グロボクニクは、苦痛を訴えるシュタングルに対して、家族を連れてこさせたり、ルブリンで休養をとらせたりした。しかし、シュタングルは任務から解放されなかった。
続いてシュタングルはトレブリンカでの建設作業監督を命じられた。ここでも、トレブリンカが何をする施設かは伝えられなかった。
トレブリンカの施設概要:
死のキャンプ、受け入れキャンプ、生のキャンプ、SS(親衛隊)とウクライナ人エリアとに分かれている。
それぞれ、鉄条網で区分けされているが、この施設で働く人間は間違いなく、何が行われているか知っていたはずだ。
死のキャンプ(death camp):
ガス室、火葬場(鉄骨構造)(the roast used for burning experiments)、埋葬穴(burial pits)、死のキャンプで働くユダヤ人の棟
受け入れキャンプ(reception camp):
略奪品倉庫、偽の病院、輸送中死んだ者の穴
生のキャンプ:
脱衣エリア、労働ユダヤ人の棟、パン屋
SSとウクライナ人エリア:
SS居住棟、ポーランド人少女やウクライナ人少女の棟(売春婦、小間使い)、動物園、ユダヤ人鍛冶屋の作業場、ウクライナ人警備兵の棟、運動場、
居住エリアには床屋や歯医者も設置されていた。
比較的裕福な都市住民の多い西方ユダヤ人(西ヨーロッパにおいて社会と同化したユダヤ人)に対しては、移送の際、混乱を避けるため通常の労働施設をよそおった。
しかし、東方ユダヤ人(ユダヤ人農民集落出身が大半)の場合は、到着するとすぐに鞭をもったSSやウクライナ人が現れて、かれらを追い立てた。
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ポーランドにおける反セム主義(反ユダヤ主義)は、大きなタブーとなっている。しかし、トレブリンカのすぐ脇ではポーランド人農民たちが終日耕作していた。かれらは、当然何をやっているか知っていた。
死体焼却の臭いは周囲一帯に立ち込めていた。
列車の管理を担当していたポーランド人レジスタンスは、トレブリンカの運営について一部始終を記録し戦後公表した。
SSやドイツ人の妻はみな絶滅収容所について知ると、絶望した。しかし、何ができるわけでもないので、感情を失った自動人形のように生活を続けた。
ウクライナ人衛兵の残虐さは広く伝えられているが、シュタングルによれば、リトアニア人のほうがひどかった。かれらは楽しみながらユダヤ人を打ち殺した。
多くの職員は酒を飲んで仕事していた。
シュタングルによれば、かれは、トレブリンカの規律を立て直すために派遣されたという。かれはグロボクニクに対し、略奪品の扱いに不正があることを報告した。これは、金品の横流しのことである。
この点に関し、著者が「自ら、これは犯罪だ、と考えていたことに対して、自発的に協力したことにならないか」と質問したところ次のとおり回答した。
――わたしのやったことは、警察としての任務を果たすことだった。これはサバイバルであり、わたしは、良心の許す範囲に、わたしの業務を限定していくことに集中した。
いわく、犯罪が成立するには行為者、対象、行為、意志が必要である。政府は、ユダヤ人に対し、自らの意志で、ガス殺を実行した。ところが、「わたし」に関しては、意志(自由意志、自らの意志)がない。
よって、「わたし」は犯罪には加担していない。
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収容所責任者としての日課:
早朝、5000人程度のユダヤ人が送られてくる。かれらはウクライナ人らによって追い立てられ、衰弱者は射殺される。
午前のうちにユダヤ人は殺害される。午後から夜にかけて、時には深夜まで、死体を焼却し埋める作業が続く。
シュタングルは、そうしたルーチンが円滑に実施されているか、ときどき実際に監督した。しかし、死のキャンプにはほとんど近づかなかったという。かれにはたくさんのペーパーワークがあった。
シュタングルへのインタビューは、かれの二重性を浮き彫りにした。
あるとき、移送されてきたユダヤ人が、「リトアニア人が時計を盗んだ」と訴えた。
シュタングルはリトアニア人兵士たちを呼び、時計を盗んだものは名乗り出ろ、といった。しかし、盗んだのが将校かもしれないので、兵の前で犯人捜しをするのはよくないとも考えた。
かれはリトアニア人たちを一列に並べ、所持品検査を行った。しかし結局時計は見つからなかった。
著者は、訴え出たユダヤ人はどうなったのか、と尋ねた。シュタングルは言葉を濁したまま回答しなかった(実際には数時間後に殺害されているはずである)。
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労働ユダヤ人としてトレブリンカの全貌を知る、チェコ出身のリヒャルト・グラザー(Richard Glazar)の回想が紹介される。
トレブリンカ絶滅収容所には4つの時代があった。
・エベール博士による無秩序時代
・不安定かつ危険な時代
・シュタングルがやってきて、SSがユダヤ人労働力を効率的に活用しはじめた時代
・ドイツ敗北が近づき、SSたちが逃亡の準備を始めた時代
グラザーは労働委員に選ばれ、奇跡的に生き残り、また反乱に参加し逃げ出すことに成功した。
SSは互いに仲が悪く、自分たちのお気に入りの労働ユダヤ人を子分として使った。
健康そうな青年は、到着時にピックアップされ、労働を課された。残りの数千人は、数時間以内に殺害された。
いわく、生き延びるために必要だったのは。「生きるための才能(talent)、生への忠誠」だった。
生き延びるためには収容所システムを味方につけなければならない。しかし、完全にトレブリンカの現実を受け入れてもいけない。それは、道徳的、肉体的な敗北である。
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SSとウクライナ人の気まぐれで生き延びたユダヤ人たちがいた。
西ヨーロッパのユダヤ人は、その国の社会に同化し、高い地位を築いてきた者が多い。シュタングルは、ドイツ人よりドイツ人らしい、権威主義的なユダヤ人を移送時に見かけた。
このユダヤ人はSSに対し、私の所持品を責任をもって管理したまえ、と言いつけて施設に収容されていった。
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西方ユダヤ人と東方ユダヤ人とは、生活形態が全く別であるため対立していた。
トレブリンカ収容所到着時の混乱を避けるため、偽の駅舎や商店街を作った。
――「荷物cargo」、「かれらは荷物だった」
しかし、偽の駅舎を少し外れると、青黒い屍骸が無数に散らばっていた。
シュタングルは、収容所勤務を通じて、小さな善行と親切を積み重ねていった。
労働ユダヤ人は、処刑される移送者が到着するとよろこんだ。物品や食料が手に入ったからである。特に西方ユダヤ人は裕福だった。
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トレブリンカ反乱
1943.8
反乱によって設備が炎上した後も、ガス殺人は続けられた。しかし、まもなく施設は解体され、その跡地に農家がつくられた。ポーランド農民は、ドイツから金を受け取り、農業を続けた。これは偽装のためである。
シュタングルはその後、トレブリンカを去った。
鉄道管理に従事したポーランド人レジスタンスの証言によれば、最初から最後まで移送車両を点検する業務を担当した結果、殺害された総数は120万にのぼるという。公式には、90万人とされた。
SS隊員として死体焼却に従事した人物は、戦後逮捕された。隊員の息子は金に困り、元武装SS隊員の互助組織に相談したが、拒否された。
武装SS隊員互助組織は、SSを「純粋な戦闘部隊」として認識させるために活動していたので、収容所勤務者は排除された。
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シュタングルのインタビュー:
トレブリンカ閉鎖後、シュタングルらはトリエステに異動し、鉄道輸送の警備業務についた。かれによれば、当局は、死のキャンプに携わった隊員たちを危険任務に従事させることで、焼却(incinerate)したがっているようだった。
シュタングルの代行者はパルチザンの攻撃により死亡した。ヴィルトもパルチザンに殺害された。
ラインハルト作戦(絶滅収容所を含むユダヤ人虐殺作戦 ベウジェツ、トレブリンカ、ソビボルの運用、グロボクニク指揮)が終結した。
ドイツ敗戦によりシュタングルは米軍の捕虜となった。かれは安楽死施設の警備に携わっていたために訴追された。
米軍は、欧州の歴史や複雑な経緯をよく知らないままに占領行政を開始した。このため、時には被抑圧者:ユダヤ人やポーランド人よりも、ドイツ人に同情することがあった。
特に、オーストリアは、国を挙げて、「ドイツから解放された」ことを喧伝したため、その行状が見過ごされがちだった。シュタングルらも、占領された国民としてうまくごまかしたとのことである。
米軍からソビボル、トレブリンカについて何か調査されることはなかった。
かれは同僚のグスタフ・ワグナーとともにアルプスを越えてイタリアに逃亡した。
[つづく]