うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『徳政令』笠松宏至

 歴史上、もっとも有名な法の1つである徳政令を中心に、中世の法と慣習を考える本。

 現代とはかけ離れた法の概念や、運用方法を知ることができる。

 

 

 ◆所感

・中世から、不動産トラブル、債権債務のトラブルは社会のなかで大きなウェイトを占めていた。

・中央権力によって公布される「中央法」の背後には、人びとのあいだで広く行われている慣習法の存在があった。幕府や朝廷はこうした慣習を無視することができず、時にはあえて否定し、克服しようとした。

鎌倉幕府の法運用は、今の基準に照らすとずさんだが、これが中央集権化されていない社会の特徴なのかもしれない。

 

 

 1 無名の法、有名の法

 中世の法律事情……御家人ですら、幕府の新しい律法事実を知らなかった。さらには、法文の内容を知るチャンスは皆無に等しく、大半の幕府法、公家法は社会的には無名だった。

 裁判所自体が、幕府の制定した法を知らず、訴える側が自分で、法の写しや文書を持ってこなければならなかった。

 鎌倉幕府の裁判:だれが御家人かもよくわかっていなかった。

 法律、行政文書は、幕府側には残っておらず、受取人の保存したものがある程度現存している。

 

 1297年、永仁の徳政令から50年後、法文の写しを百姓が東寺(荘園領主)に提示したが、この写しが現代まで保存されていた。ところが、この写しは、百姓たちに都合のいいように改変が施されていた。

 

 

 2 徳政令の出現

 

 ――……幕府法は、法の直接の対象である御家人も含めて、中世の大多数の人びとにとって、それは二重三重のベールの向こうの存在だった。まず、立法の事実そのものが伝わらない。何かの情報によってその存在を知っても、法理の正確な内容などはとうていわからない。

 

 「利倍法」の例:法の内容はあいまいで、裁判において何度も蒸し返されるが、だれも確証を持っていない。

 

 こうした中世法の状況のなかで、徳政令だけは、驚異的な早さで普及し、運用された。

 

 内容

 1条 越訴(おっそ、再審請求)の停止

 2条 今後の売買、質入れ禁止、既売買地を無償返却

 3条 今後は、債権者の訴えは幕府は関知しない

 

 ――では、買った所領を現実に知行できない、貸した金が返ってこない、そういってきても幕府の裁判機関は一切とりあげない、こういうことを法で決める実際的な効果はどうなのか。……実をいうと、私にもよくわからない。……中世の私的契約は、誰の力で、どのように保証されていたか、それがわからないからである。

 

 人質……人身売買は禁止されていたが、人間を質に入れることはよく行われていた。

 

 

 3 なぜ徳政令

 徳政令はその名と反対に、悪法、横暴の例とみなされてきた。ではなぜ「徳政」と呼ばれていたのか。

 折口信夫は、商返(あきかえし)、すべてを元に戻す習慣が、民衆のあいだで古くから定期的に行われてきたと指摘する。これが正しいのであれば、徳政は、はるかに古い起源をもつ、特異ではない行為であったはずだ。

 

 

 4 天下の大法

 世に広く知れ渡った法の例:「仏陀、人に返らず」

 

 一度、寺院に寄進された財産は取り返せない。

 三宝、寺から財物を奪うのは、大罪である。

 同じような法は神に対しても適用された……神明法と仏陀法。

 

 神の所有物と仏の所有物、すなわち仏物、神物は、神仏のものであって、僧や神官のものではない。実際には、僧が、寄進された仏物を私物化したり、勝手に処分したりする問題があった。

 寄進や出家は、中世には尊い行為、尊敬される行為だった。しかし、幕府や公権力は、所領や人に対するコントロールを維持するため、寄進・出家を規制しようと何度も試みている。

 一度、神、仏の所有物になってしまうと、権力側からの統制を離れてしまうからである。

 

 

 5 贈与と権力

 他人和与の法:「贈与」されたものは、取り返されない。

 この大法は、御成敗式目制定の際、問題となった。恩を忘れた御家人から、財産を没収することができなくなるからである。

 他人和与法と、仏陀法とは関連がある。寺院への寄進は贈与ととらえられる。

 悔返しの禁止:庶子分割

 「もどり」:本領は、優先的にとり戻すことができる。

 

 

 6 消された法

 北条氏に亡ぼされた安達泰盛は、その前年、1284年まで、精力的に政治改革を行っていた。かれは徳政、つまり迅速、公正な裁判制度を実現しようとした。

 元寇後の処理:神の力を称揚するため、特に九州を中心に、人物(人の所有物)となっていた財を神物、仏物に「もどす」よう沙汰があった。

 ものは甲乙人(無関係者、無資格者、もとは凡下の輩という意味)から、本来の主に戻らなければならない。

 

 ――……ものをほんらいあるべき界のうちに復帰させること、……甲乙人から器量の人に返すこと。これが所領政策上の徳政、いわゆる徳政令の本質であった……。

 

 

 7 前代未聞の御徳政

 弘安の公家法……路頭礼、書札礼について

 道端のあいさつや、書面の様式に、厳格な上下関係が適用されていた。弘安礼法は、礼の世界を国家により統制しようとするものである。

 永代職と遷代職の違い……永代は、世襲でその職を引き継げること、遷代は、その人物、代に限ること。

 

 

 8 人の煩い、国の利

 中世の寺院は、内部に主従関係があり、僧は財産として扱われた。

 神人(神社職員)の中には、借金の取り立て(寄沙汰)を請け負い、所領内に闖入し、強盗・殺人を行うものもいた。

 中世における債務トラブルは、鎌倉における裁判所の存在こそあったものの、自力での救済が原則だった。権力の及ばない地方では、神社や寺、荘園領主といった共同体権力に、解決を依頼することが多かった。

 

 

 9 徳政の思想

 兵庫県西宮市の荘園領主的存在だった広田神社に、神祇官から刑法が送られてきた(1263年)。

 残酷な慣習や、地頭による横暴に対して、合理的な刑罰を定めることを目的とするものだった。

 

 ――「夜田を刈る者」への「田舎の習」と同じように、撫民の法の立法者たちは、ここでも在地に息づいている先例・慣例を十分認識しつつ、あえてそれを否定しようと試みているのである。

 

 安達滅亡後、世間では徳政を求める声が盛り上がった。

 貞時による徳政:裁判の興行、所領の興行

 なぜ越訴を廃止するのかといえば、審議の迅速化のためである。

 

 

 10 新しい中世法

 徳政令の原文は、ほとんど普及しなかった。このため、本来の対象である御家人だけでなく、百姓ら甲乙人も、土地の取り戻しを訴え、(法の写しの書き換えなどにより)実現させた。

 

 徳政令はなぜ有名なのか……。

 

 ――有名ということは、多くの中世人が、この法に参加した、とも表現できる。法の誕生直後から、この法の名は全国に広まり、実際に多くの土地がもどされていった。

 

 

 普及の理由……天下の徳政が大望されていたこと、また、「中央の法」が生まれる時代にさしかかっていた。

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徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

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