8 T4作戦と弁護士(The Lawyers)
ドイツ人には、社会が安定していた、治安がよかったとしてナチス時代をなつかしむ者もいる。
合衆国の法には権利章典(Bill of Rights)があるが、ドイツの法に個人の自由という概念はなかった。
ナチ政権の代表的な非人道的政策……夜と霧(Nacht und Nebel)や、ユダヤ人絶滅政策、安楽死プログラムは、すべて法体系と隔絶した総統指令によって実行された。
法曹の一部や法務省は、総統内閣官房(Chancellery)のラマーズや、内務省に、安楽死作戦について抗議した。通常の法手続きを無視した殺人や収容が横行したためである。
党員やナチ政権にとって、民族に利する事、ヒトラーの意志のみが合法だった。
人民法廷(反ナチ活動を取り締まる法廷)が通常の法廷と並立しており、法制度の混乱を助長した。
法曹や関係者たちのなかには、安楽死プログラムの法制化、成文化を目指した者もいた。しかし、ヒトラーには法制化するつもりはなかった。法相ギュルトナーはヒトラーの意志に従った。
ナチ政権において法律は無力化されており、障害者たちが法に助けを求めることはできなかった。
※ 法相フランツ・ギュルトナー Franz Gurtner
内相ヴィルヘルム・フリック Wilhelm Frick
人民法廷長官ローラント・フライスラー Roland Freisler
官房長官ハンス・ハインリヒ・ラマース Hans Heinrich Lammers
※ ナチス・ドイツの行政を調べると、従来の行政機構を解体することなく、その上にナチ党が統制する独自の機関や省庁が上書きされていることがわかる(例:ヴァイマル憲法、州政府等)
9 T4作戦と教会
カトリック教会は、ユダヤ人迫害や占領地での暴力を黙認する一方で、安楽死には組織的に反対運動を行った。
その理由は複雑である。
ドイツの東部・北部はプロテスタント(ルター派、カルヴァン派)が、西部と南部ではカトリックが主流だった。
ルターやカルヴァンが、世俗権力への服従を解き、権力と一体化したのに対し、カトリックはビスマルク時代の文化闘争において迫害を受けた経験があった。
ビスマルクは、カトリックを「ウルトラモンタニズム(Ultramontanism)」……教皇至上主義(教皇の差し金である)として非難した。
ワイマール時代にはドイツ人の信仰心が薄れたため、ヒトラーの台頭は教会にとって歓迎すべきことだった。元来、教会は国家主義的かつ保守的だったからである。
プロテスタント教会は、1933年の祭典「ポツダムの日」において、ヒトラー政権との協調を演出した。また同年には、ヴァチカンのピウス12世とナチ政権とが、コンコルダート(協約)を締結した。これは、お互いの不可侵を確認するものである。
ドイツでは、ケアホームや障害者施設のほとんどが教会によって運営されていた。T4作戦が始まると、プロテスタントは安楽死プログラムを黙認した。
ドイツ国内の牧師(pastor)や司教(bishop)の通報を受けて、ローマ教皇庁は政策を批判した。
様々な聖職者が、キリスト教の教えと倫理に反するとして、安楽死を批判した。
代表的な反対者……
・フリードリヒ・フォン・ボデルシュヴィンク Von Bodelschwingh……新教牧師
・パウル・ゲアハート・ブラウン Paul Gerhard Braune……新教牧師
・グラーフ・フォン・プライジンク Von Preysing……ベルリン司教
・クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン Clemens August Graf von Galen……
フォン・ガーレンはヴェストファーレン地方の都市ミュンスター(Munster)司教であり、もっとも大々的に安楽死政策を批判した(説教(sermon)を通じて)。
かれは愛国者かつ軍国主義者であり、ドイツ軍、ドイツ、ヒトラーを賛美し、また共産主義の根絶を主張した。しかし、安楽死政策は信仰に反するとして頑なに否定した。
ゲシュタポも、ガーレンの威容を恐れ逮捕できなかった。
フォン・ガーレンの説教はすぐに複写され、聖職者や軍高官や国外に広まった。ヒトラーは、司教にいずれ報復してやると言ったと伝えられている。しかし司教は生き延びた。
ドイツの聖職者たちは、自分たちが直接被害を受ける政策……安楽死政策に対しては抵抗したが、それ以外の政策……ユダヤ人や異端者に対する迫害、占領地での犯罪には無関心だった。
それは、平均的なドイツ人の反応でもあった。
10 T4作戦の後遺症(sequelae)
連合国がドイツを占領した後、ある精神病院において、医者たちはいまだに殺人を続けていた。米軍将校レオ・アレクサンダーの調査によって、T4作戦に係る裁判がニュルンベルクにおいて行われた。
訴追された人物はほぼ全員が医者だった。首謀者であるブラントは、つらい業務だったがヒトラーの意志として実行した、と弁明した。
戦後しばらく、ドイツは、ナチ時代の犯罪行為から目を背け、歴史のなかに埋めようとした。1960年代の学生運動は、親たちのこのような忘却行為を不誠実であるとして批判した。
障害者らに対する安楽死作戦が本格的に研究され始めたのは1980年代以降である。クレー(Klee)は、初めて包括的なT4作戦の研究を発表した。
安楽死プログラムの原因となった優生学思想は、ナチスに限定されるものではない。ビンディンクとホッフェの著作は1920年代に出版されたものであり、また優生学的思想は他国、他の時代においても出現する。
***
著者は、障害者に対する迫害の思想を次の要素に分けて考える。
・拡大解釈(Spread)……体の一部が不自由なので、何もできないだろう、すなわち役立たずだろうという考え。
・価値の切り下げ(Devaluation)……役に立たないということは、かれは無価値であり「生きるに値しない命」である。
・他者性(Otherness)……障害者に対する共感の欠如。健常者は障害者より優れており、医者は患者より優れている。優れている者は、劣っている者の価値を決めることができる。
医者は、自分たちは患者よりも価値があると考えがちである。一部の医者は、障害者になるなら死んだほうがいいと考えちえる。
安楽死の問題は、まだ検証されつくしていない。たとえ重度障害者であっても、自分から死を望むことはまれである。
一方、家族が患者の安楽死を望む例は多い。
障害者の命の問題はなくならないだろう。
ユダヤ人と同じく、障害者は、ナチ時代の歴史的犯罪を思い起こさせる存在として、いまなお忌み嫌う者もいる。
――社会は、障害者になったからという理由で人間を切り捨てることはできない。なぜなら、だれもが人生において障害を持つ可能性があるからである。
***
◆その後と付録
障害者を異物とみなす考えは、古来から人間社会についてまわった。部族社会では、障害者を否定的な異物とみなす傾向が強い。
学者によれば、動物の社会には、障害者を処分する、殺すような習性はないという。
ユダヤ人社会や西洋社会では、遺伝的・先天的な障害を天罰と考える風潮があった。
障害者に対する感情……調査の結果、障害者を純粋に嫌うものは少なく、同僚としても抵抗はない。しかし、結婚相手に選ぶものはほとんどいない。
障害者は憐みの対象、この世の悲劇や苦しみの具現化として扱われがちである。障害者たちは、家族や周囲の負の感情に影響を受け、自分で自分を無用のものと考えるようになる。
障害は、病や苦痛ではなく、個性や特徴の1つである。
通過、通用(passing)……高い社会的地位や資産を持っている場合、障害者は健常者とみなされる、つまり「通用する(passing)」可能性が高くなる。
その代表例がF・D・ルーズヴェルト大統領である。かれは成人してからポリオを患い常に車椅子で行動したが、自分が障害者であることを決して公にはしなかった。
障害者やその家族が社会的に高い位置にあるとき、医者による治療の見込みも高く見積もられるという。
By Trust Betrayed: Patients, Physicians, and the License to Kill in the Third Reich
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