◆ヤセノヴァツとは
著者のBergerはクロアチアのユダヤ人で、ヤセノヴァツ収容所の数少ない生き残りである。
第2次世界大戦中、ドイツはクロアチアに傀儡国家「クロアチア独立国」を作った。クロアチア独立国を運営したのは、ナチスと友好関係にあったファシズム・民族主義団体ウスタシャである。
ウスタシャが設置したヤセノヴァツ絶滅収容所では、推定70万人のユダヤ人、セルビア人、ジプシーや反体制派が殺害されたとされるが、著者はその中の数少ない生き残りである。
看守たちは残虐行為を行うが、アウシュヴィッツと同じく、敵軍が近づいてくると蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
***
1
著者は職場の工場で逮捕された後、ウスタシャに引き渡され、1941年9月にヤセノヴァツに到着した。
収容所の3つのバラックのうち2つはユダヤ人が、残り1つはセルビア人が押込められていた(他にもクロアチア人知識人や労働者たちがいた)。ノミたちは次々にやってくる新しい囚人に飛び移ってきた。
かれらは日々ダム建設に駆り出され、毎日多数の人間が死んだ。雨で床上浸水した後は屍体がバラックの外に流れていった。
ある日収容所所長Vjekoslav "Maks" Lubricがやってきて、囚人に対しスピーチを行い、収容所の状況を改善しヨーロッパで最良の労働キャンプにすると約束した。
老人と弱った者が新しいキャンプに移され治療されることになったが、ゲートが開いたとたんウスタシャ党員たちが銃床で殴りかかり、1600人のうち100名しか生き残らなかった。
犠牲者の脳みそが飛び出し、水面(浸水中だった)に浮かび、水の色は赤くなった。
毎日、労働と殴打が続いた。冬になると凍死者が続出した。
***
2
著者は自分の兄2人がまだ生きていることを確認しよろこんだ。
新しい所長とその兄弟、部下たちは真の殺人者であり、病気で動けないセルビア人の若者を上から下に切り裂きのどをかき切った。またトンネルの中で5人の正教徒神父をしばり、のどを切った。このときは12歳のウスタシャ構成員が神父の耳を切った。
となりの囚人が死ぬと、のみがいっせいに自分に移動してきた。
著者は拷問場所の墓堀りとして働かされ、多くの現場を目にした。
ウスタシャは残酷な拷問を競い合っていた。口に垂直の木杭をかませあごを銃床で殴り、杭が頭蓋骨を貫通して頭から飛び出すという方法を編み出したものが、将校から褒美のアルコールを受け取った。
絶えずやってくる新しい囚人のなかに、著者の父親と兄がいた。他の囚人たちは拷問殺害されたが、電気技師として働いていた著者が、思わず、助けてくれというと、ウスタシャたちは去っていった。
しかしその後、父は衰弱死し、病気になっていた兄は他の患者とまとめて斧で殺害された。
夜、小便しなければならないときはビンか食器に入れて床板に流した。
ドイツ軍がモスクワを撤退し、ソ連が解放しにくるといううわさが流れたが、その後、SSやイタリア軍などがやってきた。かれらは火葬施設を設置した。ウスタシャは本家ドイツよりも残虐で、生きたまま囚人を火葬施設に放り込んだ。
子供を放り投げて短刀にうまく突き刺さった者が勝つというゲームをウスタシャの将校たちが楽しんでいた。
3
コザラ(Kozara)へ:
皮革職人であると偽って申告していた著者は、コザラの職人収容所へ送られた。そこではキャンプよりはるかにまともな環境で生活することができた。それでも、職人たちの頭にあるのは飢えだけだった。
著者と同部屋の人間たちはお互いにパンを盗み合った。著者がパンを盗むのに感づいた男は、パンで尻をふいてその場に放置した。それでも著者はそのパンを食べた。
ジプシーたちは、はじめウスタシャの手先となり、なかにはウスタシャ将校になったものもいたが、最終的に収容所に連行され殺害の対象となった。
収容所や隣接キャンプでウスタシャによる殺戮が行われたとき、かれらは必ず屍体の顔をこわして金歯などを抜き取った。著者は、金歯などだれが買い取るのだろうとおもっていたが、この手記を書いている現在、そうした金歯・貴金属が教会に保管してあることが判明したという。
***
4
Gradina, Granikなど、ヤセノヴァツに隣接する収容所では常に大量殺害が行われていた。
パルチザン(ユーゴ人民軍)の航空機が頻繁に飛来し、またパルチザンがヤセノヴァツに近づいてくるにつれて、ウスタシャたちはそわそわとしだした。かれらは囚人の虐待をやめて、労働の監督もしなくなった。やがて著者たちは機会をうかがって脱走した。
ウスタシャはヤセノヴァツを放棄する際に、囚人たちを殺害し証拠を隠滅しようとした。
著者と、仲間のStojanは、森のなかに10日間ほどひそんだ後、ふたたびヤセノヴァツの近くにやってきた。そのときには既にパルチザンが地域を解放していたので、著者はよろこびながら町に戻っていった。
かれが知っていた住民のほとんどは死んでいた。
一方で、ウスタシャ構成員の親たちが、消えた住民の家で平然と過ごし、著者らに気さくに手を振った。
これを見て著者は、自分たちの体験は決して忘却されないと強く思った。