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叛乱はカポ、ゾンダーコマンドの一部、そして外部のレジスタンスによって計画された。これはすぐ失敗し、首謀者や逃亡者は処刑された。
あるときポーランド人のレジスタンス女性が送り込まれてきたが、この人物はユダヤ人にあまり良い感情を持っていないようだった。
あらゆる作業には慣れていくしかなかった。屍体を触った手で食事をすることにも慣れた。
米軍の砲撃音が近くなると、火葬場の解体と、全囚人の行進が始まった。
著者らはうまく通常の囚人たちの列にまぎれこんだ。行進中、SSは「ゾンダーコマンドとして働いていたものはいるか」と叫び続けたが、だれも名乗り出なかった。出れば口封じのために殺害されることは明らかだったからだ。
かれらはオーストリアのマウトハウゼン(Mauthausen)収容所にたどりついた。それからメルク(Melk)、エベンゼー(Ebensee)と移っていった。
連帯(Solidarity)……連帯は存在しなかった。よっぽど余裕のあるときだけである。5、6人のグループ(知人、親類)でお互いに食糧などを分配しあった。孤立した人物はそれだけ死にやすかった。
米軍がやってくる直前にドイツ人たちは消えた。
乱暴や虐待をおこなっていたカポは、ほとんどが報復により殺害された。著者も、自分を半殺しにしたカポともみあいになり、ロシア人捕虜たちに引き渡した。このカポは撲殺された。
「解放」(The Liberation)……
米軍がユダヤ人や捕虜たちを管理するようになると、食事や医療が充実し始めた。しかし、食べ過ぎて死ぬ者や、力尽きて死ぬ者が大量発生した。囚人の半分以上がこの時期に死んだのではないかと推測している。
食糧や家畜を求めて近隣の村(オーストリア領)に行くと、人びとは元収容者たちをひどく恐れているようだった。
皆、生き残るために殺伐とした人格になり、粗暴になった。
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著者はゾンダーコマンドとしての体験を話したことがあったが、狂人扱いされたため以後口を閉ざした。90年代になり、ネオナチが問題になり始めたとき、歴史の証人として語り始めた。
家族にはいっさい話さないようにしていたという。
絶滅収容所……特に火葬場での体験は著者の人生を変えてしまった。かれは人間の通常の生活を営めなくなったという。
――心は常に収容所に戻っていく。
――だれも火葬場からは抜け出せない。
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付録
ユダヤ人虐殺の簡単な説明
1933~1939 帝国内のユダヤ人:差別から移送へ
1939~1941 戦争:ゲットー化と最終的解決(Endlosung)の決定
1941~1945 大量殺戮 ショアー(The Shoah)
ドイツ社会からの排除は、やがてアインザッツグルッペンによる大量殺人、T4作戦での安楽死方法を活用したガストラック(Gaswagen)(ヘウムノ(Chelmno)における)から、ラインハルト作戦に伴う本格的な絶滅収容所の運営、そしてアウシュヴィッツ=ビルケナウへの集約につながっていく。
KL:Konzentrationslager 収容所……ザクセンハウゼン(Sachsenhausen)、ブーヒェンヴァルト(Buchenwald)、フロッツェンビュルク(Flossenburg)、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック(Ravensbruck)など。
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イタリアとホロコーストとの関わりについて
ファシスト・イタリアはヒトラーとの協同姿勢を表明し、「われらの海」地中海を制圧するため、初めにアルバニア(1939年4月)、次にギリシア(1940年10月~翌年4月)を侵略した。
ところがムッソリーニの思惑と異なり、イタリア軍はギリシア相手に苦戦し、侵攻は失敗した。ここでドイツに頼ったことで、主導権を奪われる結果になった。
イタリアは、自国籍のユダヤ人をギリシアにおいて保護していた。しかし、1943年に降伏し、逆にドイツに敗退すると、かれらもホロコースト計画に巻き込まれた。
Inside the Gas Chambers: Eight Months in the Sonderkommando of Auschwitz (English Edition)
- 作者:Shlomo Venezia
- 出版社/メーカー: Polity
- 発売日: 2013/10/21
- メディア: Kindle版