シュロス・ハルトハイム(Schloss Hartheim)安楽死施設の管理者、ソビボル(Sobibor)、トレブリンカ(Treblinka)絶滅収容所の所長を務めたフランツ・シュタングル(Franz Stangl)とのインタビューをまとめた本。
シュタングルは戦後逃亡し隠れていたが、1970年にドイツで訴追され、刑務所に収監されていた。
著者は、インタビューを通して、いかなる人間も外的環境と無縁ではないことを学んだ。
また、ヴァチカンとピウス12世がホロコーストに対して示した態度を、改めて指摘している。
◆所感
まったく予備知識がなかったので、極悪収容所長の自伝なのかとおもったが、インタビューから浮かび上がるのは、平均的な公務員、市民の姿である。
その他の訴追されたナチ戦犯と同じく、ホロコースト政策がなければ、大量殺人行為には加担しなかったのだろう、と思わせるような、平均的な常識と良心を持った人びとである。
つまり、聖人君子ではないが、悪人や異常者でもない人びとである。
本人からの陳述に併せて、家族や同僚、関係者にも聞き取りを行っている。本人の言葉は、自己弁護のための嘘なのか真実なのかはっきりしない箇所もある。
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フランツ・シュタングルは自分の経歴について説明する。かれは、元々ナチスに対して肩入れをしていなかった点を強調する。
インタビュー時、シュタングルはデュッセルドルフの刑務所におり、礼儀正しく大人しい囚人だった。
かれはオーストリアで生まれ、貧しい少年時代を過ごした。学歴の壁を感じたため、織物工をやめ、ウィーンの警察学校に入校した。
著者は、無秩序と犯罪・暴力にさいなまれていたオーストリア社会において「制服uniform」が持っていた魅力について指摘する。
機動隊への配属、手柄を立てて鷲(The Eagle)の勲章を授与されたこと、これにより、警察の花形であるCID(刑事課 Criminal Investigation Department)に進んだことを回想する。
当時は社会主義者、共産主義者、ナチ党が武装闘争を繰り広げており、かれは刑事としてこうした組織の動向を監視した。
シュタングルによれば、かれの人生が暗転したのは1938年のアンシュルスだった。
ナチ党は権力を掌握し、粛清を始めた。(警察官の功労賞である)鷲勲章をもらった他の数人が逮捕され、2人は射殺された。他にも、多くの幹部が逮捕・射殺されたという。
シュタングルは身の安全を確保するため、以前便宜を図ったナチ党員に頼んで、自分が非合法ナチ党員であったという過去を捏造した。
言葉のとおり党員経歴を捏造しただけなのか、それとも実際にナチ党員だったのか、事実は不明である。
かれはナチ党とドイツ人に嫌悪を抱き、妻との生活に生きる意味を見出していたが、職場環境は徐々に悪化していった。かれは熱心な信者でなかったが、上司にカトリックの棄教を強制された。
1940年に、シュロス・ハルトハイム安楽死施設での管理者業務を命じられた。
これについて、断れば命の保証がなかったこと、上司のドイツ人から逃げたかったこと、安楽死の是非については、医者が承認しており、また合法でもあることから同意したと弁解している。
著者は、ナチスの安楽死計画については、実施前にヴァチカンや聖職者のほとんどが知っており、また神学者のマイヤー教授は計画を弁護する論文を書いたことを指摘する。
1940年以降、ガーレンをはじめとする神父や司教が抗議の声をあげたが、それまでは、カトリック教会は、教皇ピウス12世(聖座、The Holy See)を筆頭に、安楽死計画を黙認していたのである。
1941年8月、ヒトラーが表向きのみT4作戦(安楽死作戦)を中止したとき、既に20万人以上の障害者が殺害されていた。
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安楽死施設の業務では、死亡証明書(death certificate)発行の仕事を主に担当した。著者によれば、障害者だけでなく政治犯も殺害されていたということを、シュタングルは知っていたはずである。
仕事については妻には何も話さず、業務内容も知らせなかった。
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T4作戦では、通常コネ、縁故によって職員が選ばれた。
火葬場を担当するには、クリスティアン・ヴィルトのように、強健そうなものが選ばれた。
アラース氏からの聴取によれば、T4要員のうち、1941年に東方に送られ、絶滅収容所に配置されたのは、一部であるという。
やはり、安楽死作戦から絶滅収容所への職員移動があったようだ。
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シュタングルはポーランドのルブリンに転属となり、ポーランド・ルブリン地区親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクと直接会った。
かれの任務は建前上、ソビボルにおける補給基地の建設だった。しかし、実態はユダヤ人を殺処分する絶滅収容所だった。
現場に到着し、死体の山の上に立つヴィルスを目撃し、絶望した。
シュタングルによれば、任務を拒否することはできなかった。
鍛冶として徴用されたユダヤ人少年によれば、シュタングルはとても親切であり、おだやかで、だれも傷つけなかった。シュタングルは少年を気に入り、よく仕事を見に来たという。
シュタングルは、いつも幸せそうな笑みを浮かべていた。
ヒムラーが視察に来るときは、皆緊張しており、ユダヤ人は姿を見せることを許されなかった
ソビボル絶滅収容所の運用について:
シュタングルらは、自分たちがどういう役職・「存在」だったか(=指揮官Kommandant)ではなく、些末な「行為」に執着する。
インタビューでは、自分が粗暴なふるまい、意地悪なふるまいをしなかったことを強調しがちである。
シュタングルの妻と子供たちは、ポーランド人の大家に家を借りて住んでいた。
ソビボルでの勤務が始まると間もなく、シュタングルの同僚がかれの妻にすべてを話してしまった。妻はシュタングルに詰め寄ったが、「自分は関与していない。わたしの業務は、純粋に行政的なものである(Purely Administrative)」と弁解した。
妻は敬虔なカトリックであり、絶望した。
ポーランド人の大家は、シュタングル氏は善良な人物だと慰めた。「わたしたちにいったい何ができるというのですか?」
1942.7には、連合国においてユダヤ人政策の実態が明らかになりつつあった。
ポーランド人レジスタンスの著書「the story of the secret state」は、ソビボル収容所について詳しく記載した貴重な体験録である。
絶滅収容所が運用されていたのは、ごく一時期であり、またその存在も秘匿されており、何より、生存者がほぼいない。
1942年は収容所運営のピークであり、年末までに100万人を超えるユダヤ人が殺害されていた。
[つづく]
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