛国者のふりをした一部の利己主義者たちが権力を握ったり、あるいは不正な利益を生むだけの結果に終わったのは今更読者に説明するまでもないでしょう。

 

ほとんどの人間は、日和見主義者であり、周りの状況を見て行動する。筋金入りの利他主義者や利己主義者はごく一部であり、大抵は、個人差はあれど、ある一定以上周囲の人間が行動を始めれば同じように行動する。

 

このように、一定数を超えると人間の行動が変わる境界を心理学で「臨界質量」という。

いじめの発生するクラスが持つ特徴は、クラスに傍観者が多く、これが臨界質量に達しているというものである。いじめを止める人間が1人しかいない場合、他の傍観者は報復を恐れてこれに加わらない。ところが、止める人間が4人いた場合、これに参加する傍観者が雪だるま式に増えていく。

どのクラスも大半の生徒は、よくもわるくもない傍観者である。

 

教訓……社会的ジレンマを解決するには、まず一部の人間に働きかけ、傍観者たちをこれに同調させることが効果的である。例えば教員がいじめを許さないという強い信念を持っていた場合、生徒たちの中でいじめを止める人間の割合が増えるかもしれない。

信頼社会を実現するには、正直者を増やそうとするのでなく、正直者が得をする社会を作ることが不可欠である。

 

9 信頼社会の作り方

身内コミュニティでの経済活動に固執し歴史から姿を消したマグレブ人貿易商と、リスクを受け入れて経済活動の幅を広げたジェノア商人との比較を行う。

ジェノア商人は、リスク承知で部外の商人や外国人と取引を行ったが、かれらに繁栄をもたらしたのは「制度」――法整備、裁判所の設置――の力だった。

リン・ザッカーの研究によれば、アメリカ合衆国は当初、移民が寄り集まった安心社会の集合だった。しかし、19世紀後半以降、移民の大量流入に伴い、公平・効率を目標とする社会制度が整備されていった。

信頼を基礎とする社会とは、ポジティブな情報すなわち信頼の積み重ねによって利益を得ていく社会である。

ネットオークションを例に上げると、ネガティブ情報はアカウントを変えればリセットできるのに対し、ポジティブな評価は、取引を積み上げることでしか達成されない(ステマレビューの可能性はある)。よって、人はポジティブ評価を重視するようになる。これが、信頼を基礎とする社会である。

そして、信頼を確認するためのシステムは、安心社会とは異なり、お上や行政からの監視・監督だけでは実現しない。いじめを撲滅するために生徒と教室を24時間監視するのと同様、こうしたシステムはコストを無限に増大させていくからである。

 

10 武士道精神によるモラルの破壊

信頼社会の道徳を「商人道」、安心社会の道徳を「武士道」になぞらえ、前者は市民社会に、後者は行政にうまく適用されるべきと主張する。