うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Bonhoeffer』Eric Metaxas その2 ――「平和にむかう安全な道は存在しない」

 

 

12 教会の闘争が始まる

ドイツ的キリスト者の指導者、元海軍従軍牧師のLudwig Mullerヒトラーに取り入り信望を得た。

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かれはドイツ国家司教になろうと画策した。しかし、ミュラーの代わりに国家司教となったBodelschwinghは、ニーメラーやボンヘッファーとともにナチへの抵抗を計画した。

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ミュラーは突撃隊や親衛隊を使い反対派を制圧し、選挙により国家司教になった。

 

13 ベテルBethelの告白

ボンヘッファーはBodelschwinghの運営するベテルの療養院を訪れた。そこで暮らしているてんかん患者や障害者たちは、1939年以降、安楽死政策の標的となった。

 

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ボンヘッファーは「アーリア人条項」に断固として反対し、教会がユダヤ人を助けないのであればそれはもはや教会ではないと考えていた。

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9月の教会会議では8割強がドイツ的キリスト者であり、かれらは褐色のナチ制服を着ていた。

ボンヘッファー、ニーメラー、ヒルデブラント、ゲルハルト・ジャコビ(Gerhard Jacobi)らは牧師緊急連盟(告白教会の前身)を結成、ドイツ的キリスト者に反対する声明を発表し、これが後の告白教会設立につながった。

ドイツ的キリスト者の強引な方針は一般人の怒りを招いただけでなく、ナチ党員からも笑われた。

ヒトラーは、ドイツ的キリスト者が用済みになるとこれを捨てた。

 

14 ロンドン

厄介払いのためドイツ教会のロンドン教区に送られたボンヘッファーは、ジョージ・ベル司教と親交を深めた。ベルはボンヘッファーよりも20歳以上年長であり、エキュメニカル運動を推進していた。

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ベルはその後ドイツの抵抗運動を支援し、また連合国の戦略爆撃や核開発に反対した人物である。

 

15 教会闘争の激化

ボンヘッファーは、ミュラーらの思惑とは反対に、ロンドン滞在期間に多大な影響力を行使し抵抗活動を行った。諸外国のドイツ教会でイギリスのみが、後に告白教会に加盟した。

 

1934年1月、ミュラーがアーリア条項復活と、教会のすべての青年団ヒトラーユーゲントに改編することを決定すると、牧師緊急連盟は帝国教会からの離脱を宣言した。

これはドイツにおけるプロテスタントの分裂、宣戦布告に等しかった。

 

この頃ボンヘッファーが行ったエレミヤ書にちなんだ説教は後に有名になった。神はエレミヤを獲物のように追いかけ離さず、エレミヤは逃げられなかった。このため人びとに侮辱され、拷問されたのである。

 

……かれは神の囚人だった、旧約の預言者のように、かれは苦しみ、弾圧されるために呼ばれたのだった、そしてこの敗北とその敗北を受け入れたところに、勝利があった。

 

エレミヤは平和を乱す者、人民の敵として、他のものと同じように当時から現在にいたるまで辱められた。かれは神に捕捉され、またかれにとって神はあまりに強かった。エレミヤは、どんなによろこんで大勢といっしょに平和と「ハイル」を叫んだだろうか……。

 

ヒトラーを交えた会議で、ヒトラーはニーメラーらを罵倒し続けた。ゲーリングはニーメラーの電話を盗聴してヒトラーに提示していた。ニーメラーは当初ナチ運動を支持していたがその幻想は崩れ、かれは説教する資格をはく奪された。

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ボンヘッファーはロンドンにやってきたドイツ人キリスト者、帝国教会外務局のヘッケルHeckelと論争した。ヘッケルは、かれらを「疫病移民」扱いし、資格をはく奪すると脅迫したがボンヘッファーは動じなかった。

 

1934年5月、牧師緊急連盟とカール・バルトを中心にバルメン宣言が出された。この宣言は告白教会の中心ドクトリンとなった。バルメン宣言はイギリスなど外国でも掲載された。それはドイツのキリスト者の一部が、明確に政府と帝国教会からの独立を宣言し、批判するものだった。

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長いナイフの夜とヒンデンブルクの死を経て、ヒトラーは軍と全国民を掌握した。

 

……ドイツ人は自分たちが岸から遠く離れ、狂人とともにボートの上にいることに気がついた。

 

 

16 ファーン島会議

告白教会は一枚岩ではなく、ボンヘッファーのように明確に帝国教会に反対する者は少なかった。多数の牧師は、自分たちが「非愛国的」だとみられるのを恐れており、ヒトラー政権を正面から批判したがらなかった。

ボンヘッファーはナチ政権に対して、神学的のみならず、実際の行動で抵抗しようと決心していた。

 

信仰には行動が伴っていなければならない、さもなければ信仰しているとはみなされない。

 

デンマークのファーン島における説教……

 

平和にむかう安全な道は存在しない。平和は、それ自体が挑戦であり決して安全には達成されない。平和は安全の反対である。保障を求めることは自分自身を守ろうとすることである。平和は自分自身を神の命令に委ね、安全を求めず、信仰と服従のもと人びとの運命を全能の神の手にゆだね、それを自己目的に向けないことである。戦いは武器によってではなく神によって勝ち取られる。道が十字架へと続くとき、戦いに勝利する。

 

17 ZingstとFinkenwaldeへの道

ボンヘッファーは各国のエキュメニカル運動と会合しながら、帝国教会とドイツ的キリスト者への批判を続けた。かれにとって告白教会もまだ不完全だった。この時期、ガンジーの非暴力不服従闘争に関心を持ち、インドへの訪問を検討している。

本国ドイツでは、ミュラーの腹心Jagerイェーガーが、2人の有名な司教を自宅軟禁したため、多数の市民が街頭で抗議活動を行った。

 

18 Zingst and Finkenwalde

1935年4月、ボンヘッファーは告白教会の牧師養成所(seminary)に職を得てバルト海沿岸のZingst半島に向かった。すでに非公認の牧師養成所は違法だった。その後Finkenwaldeに移転し、修習生たちと共同生活を送った。

ボンヘッファーは、機械的な説教法の学習を避け、修道院的な、瞑想や祈りの時間を重んじた。

Finkenwaldeのあるポメラニア地方はユンカーの土地であり、かれらはプロイセン将校の家系でもあった。

ヒトラー暗殺計画参加者たちの大半はこうした軍人貴族の出身である。ボンヘッファーは、土地のVon Kleist Retzow家と交流し、子供たちの堅信礼を行った。

 

19 Scylla and Charybdis

ボンヘッファーの告白教会における立ち位置は決して中心ではなかった。

告白教会の多数は、ヒトラーとの正面対決に否定的であり、対話を求めていた。また国外のエキュメニカル運動に対しては、外国人であるとして懐疑的だった。

1935年のニュルンベルク法は、ユダヤ人とドイツ人との婚姻を禁止し、ユダヤ人の市民権をはく奪し帝国の臣民に落とすものだった。

ルター派や告白教会は、国家と教会との関係にしか関心をもたず、この動きに対し対応しようとしなかった。ボンヘッファーにとって、教会の役割は声を上げられないもののために声を上げることだった。

 

キリストは他者のための人間であるのだから、キリストの具現化である教会は他者のためのものでなければならなかった。

 

ユダヤ人のために声をあげるもののみがグレゴリオ聖歌を歌う資格がある。

 

人びとが苦しんでいるときに神のために歌うものは、同時にその苦しみに対し声をあげなければならない。そうしないものの崇拝は神にとって無意味である。

ニュルンベルク法に対する非難決議は出されなかった。告白教会はナチの分断政策を受け、一部の牧師は党から金銭を受け取り要求に従っていた。

 

1937年、ナチ政権は800人以上の告白教会牧師を逮捕した。

ニーメラーは逮捕され、その後も釈放即逮捕の嫌がらせを受け、最終的に1945年、ダッハウ収容所において連合軍によって解放された。またヒルデブラントは、ボンヘッファーの友人ドホナーニの助けでゲシュタポから釈放され、そのままロンドンに亡命した。

ヒルデブラントユダヤ人であり、命の危険が迫っていた。

ドホナーニはニュルンベルク法に反対した法律家で、後にヒトラー暗殺計画中心人物の1人となった。

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[つづく]