『利己的な遺伝子』の著者による、書名だけで論争を招きそうな本。
宗教の害を論じ、無神論者であることを正々堂々と主張することを目的とする。宗教が無くとも道徳は成り立つというのがドーキンスの考えである。
特に、宗教的な色彩の強いアメリカ合衆国を念頭に置いて書いたようだ。
◆感想
この本で論じられる宗教に対する1つ1つの批判は、説得力のあるものである。しかし、わたしも特定の宗教を信じているわけではないが、宗教が非合理的なので撤廃すべき、とまでは感じない。おそらく、宗教にまつわるトラブルに直面した経験が自分にはないからである。
信徒からは否定されそうだが、宗教が生み出してきた建物や美術、文芸作品には興味がある。
宗教を根絶するというのは、感情を根絶することと同じくらい不可能に近いと考える。
宗教が生んだ文化だけでなく、宗教の負の側面……迫害、暴力、殺人行為等も含めて、特定の宗教ではなく、宗教をつくる人間の習性に原因があるのではないかと考える。
***
1
無神論者だったアインシュタインは米国人から様々な批判を浴びた。
理神論deismは、神が宇宙法則の設定にのみ干渉し、その後いっさい影響を及ぼさない存在であると考える。汎神論pantheismは、宇宙のしくみや法則を神と呼ぶ。汎神論者は殉職させられた無神論者である。
他人の宗教的な信仰を傷つけてはいけない、という宗教的な信仰が広く行きわたっている。宗教的であるということは合理的な根拠を欠くということである。宗教は相手の反論を封じることができる。
なぜ宗教だけ無批判に尊重されなければならないのかとドーキンスは疑念を表明する。
2
アメリカ合衆国の建国者たち、ワシントン、トマス・ジェファソン、アダムズ、トマス・ペインらは皆理神論者または無神論者だった。かれらが現在の神権政治的な合衆国を見たら驚くだろう。
ハクスリーは不可知論を唱え、神の存在はまだ確定されていないので存在するしないは五分五分だと主張した。ドーキンスによればこの不可知論は不十分か、または遠慮しているかのどちらかである。神が存在するかしないかは科学的な仮説であり、花の妖精が9割方存在しないのと同じくらい存在しない可能性が高い。
よって、科学は宗教に踏み入るべきでないという説は、宗教の傲慢である。
3
トマス・アクィナスや聖アンセルムス等、歴史上の神の存在証明に対し1つ1つ反論していく。
聖書もまた事実として疑いの強いものであり、書かれてあることをそのまま信じることができない。
現代においては、優秀な科学者のほとんどは不信心者か、儀礼的に教会に出向いているだけである。
4
このような複雑な世界が偶然からつくられたはずがない、設計者がいたはずである、という創造論者たちに対する反論が行われる。生物は複雑に見えるがこれは偶然によってではなく自然淘汰によってつくられたものである。
自然淘汰は偶然とは正反対のものである。
――物事が還元不能なまでに複雑であるなどと簡単に言わないこと。なぜなら、物事の細部を十分詳細に観察していなかったり、物事について十分考えぬいていなかったりする可能性があるからだ。
神学者ボンヘッファーは、「隙間の神」戦略を批判した。現在の知識や理解の及ばぬ隙間を見つけては、そこを神が満たすものと決めつける戦略のことである。
――宗教の本当の意味で悪い影響の1つは、理解しないままで満足するのが美徳だと教えることなのである。
インテリジェントデザイン説に安易に飛びつくのは、超能力者のスプーン曲げを目にして超常現象だと結論するのと愚かさにおいて同様である。
――……もし科学の歴史が私たちに何かを示すとしたら、自分たちの無知に『神』というラベルを張ることでは、何の得るところもないということだ。
宇宙や生物は、例えば自然淘汰のような単純な原理の積み重ねによって複雑な結果まで発展している。これを万能の神がすべて実行したと考えるのは不思議である。神はよっぽど精巧なコンピュータや脳を持っているに違いないが、それはそれで原理を究明できるはずである。
5
神はほとんど存在しない可能性が高いが、なぜ宗教は普遍的に存在するのだろうか。ドーキンスはダーウィン主義の観点から考える。すなわち、自然淘汰の及ぼすいかなる圧力が宗教を生んだのだろうか。
宗教は基本的に浪費であり、敵意を呼び起こし、他の種を迫害する。
宗教の効能の1つに人間をストレスから守るというものがあるが、バーナード・ショーは「信仰者のほうが懐疑論者よりも幸福であるという事実は、酔っ払いのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない」と指摘した。
「群淘汰」理論からの説明……群淘汰とは集団間でダーウィン主義的淘汰による選別が行われるという考え方である。忠誠と犠牲を強いる結束力の強い宗派が生き残り、子孫を繁殖させていくというもの。
宗教は何らかの行動に伴う副作用であるという説明……例えば、子供は危機回避のために大人の指示に服従した方が利益がある。しかし、それがうまくいかないときもある。同様に、軍隊において兵隊は服従を原則とするが、それが失敗することもある。
自然淘汰は、先任者に疑いを持たず服従するという傾向を脳につくりあげる。この行動には生存上の価値があるが、同時に「奴隷のように騙される」ことにつながる。
ドーキンスの仮説によれば、この服従傾向のうち負の側面が宗教である。
なぜわれわれは生得的に二元論者であり、目的論者なのか。すなわち、精神と物質を二分したがり、すべての物事には目的があると考えたがるのか?
ドーキンスとデネットの仮説としては、物事に目的を見出すことが、外界の動きを理解し、適切に行動することの助けになるからである。
宗教はミームであるとする説……ミームとは、人間の心から心へとコピーされる情報であり、文化を形成する情報である。ミームは、遺伝子の類推によって生まれた概念である。
[つづく]
- 作者: リチャード・ドーキンス,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/05/25
- メディア: 単行本
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