うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

強制志願/ 調和による統制を目指す国

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「強制ではない」が「強く推奨する」と指揮官が言ったとき(米軍ジョーク)

 

 ◆和の国、令和(Beautiful Harmony)、和諧社会(Harmonious Society)

 

 ジャーナリスト、ウォルフレンの本『日本/権力構造の謎』は、1989年に出版されたもので、本書で指摘されている一部の事象はすでに過去になったか、変わりつつある。

 しかし、日本の政治システムが持つ問題の大半は、いまも変わっていないという印象である。

 

 本書では比較的マシに書かれている警察だが、まだ裏金問題が全国化する前のことである。

 

 日本政治や社会の問題をまとめて提示した本であり、新しい事実や発見があるわけではないが、自分の経験と照らしても説得力のある話題が多い。

 

・日本には中心となる権力が存在しない。

・日本社会にみられる統制や、自由のなさは大半が統治者の政策に由来するものである。

 

 

 本書の中心テーマは、日本における権力中枢の不在、また政治権力が日本社会・文化に与えた影響である。
 また、日本の文化や社会に独自性を求める「日本異質論」を批判し、こうした文化の多くが時の政治権力によって強いられてきたものであることを指摘する。

 その様子は、ロシア帝国ソ連の影響を強く受けたロシア国民と重なる。

 

 

 ……したがって、集団生活、会社・集団への忠誠、協調的な傾向、個人主義の欠如、無きに等しい訴訟闘争など、日本の社会や文化の典型的な側面とされている事柄は、究極的には、政治的方策に起因するものであり、政治的な目的のために維持されているのである。

 

 権力中心の不在、権力の分散は古代、中世から始まっており、戦前も天皇を名目上の頂点として、政治家、官僚、財閥、陸海軍、宮中、元老等がそれぞれに権力を行使していた。
 現代日本の権力は、国会、官僚、企業、暴力団などが無秩序に権力を行使している。西欧のような強力な政治的リーダーシップは存在せず、アメリカにおける権力の分散とも異なる。

 日本における権力グループは、市民のコントロールの効かない状態で、個別に権力を行使している状態にある。

 

 

 

 日本の政治論評は、もっぱら、政治家のだれがだれにどんな働きかけをしたかなどの密室の権謀術数のごく狭い話題に限られ、憶測ゲームをはてしなく続けるばかりである。政策案への言及は皆無である。言及しようにも政策の違いがないのだから、しようがないのである。

 


 派閥は、政党の代わりをはたしているのではなく、ただ首相の座と地元への利益誘導とを競うだけのパワーゲームである。何より、この派閥抗争に選挙民は介入することができない。

 

 

 日本人には、法は自分たちを守るためにあるという認識、法の下の平等という認識がない。それは、日本がいまだかつて西洋的な意味での近代的な法を持たなかったことが原因である。

 

 伝統的な日本の法律は、合理的で哲学的な正義の原理を積み上げて法体系を作り上げたのではなく、民衆を盲従させるための命令を一覧表にしたとしかいえないものであった。

 

 日本では、実際に履行されえない憲法があっても、それが問題だとは一般に思われない。

 

 人為的に引き起こされたものであろうとなかろうと、不幸を前にしてはあきらめるのが円熟のしるしとみなされる。騙されたと騒ぎ立てる者は、「未熟」ということになる。

 

 

 「日本社会を理解する鍵は、日本人がノーを言うように教えられていないことを理解することだ」(サイデンステッカー)

 

 成田闘争は、和の国日本に紛争解決能力がないことを来訪者に見せつけている。

 

 コンセンサスという言葉は、提案や行動のコースをみなが積極的に支持することを暗に意味する。ところが、日本でコンセンサスと間違って呼ばれているものは、問題の当事者が当局が決定したことをひっくり返すことはないとする状況のことである。

 コンセンサスが成立しているとは、関係者の誰一人として自分より力のある人物や集団の計画にあえて抵抗する手間や危険を冒そうとする者はいないという意味だ。

 日本は、権力に対する制度化された抑制力が非常に弱い。

 

 表向きに非政治的な社会の問題は、紛争解決の手段を社会が持っていないことである。このような社会で使われるのはおどしである。