江戸初期の農民社会・制度と、大名の藩経営について説明する本。
◆所感
- 本書に記載されている「慶安の触書」は、現在は幕府の行政文書ではなかったという説が有力となっている。ただし諸藩に伝播しその影響力は小さくなかった。
- 著者の歴史観は抑圧された民衆対権力という構図に基づいており、マルクス主義の影響も受けている。細かい事実については現在の定説なども確認する必要がある。しかし、本書の説明の多くは現在も有効のようだ。
- この本を含めてどんな文献も、時代の影響を受けた歴史的な性格を持つものとして受け入れ・確認することが重要だと感じる。
- 江戸時代の農村システムは不変ではなく、様々な変化を被っている。本書は、江戸時代の一般的な農村区分である「本百姓/水呑百姓」が成立する前の段階がテーマである。
- ほかの「日本の歴史」シリーズも読んできたが、この本は群を抜いて読みにくい。
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1 はじめに
近世の土地制度を研究し、民衆の抑圧構造を解明するというテーマを唱えている。
2 小百姓
史料を参考に、江戸初期の農家を、独立性の低い家父長制的農業と、独立性の高い小農民的経営とに分ける。後者の小百姓は、巨大な家父長制的地主の没落・解体から生じたという。
この小農は、最終的に「家父長制的奴隷」の境遇に落ちたという。
3 太閤検地
中世の土地制度は、領主―名主―作人という重層的土地支配制度が主だった。これが室町後期になると領主・名主の一体化……「一職支配」が進んでいき、秀吉の太閤検地がこうした一職支配を徹底させた。
秀吉の目的は、田地から年貢を直接収集することにあった。
国人が独立性の低い百姓を多数抱えていた地方では、太閤検地に対する抵抗が激しく、一揆が多数発生した。
太閤検地の過程で、大土地農民が領主となる道はとざされ、また小百姓が直接土地を持つようになった。しかし実態としては、家父長制的農家による、小百姓の搾取は継続した。
4 地方知行
江戸時代、家臣は自らの知行を地方(じかた)すなわち土地と百姓として与えられた。家臣は自らの受け取った百姓を夫役に用いた。こうした労働力は戦争や、大名の義務に用いられた。
太閤検地と同時に名寄帳がつくられ、役をもつ百姓と無役の者とに分かれた。これを役家体制論という。
5 御家騒動
慶安までにおこった9件の改易のうち8件は外様である。かれらは皆御家騒動が原因で改易された。騒動の共通点は以下のとおり。
- 大名に統治能力が欠けていた
- 譜代直系の家臣と対立した
- 幕府に申し立てがなされた
- 財政窮乏に対する改革によって不和が生まれた
例として生駒騒動と伊達騒動があげられる。
6 財政窮乏
大名は軍役……在府、参勤交代等の将軍の義務を果たすために財政を回す必要があった。軍需品(武具、馬、銃)の購入は、こうした産品のある京大坂江戸の三都で行われた。よって大名は商業に組み込まれていった。
江戸での純消費生活は、大名家にとって大きな負担となった。
なぜ産業は三都市でのみ発展したのか? 近江国友や堺の鉄砲鍛冶に代表されるように、幕府は軍需産業や重要産業の統制を行っていたからである。
西国大名は他の地方よりも早く財政窮乏に陥った。このため貿易等商業に早い時期から取り組んできた。
そしてその結果大名も給人も、商人の利益追求のえじきとなって窮迫化していたのであった。
農民からの年貢搾取に限界があり、根本的な政策を打ち出せないところから、大名・旗本・御家人は窮乏し、商業に組み込まれた。このため幕府は、全国の商業を統制下におき、また海外貿易を制限した。
7 「不法」の支配
領主の支配に関して幕府からは郷村令が出され、農民が生存不能になるまで搾取した領主は処罰を受けた。
酒井家の酒井忠重は、困窮した農民が将軍に越訴したため、改易され、越訴した首謀者たちも死罪となっている。
8 佐倉宗吾伝説
佐倉宗吾は17世紀中盤、領主堀田正信の圧政に抵抗し、将軍家綱に直訴し処刑された伝説的人物である。佐倉宗吾自身は実在したとされるが、直訴については後代の脚色とされている。
佐倉宗吾は、一揆の多発した田沼意次時代、また明治の自由民権運動時に再び取り上げられた。
9 慶安触書
農村の窮乏に対し、幕府は対策をとった。
1643年の土地永代売買禁止令により、百姓が百姓の土地を買い上げることが禁止された。
その他、治水や鉱業等の発展について。
10 加賀百万石
加賀藩における農政の確立を資料をもとにたどるがややこしすぎて頭に入らない。
11 藩政の展開
17世紀前半、各藩は権力の基盤を小農におき、より多くの年貢が確保できるような体制を確立した。この小農、つまり小百姓を維持し存続させることがその後の農政の方針となった。
12 城下町
金沢は、藩の町建て政策によってつくられた。金沢が最大の城下町となるためには、他の井波や城端といった都市の勢力を抑え、金沢中心の商業状況を創り出す必要があった。
13 山・水・邑
地域共同体は水の利用にしたがって組織化されていた。これを井組という。
……この井組というのは、1つの用水につらなった村の集まりであり、この井頭というのは、事実上それらの村の集合体を支配していたということである。だからこの用水支配への参画を求めた有力百姓というのは、中世の名主の系譜をひいた名田地主であった。
やがて名主が没落すると、井組同士の争いが収束し、井組内部での争いが主となった。井組のなかで分水をめぐってもめごとがおきたときは、番水という時間ごとの分水が行われた。
名田地主は、領主になる潜在力を持つため、大名にとっては脅威だった。このため名主を没落させる政策の1つとして、中世的な共同体単位だった郷や荘が、より細かい村に分割された。これを「村切り」という。藩の山や森を利用させる際は、村を単位とした入会地が設定された。
こうして小百姓たちの生活の単位であった村は、領主の農民支配の単位として確定されるにいたった。これまでの郷肝煎といったものから、各村に村役人として、名主、年寄などがおかれるようになり、領主の農民支配の末端機構となった。これにたいして農民の代表として、名主らの行政を監視する役割を持った百姓代が設けられ、いわゆる村方三役が成立した。
五人組や宗門改め、年貢諸役の納入も、村を単位として実施されるようになった。
村共同体の成立にあわせて、「村八分」も生まれた。これは、村八分が、近代以後の村落解体の過程でもっとも苛烈になったという『残酷物語』の説と矛盾はしない。
実態としては、上層農民と下層農民の区別が存在し、決して平等な共同体ではなかった。
14 農戒書
1619年に死んだ米沢藩老臣直江兼続の書いたとされる『四季農戒書』の内容が面白い。
国主を日月と心得よ、地頭代官は所の氏神と崇めよ、肝煎は実の親と思え……
以下、善良かつ愚直な臣民としてふるまい、よく働いて年貢を納めろという命令が続く。
夫婦仲をよくするための具体的な指導(性病に注意、局部を洗え、女を日中ひまにさせると間男を招く等)もあり、非常に気持ち悪いお触れとなっている。
これは全文を引用しておくべきである。
書中で描かれる家族が小農形態であることから、これは後世(17世紀後半)の偽作ではないかともされる。
四月、男は未明から日暮れまで「鍬のさきのめり入ほど」田をうなえ。女房・娘は三度のめしをつくり、頭に赤い手ぬぐいをかぶり、田の辺へ持ってゆき、老若ともに、よごれた男の前に飯をすえよ。赤い衣裳をきた女房をみて、男どもは、自分の身はよごれていても、心が勇み、心労を忘れるだろう。
日が暮れて男が帰ってきたらば、湯をとり足を洗わせ、娵・姑ともに、男のあかぎれ足を、女房の腹の上にのせてなでさすれ。一日の心労を忘れるだろう。
五月、吉日をえらんで田を植えよ。……女房は化粧をし、衣裳をあらため、笠をかぶり、尻をからげ、身は黒くとも白い脚絆をして、田におり早苗を植えよ。
過去記事
the-cosmological-fort.hatenablog.com
15 地主と小作
下層農民は常に商業とは隔離されていた。たとえば煙草を作る村では上層農民が宿場町の問屋と組んで煙草の集荷・販売、村人のための必要物資の購入までを独占していた。
小農は農業生産を挙げるために鍬などの農具、また人肥よりも効果のある金肥(干鰯などが原料)を求めた。
16 嘉助騒動
名田名主から独立した小百姓はやがて本百姓となり、領主の直轄支配の対象となった。