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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『By Trust Betrayed』Gallagher その2 ――ナチス・ドイツの安楽死作戦

 3 T4作戦の始動

 安楽死施設は次のような場所に設置された。

 

・グラフェネクGrafeneck(ウルムUrm南西)

ブランデンブルクBrandenburgの古い監獄(ベルリン南西)

・ハルトハイムHartheim(リンツLinz北西)

・ベルンベルクBernberg(中央ドイツ)

・ハダマーHadamar(北フランクフルトFrankfurt)

・ゾンネンシュタインSonnenstein(サクソニーSaxonyのドレスデンDresden近郊)

 

 当初は、悪名高いSS大尉クリスチャン・ヴィルト(Christian Wirth)が患者の後頭部を銃撃する等の狼藉を働いていたが、やがて一酸化炭素(carbon monoxide)による薬殺と焼却に移行した。

 移送の細かな統制が文書で通知され、また患者の所有物は回収・横領された。屍体の金歯は専門家によって抜き取られた。医者たちは、医学に役立てるために、屍体の脳や部位を要求した。

 患者の家族たちは、行方不明になった身内を探して、当局に手紙を書いた。この場合、医者による委員会は「当該患者の移送先は知らされていない」と回答した。

 

 遺族に死亡通知を出す際のテンプレートは次のとおり。

 ――患者は〇〇の疾患により死亡した。患者は苦しみから解放された。遺体や所有物は感染防止のために処分された。

 

 安楽死プログラムは1941年の夏には中止された。カトリックや市民からの反対が多く、東部戦線の士気に影響を与えかねなかったからである。

 しかし、収容所や、病院での安楽死、また障害者・同性愛者・混血・慢性病患者への殺人は続けられた。記録に残っているだけでも、1941年までに7万人以上の患者が殺害された(「野生化した」安楽死プログラム)。

 

 

 4 子供

 人類の歴史上、子供は、家族の幸福の象徴とされる一方で、常に弱者として迫害を受けてきた。

 当時の医師たちは、T4作戦の開始に伴って、遺伝病の新生児や障害児、ユダヤ人の子らの殺害を行った。医師によって「生きるに値しない命」が選別され、殺害されたことは、障害児に対し無用者の烙印を科すことになった。

 

 子供に対する殺人を、当事者や周辺住民は皆知っていた。かれらは、概ね賛成するか、見て見ぬふりをした。

 

 ――ヒトラーは生を「終わりなき闘争」と考えた。かれは、「強者がその意志を強制する、これが自然の法則、ジャングルの法則である」と言った。10年が経過し、総統はドイツをジャングル国家に変貌させた。

 

 

 5 アプスベルク(Absberg)におけるT4作戦

 ドイツ中南部の小さな村アプスベルクには、修道院(Abbey)があり、そこに障害児や知恵遅れの子供たちが住んでいた。かれらは町に溶け込んでおり、住民と一体化していた。

 1940年、灰色のバスがやってきて、広場の中央に集められた子供たちを移送しようというときに、騒ぎが起こった。

 ナチスが障害者を殺害していることは公然の秘密となっていた。障害者も、自分たちの運命を認識していることが多かった。

 

 子供たちが抵抗を始めると、村人たちもいっせいに叫んでSS隊員に詰め寄り、地獄のような光景が生じた。

 

 移送の際に、住民から強烈な抵抗を受けた事件は、地元のナチ党員を通じてSDに報告された。この村に対する処置がどうなったか記録には残っていないが、ヒムラー以下親衛隊は、世論を沈めるために苦心していた跡がうかがえる。

 

 

 6 問題を起こすT4作戦

 ナチス・ドイツ全体主義というよりは全体主義の戯画ともいわれる。様々な機関・部署・軍隊が混沌として絡まりあい、「権威の無政府主義」とハインツ・ヘーネは言った。

 T4作戦も、そうした制度的混乱の1つだった。

 

 ナチス・ドイツは世論を気にかけていた。

 兄弟姉妹の障害者が同一日時に死亡したり、同じ病院の患者が同時に死亡したりする例が多発し、遺族からの抗議が相次いだ。

 散発的な抗議や抵抗は起こったが、安楽死プログラムの根絶には至らなかった。

 

 T4作戦自体の廃止に最も寄与したのはカトリックからの抗議である。

 作戦の実施者やナチ党員は、社会を安定させるために作戦の秘匿を徹底しようとした。かれらには、安楽死プログラムが倫理的に問題があるいう感覚がなかった。

 

 調査によれば、障害者を身内に持つ家族の多数は、安楽死に賛成した。ヒトラーは、かれらを社会的な責任や罪悪感から解放しようと考えていた。

 

 

 7 T4作戦と医師

 ドイツにおける医師のほとんどは、大量殺人に賛同し手を貸すか、黙認した。かれらは「ナチ時代を幸福に、愉快に過ごした」。

 ナチス時代には、人びとは諦めと無関心に傾いていた。戦後に行われた弁明で、ある医師は「安楽死プログラムが嫌だったので、よく現場を離れた。悪夢に苛まれた」と言った。

 これは抵抗ではなく、黙認と服従に過ぎない。

 

 一部の医師は、患者の病状を記載する方法に細工を加え、安楽死の対象から除外させ、数千人の命を救った。

 殺人センターでは医師や看護師の自殺が頻発した。

 ドイツは医学の最先端であり、医者の地位は非常に高かった。かれらの多くは国家主義者だった。第1次世界大戦時、医師会は軍国主義を擁護し、文化の破壊を是認した。

 第1次世界大戦敗戦後、医師の収入は激減した。しかし、ナチ政権の始まりとともに医師の需要が高まり、また収入も回復した。

 ユダヤ人医師の追放によって、ドイツ人医師たちは空いたポジションを得ることができた。

 ヒトラーの最も熱烈な支援者が医師たちだったのは驚くことではない。

 

 輝かしい経歴を持つ数多くの医師たちが安楽死作戦に加担した。T4作戦において、SSは輸送や車両の提供、警備など、補助的な役割を果たしたにすぎない。

 作戦は委員会と医師たちが進んで実行した。

 

 医師たちの動機に関してはいくつかの推測がある。

・テロ政治への恐怖

・医師界からの追放のおそれ

・血の盟約(Blutkitt):犯罪に加担させることで忠誠を高める

・臆病者に見られたくない

 

 病と闘う医師にとって、病と死の象徴である障害者や患者は、敵とみなされるようになった。

 安楽死プログラムは秘密裡に行われた。また、プログラムは科学の名のもとに行われた。

 慢性病患者への治療をやめ、気休めだけを与えることと、かれらを殺人センターに送り込むこととは、かけ離れてはいるが、論理的にはつながっている。

 [つづく]

 

By Trust Betrayed: Patients, Physicians, and the License to Kill in the Third Reich

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【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画

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