メモ
ラインホルト・ニーバーは米国で有名な神学者であり、宗教とは遠いように思われる20世紀初頭デトロイトの工業地帯や、フォードのブラック労働者を相手に信仰を伝えようとした。
元米陸軍人の著作家アンドリュー・ベースヴィッチもニーバーの魅力を講演や著作で力説している。
1部 Leaves from the Notebook of a Tamed Cynic(冷笑家のノートから)
現代社会において教会が直面する諸問題を論じる。
アメリカ社会の中でニーバーが教区牧師として活動したときのエッセイである。1915年、ニーバーはデトロイトで牧師になった。当時のデトロイトは自動車産業が拡大し、様々な人種が入り乱れ、全米第4の都市でありながら様々な社会問題に悩まされていた。
聖職者には、神学の世界で研究に没頭するか、社会に飛び込み教区活動を行うか、主に2つの選択肢がある。
ニーバーは、キリスト教と対立する点の多いアメリカ社会において、布教活動を行うことにした。
牧師が日常の中で感じたことや細かな問題点が面白い。
- 教区の家庭がだれも教会にやってこない。各家庭を訪問するには勇気がいる。
- 預言者は自分が啓示を受けたときだけしゃべったが、牧師は毎週何かを説教しなければならない。
- ニーバーは第1次大戦について、ウィルソンの戦争目的に同意した。またドイツ系の出自ではあるが、ドイツ皇帝に対し何の思い入れもなかった。しかし、従軍牧師に対しては違和感を表明した。従軍牧師はキリスト教の神と、戦争の神との双方に忠誠を誓っている。戦争の神の象徴が、かれらの着用する軍服である。
- なぜ人びとは戦争に引きつけられるのだろうか。戦争は人生に単純さをもたらし、物理的な勇気が、世間のあらゆる面倒ごと・判断に優先する。しかしこの魅力は最終的には充足を与えてくれず、また命を犠牲にする。
- パリ講和会議におけるウィルソンの敗北について……現実は常に理想を圧倒する。しかし、理想は閉じ込められた状態のなかで挽回の機をうかがっている。
- 説教から政治的な言説を排除することはできない。あらゆる宗教的問題には倫理的な要素があり、倫理は政治的・経済的な要素を持つ。たとえ(社会的・経済的に成功した)「輝かしい」人びとを遠ざけるとしても、意図的に政治を排することはできない。
- 宗教活動を数字で計測するのは難しい。われわれは価値を世俗的な基準で判断しがちである。ある牧師の勤続年数を祝う際も、教区信徒の倍増やオルガンの更新、債務の返済が功績として述べられた。「四半期ごとの宗派ミーティングや、上司に対する営業成績統計の提示がないだけでもよしとすべしかもしれない」。
- 1923年になると、第1次世界大戦の意義の乏しさが明らかになりつつあった。それは邪悪が生んだ所業ではなく、無能な人間たちが危険で複雑な道具を振り回したためにおこった災厄である。
人間は意識的に社会の蛮行をなくそうとする、しかし一方でわれわれは無意識に、どんな原始社会よりも道徳と個人の価値の面から破壊的な文明を作り上げる。
- 特権、権力、分かりやすい成功は、人間の道徳を腐敗させる要因である。もし美徳を持てないならば、純粋無垢であるほうが、道徳的な欠落よりもましである。
- 演説の技術は諸刃の剣である。古代ギリシアでは、演説は半分の真実からできているといった。
- 愛を学び始めた信徒に対し、耳の痛い真実を話すのは苦しいことである。古来、預言者のほとんどが流浪の民であったのも納得がいく。
ゲーテは、良心は行為者よりも観察者に宿ると考えた。このことは、すべての説教者にあてはまる。かれらは道徳的に繊細だが、それはかれらが観察者であり、行動する人間ではないからである。
・複雑な文明社会においても、神秘・詩・崇拝といった要素は失われてはならない。イギリスの教会では、まだ預言的な調子で説教する文化が残っているようだ。
・聖職者であっても、虚栄心や慢心に容易にとりつかれる。
・高い年俸を提示すればよい牧師を採用できるだろうか。報酬の高騰は、本来の任務を阻害することになるのではないか。
わたしは将来の預言者が「わたしは損以外のすべてのことを思う(I count all things but loss)」という言葉で説教を始めないことを望む。
- これはピリピ人への書3-8において、「然り、我はわが主キリスト・イエスを知ることの優れたるために、凡ての物を損なりと思ひ、彼のために既に凡ての物を損せしが、之を塵芥のごとく思ふ」(I count all things as loss)と述べたことにちなむ。
- とある知人の話。「新しい説教者をやとったが、かれはすばらしい説教者に違いない。われわれはかれに1万ドル払っているのだから」
- 教会はアメリカ社会を統合する要素となる機会を失してしまった。いまは、単にいくつかのヨーロッパ文化を代表しているに過ぎない。われわれは社会や時代を作っているのでなく、ただ追いつこうとしているだけである。
- 我々を取り巻く工業社会は非倫理的で、国家は帝国主義的で、家族は解体されているといわれる。ではなぜ教会は具体的な方策をとろうとしないのか。われわれは倫理問題を検討する際に生じる論争を恐れ、感傷主義に陥っている。しかしこの論争は決して非倫理的ではない。
- 自動車工場の労働は過酷で、労働者たちは奴隷のように疲れ切っている。聖職者と教会は、こうした現実から目をそらすことで自分たちの威厳と平安を保っている。宗教がこうした問題に取り組むには何世代にもわたる努力と多くの殉教者が必要になるだろう。教会が少しでもこうした現実と向き合えば、恥ずかしくて消えたくなるだろう。
- たいていの場合欠けているのは善良な意志ではなく想像力である。できること、やるべきことをだれかが口にすれば、必ずそれを実行に移す人間がいる。
- ロサンゼルスはリタイヤした人々が多く、むなしい贅沢な生活を埋めるためか、汎神論的な新興宗教が流行っている。
- 人間の本性に基づく帝国主義的な傾向から社会を遠ざけるためには、常に社会の手続きやシステムを変えていくしかない。
- 聖職者は現実に向き合っていない。かれらは悔い改め(repentance)について十分に伝えておらず、人間の本質に関してあまりに楽天的である。かれらは、豊かで成功した人びとに対し、耳の痛い説教をすることができない。
- 勇気とはある価値観への厳格な献身をもって、他の価値観に対峙することである。
- 教会は個人的なふるまいや行為(喫煙や服装)に苦言を述べるだけで、非倫理的な現代生活そのものに対し口を出そうとしない。
- 宗教がもっとも強い力を持つとき、世論や人びとの承認は問題ではなくなる。そして宗教は多くの殉教者や英雄を生んだ。現代の教会にこうした勇気がみられることは稀である。
理想的な人物に憧れることは、かれをまねることにくらべればいかに簡単なことか。
- 子供たちとの授業にて……ある子どもは、いつも食べることが好きだといった。食べることがもう1つの神になっているのだろうか。わたしたちの社会は物質的・動物的満足を第一優先にしているが、それが長続きするものでないことを宗教が説得させるのは容易ではない。「パンのみにて生きるにあらず」をわれわれが知るには時間がかかる。
- 株価操縦で巨額の富を得ている実業者は、労働者の賃上げを拒否する一方、大金を教会などに寄付し善良なキリスト教徒を称している。かれがほんとうに自分を信徒だと信じているのか、それとも自分にまとわりつくうるさい蠅どもを黙らせるために寄付をおこなっているのかは不明である。
もしこの文明においてわれわれは幼子になれず神の国に入れないなら、ブルータスよ、その責任はわれわれ自身ではなくわれわれの運命にあるのだ。
これはシェイクスピアのジュリアス・シーザーをもじったものである。
- リベラル派……自由主義的な聖職者たちは得てして、社会を変えようとせず教会だけを変えようとする。
過去にたいする無知は、不完全さからの自由を保障しない。おそらく過去の過ちを繰り返す事態を招くだけである。
- 理性は、信仰(Faith)による均衡がなければ、すぐに文明を亡ぼしてしまうだろう。
- 哲学者はふつう預言者ではない。かれらはあまりに理性と(一方の)事実に重きをおいているからである。さらに聖職者が教会指導者として責任を負っていれば、預言者のように好きなように発言することは難しくなる。
- 正常(Sane)であることとキリスト教徒であることの両立は非常に困難である。しかし、アリストテレス的な思慮がなければ、キリスト教の教義は単なる禁欲主義に陥り、大きな社会のなかでは無用になってしまう。
- 現代アメリカ社会はまったくキリスト教的ではなく、そこにいかなる道徳的規制もない。もし教会が何もできないとすれば、残されたのはそうした文明が自壊するさまを目撃し証言するだけである。
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[つづく]
参考
the-cosmological-fort.hatenablog.com
the-cosmological-fort.hatenablog.com