うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Black Flags』Joby Warrick その1 ――イラクのアルカイダがISISに引き継がれるまで

ISIS(イスラム国)発祥の経緯をたどる調査の本。

前半はヨルダンの悪党ザルカウィイラクアルカイダを率いてテロを行うまで。後半は、壊滅したイラクアルカイダがシリア内戦を経て再び活性化し、ISISが誕生するまでをたどる。

 

◆所感

  • ヨルダン人のならず者ザルカウィが、ムジャヒディンから国際テロリストに変貌していく軌跡は、『The Looming Tower』などで描かれているビン・ラディンにも通じるものがある。

 

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  • イスラーム社会は、イスラエルとアラブの対立、過激な神学思想と世俗権力の対立、圧政と失業・貧困など、内部に様々な問題を抱えている。
  • ISISは、ザルカウィが率いたイラクアルカイダと、完全に地続きの組織である。停滞していたテロ集団だったイラクアルカイダは、米軍の撤退とシリアの崩壊を機に拡大を開始した。大人しい神学者だったバグダディを狂信者に変えたのは、米軍の侵略と収容所だった。
  • オバマ政権は就任後、シリアへの大使派遣を再開した。これは、アサド大統領の親欧米派・改革派としての行動を期待してのことだった。
  • シリアにおける民主化デモは当初、アラブの春に影響を受けた住民の自発的行動だった。アメリカは動向を見ていたが、アサドが暴力的鎮圧を始まると、オバマが「アサドは退陣すべき」と発言した。しかし具体的な支援は行わず、やがて過激派が反体制派を乗っ取った。
  • シリア情勢の悪化に際しては、アメリカの消極姿勢が際立っている。これは、巷にいわれる「アメリカの介入が泥沼を招いた」という状況とは反対である。
  • エピローグにおいて、レバノン人ジャーナリストRami Khouriは次のように指摘する。

 

アルカイダイスラム国を生んだ過激化の多くはアラブ諸国の牢獄において発生した。……アメリカ軍の航空機とアラブ諸国の監獄は、アルカイダイスラム国が蔓延するうえで致命的な支点だった。

 

  • アルカイダ構成員やムスリム同胞団といったテロ組織構成員の多くは、かつてエジプトなどの世俗政権によって弾圧され拷問を受けた者たちである。また米軍の収容所はバグダディや過激派たちにリクルート活動の場を提供した。

 


序章

2015年のヨルダンパイロット人質事件と、2005年アンマン自爆テロとの結びつきについて。

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イラクアルカイダザルカウィZarqawiはアンマン自爆テロを引き起こした。その10年後、ISISは、当該自爆テロ犯の生き残りサジド・リシャウィAl-Rishawi容疑者の引き渡しを要求した。

ja.wikipedia.org

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ザルカウィは元々ヨルダン出身の、高校を中退した無法者で、アフガン聖戦に参加後逮捕され、国外追放された。

2003年、突如アメリカがフセイン政権とザルカウィとを結びつけ(実際は、まったくの無関係)、再び有名になった。イラク戦争後、ザルカウィ率いるイラクアルカイダはインターネットを駆使しテロを繰り広げ、アメリカを泥沼に引きずり込んだ。

ザルカウィビンラディンとは異なり、即時イスラム国家の設立を主張していた。かれの率いる集団はシリアに逃れ、ISと名乗った。

2015年になり、「ザルカウィの子供たち」……ISISがヨルダンに牙をむいた。

 

1章 ザルカウィの出現

1

ザルカウィは1990年代、ヨルダン国内のジハード主義・テロリスト組織に属していた。

この組織は貧弱で、とある構成員はポルノ映画館を爆破しようとしたが上映に夢中になり自分の足だけを吹き飛ばした。

ザルカウィは無表情の、粗暴な人間として、組織のトップである導師Maqdisiを補佐した。

ザルカウィは厳格なリーダーとして囚人を統制する一方、母親と姉妹、仲間の病人には極度の親愛を見せた。特に、弱者に対する思いやりが非常に強く、仲間内で邪険に扱われがちな両足のない男(ポルノ映画館の失敗による)を日常的に手助けした。

 

2

1999年、ヨルダン国王フセイン1世が死亡し、軍人だった長男のアブドゥッラー2世が跡を継いだ。

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初代ヨルダン国王タラール1世はイスラエルパレスチナ人に暗殺され、フセイン1世は15回の暗殺危機に見舞われた。父フセイン1世はアラーの幸運に恵まれたのか、私生活でもヘリや戦闘機の操縦など危険なものを好んだ。

ヨルダンのハシーム家は代々メッカを守護してきた。第1次世界大戦ではアラブの反乱を主導したが、イギリスに裏切られ、ハシーム家にはヨルダン川東岸の砂漠……トランスヨルダンのみが与えられた。

建国以来、ジハード主義者やパレスチナゲリラなどの敵対者は、ヨルダン王国を西欧による分割統治の道具とみなし、テロや攻撃を繰り返してきた。

 

アブドゥッラー2世即位にともなう恩赦によって、ザルカウィらは釈放されてしまった。しかしザルカウィは、牢獄に残された仲間の様子を見に戻ってきていた。かれには強烈なリーダーシップがあったと刑務所の医官が回想している。

 

3

ヨルダン当局は当初、アフガンに行った義勇兵たちを反共の闘士、英米との協調者として見守っていた。ところが、かれらは帰ってくると狂信的イスラム主義者になっていた。

ザルカウィもかつては町の不良に過ぎなかったが、1994年に秘密警察が逮捕したときは、狂信者になっていた。

ザルカウィはジハード英雄になりたがっていた一方で、罪の意識にさいなまれていた。

また狂信者になってからも、未婚女性の家を訪問するなど不可解な行動があったため、監視していた秘密警察は、多重人格ではないかと疑った。

 

4

1999年、ザルカウィがヨルダンを一時出国した際、ビンラディンに会いにカンダハルに向かった。

当時FBIから指名手配されていたビンラディンは、代わりに部下のAl-adelを派遣した。

ザルカウィは、アルカイダに参加するにはあまりに頑固で自己主張が強かった。しかしAl-Adelは、レバント地方イスラエル、ヨルダン、パレスチナ)にアルカイダネットワークを構築する上で、ザルカウィが役に立つのではないかと考えた。

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ザルカウィアルカイダから資金援助を受け、アフガニスタン西部、イラン国境近くに軍事訓練キャンプを作った。

911に伴うアメリカの2001年アフガン侵攻では、ザルカウィのキャンプも標的となり、ザルカウィは負傷した。かれらはイランやイラク北部のクルド人地区に逃れた。

かれは現地の組織アンサール・アル・イスラームと協力しつつ、イラクアメリカとの戦場になるだろうと予言した。

https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/ME_N-africa/AI.html

 
5

2002年、おそらくザルカウィの指令により、アンマンでアメリカ人外交官が射殺された(ただしザルカウィ本人は否定している)。

イラク侵攻の口実を作るために躍起になっていたチェイニー副大統領らは、フセインアルカイダの結びつきがまだ見つかっていないために、CIAを突き上げていた。

ザルカウィを担当していたCIAの分析官Nada Bakosに対して、指揮系統に反してホワイトハウスから直接電話がかかってきた。

彼女が、ザルカウィアルカイダのメンバーではなく、フセインと連携してもいないと説明すると、相手は次のように言った。

 

だからなんだ? こいつらはみな同じ目標をもっている、だれが気にするものか。

 

フセインの世俗政権と、イスラム主義のアルカイダザルカウィとは本来天敵である。

ブッシュ政権イラク侵攻の理由を探していることは明白であり、そのためにザルカウィフセインが結びついている必要があった。

 

6

イラク北部に潜伏しているザルカウィの居場所を、CIAは完全に捕捉していた。その近くではイラクの情報機関も、ザルカウィとアンサール・アル・イスラームを監視していた。現地の工作員Faddisは爆撃を提案したが、イラク戦争を計画中のホワイトハウスはこれを却下した。

パウエル国務長官は、「イラク侵攻によりテロリストネットワークを根絶する」と国連で演説していた。ザルカウィのアジト爆撃は、この開戦根拠を崩すおそれがあった。

 

ブッシュと会談したヨルダン国王アブドゥッラー2世は、イラク戦争が深刻な混乱を引き起こすだろうと確信した。ブッシュは「わたしは在任中フセインから逃げたチキンだと思われたくない」と発言していた。

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7

フセイン政権がザルカウィをかくまっている、というパウエル国務長官のスピーチは、「クリーヴランド第23代合衆国大統領が、ジェロニモを西部でかくまっている」という言葉と同じくらい現実からかけ離れていた。

ブッシュ政権によるザルカウィ言及は、かれを無名のテロリストからグローバルジハードの英雄に変貌させた。無数の戦闘員が、ザルカウィを追ってアルカイダに加入した。

 

 

2章 イラク

8

Nada Bakosは占領下のバグダッドに派遣され、尋問を担当した。

ホワイトハウスは、存在しない証拠――大量破壊兵器アルカイダフセインの結びつき――を見つけようと躍起になっていた。

捕虜になったイラク情報機関の高官は、パレスチナのゲリラについては支援を自白したが、アルカイダザルカウィは全く関係がなく、むしろ敵対していたと供述した。
 

ヨルダン大使館の爆弾テロを皮切りに、バグダードは爆弾テロ(国連施設に対する)や狙撃、IED攻撃に見舞われ、治安が悪化していった。2003年8月には、ブッシュ政権の誰も予想しなかった程度まで事態が悪化していた。

ヨルダン大使館、国連施設、ナジャフNajafのシーア派モスク爆弾テロは、ザルカウィの組織による犯行だと判明した。フセイン政権が崩壊した後、ザルカウィの組織は突如勃興した。

ザルカウィのテロは、米軍統治に協力するアラブ諸国や国際機関を委縮させ、米軍を孤立させた上で、イラクの内戦を扇動するものだった。

ザルカウィによる犯行というCIAのレポートは政権にとって都合が悪かった。それは、イラク戦争が勝利とは程遠いことを意味した。

 

9

ブッシュ政権「反乱」insurgencyという言葉を使いたがらなかった。これはベトナム戦争を想起させ、またブッシュの勝利宣言を無効化するものだからだ。

攻撃の直前まで、イラクの警備について全く見積もりがされていなかった。

美術館や政府施設・武器庫掠奪に対し無関心・無力な米兵を見て、イラク人たちは疑いと不満を抱くようになった。このような不信の最大の原因は、イラク軍解体・バース党員の追放によるイラク行政・市民社会の機能停止にあった。

大量の軍人や兵士がアルカイダに流れ込んだ。

 

イラクは単なる石油の産地ではなく、古い部族によって構成される領域だった。スンニ派部族は、アメリカがシーア派アフマド・チャラビらをかつぎ、シーア派民兵の攻撃を黙認していることに失望した。占領後1年で米軍は部族からの信頼を失った。

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『中国共産党 支配者たちの秘密の世界』マクレガー ――中国の政治システムについて入門

 

 

フィナンシャル・タイムズの記者が中国共産党を分析する。本書は中国政府に対する楽観的な見方に疑問を呈している。

2010年に出版されたが今でもためにはなると思われる。

一時期、中国関連の本を色々と読んだがそれらも2000年代かそれ以前のものであり気が付けば時間がたったことに気が付いた。

 

 

中国は社会主義市場経済により発展したが、ロバート・サービスの評価基準を適用すれば、依然として強力な共産主義体制であることがわかる。

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すなわち、国家運営は共産党によって掌握されており、軍と公安があらゆる反体制的活動の芽をつむシステムである。共産党はこのような本質を努めて隠蔽し、資本主義国であるかのように装っている。

2000年代に入り、中国市場の潜在的な力が明らかになり、経済危機で西側諸国が苦境に陥ると、中国の態度は豹変した。

 

 

1 党と国家

中国を支配する9人の政治局常務委員は、皆エンジニア出身で、本業の傍ら党員政治家として出世してきた。出自は、貧乏出身だったり特権階級出身だったり様々である。

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常務委員や総書記選出のプロセスは不透明であり、個人個人が交渉や闘争を行う。

毛沢東鄧小平江沢民といった、パーソナリティや武勇伝をオープンにする指導者と異なり、胡錦涛は極力自分の個人情報を表に出さず、過去も公開させなかった。

これは、中国共産党が変容し、かつてのような独裁タイプが生き残れないようになっているからである。胡錦涛は、政治的な後ろ盾がないため慎重に出世競争を生き延びてきた。

 

中国共産党におけるエリートは、党の要職や党機関紙編集長、国有企業の社長など300名であり、かれらが国政を支配している。少数のエリートが支配するというレーニン主義の基本がいまも貫かれている。

政治局常務委員の任務は、通常の内閣とは異なる。かれらの任務は、党の支配強化と、中国の威信の強化である。

党は、あらゆる行政機関・軍を支配し、行政機関への人事権を握っている。

胡錦涛は、共産党総書記であると同時に、ランクの低い国家主席(行政職)を兼務している。

 

行政機関の役人たちは、党の内部組織の指示に従って政策を実行している。

かつてソ連研究(クレムリノロジー)が盛んで、ソ連社会がよく研究されていたのに対し、中国への関心は文化歴史・言語が主だった。中国の政治システムに関する研究は立ち遅れている。

近年の中国共産党は、自由主義的・民主主義的な用語を取り入れるようになり、経済発展の影に隠れるよう努めてきた。

 

党は法体系の外にあり、また法制度の隅々まで入り込んでいる。

法曹は、党、政府、国民、法律の順に忠誠を誓う。中国の裁判官トップ、最高人民法院院長は、安徽省の公安庁長官である。ところが、この最高人民法院院長よりも上の立場の人間がいる。かれは中央政治局常務委員の一人であり、党の中央政法委員会書記である。かれは政府の肩書を持たないが、中国の警察・法律・司法を管理監督している。

なぜこのような専制的な党が、経済発展と支配を達成できたのか?

 

それを可能にしたのは、この30年間共産党を率いたトップたちの才能といえる。かれらは古い共産主義のスタイルである独裁的な政権と政治制度を維持しながら、精神的支柱であったはずのイデオロギーという拘束衣を脱ぎ去ったのだ。同じ時期、党が一般国民の日常生活への干渉から手を引いたことも、中国社会に解放感を与えた。

 

党員は農民や労働者から富裕層や経済エリートに移行していき、共産党員であることは優秀な学生・ビジネスマンの証であると考えられるようになった。

党は、独裁や暴力的な弾圧はもはや通用しないと考えており、より巧妙に反体制派を抑圧するようになった。

イデオロギーを捨てた党は、正統性付与のために孔子や過去の皇帝といった文化的遺産を利用する。

党の現在の地位は、経済的な成功によるところが大きい。

 

 

2 党とビジネス

1989年の天安門事件による国際的な孤立の後、中国は岐路に立たされていた。陳元を代表とする新保守派は、共産党のコントロール化で市場経済を促進しようとする政策を打ち立てた。

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天安門事件後、鄧小平は政治部門を強化し、政治的な反体制派が生じないような監視統制システムを確立した。

 

経済に関しては規制を緩め、政治に関しては厳しく管理

 

朱鎔基は、国有企業のうち主要なものは国家で管理し、小規模なもの、効率の悪い者は海外に株式を売り出し、民間経営に任せ合理化を追求した。

この時はすでに金融業界や法規制の地方分権が進んでおり、中央政府がすぐに統制できる状態ではなかった。

90年代初頭の国有会社株式上場の際問題になったのは、党が影から企業活動を統制していることだった。しかし、やがて経営者と党との均衡に変化が生じた。いくつかの国有エネルギー会社(チャイナルコやシノペック等)は、国益や外交よりも、会社の利益を優先し、党が経営問題に極力関わらないことを望んだ。

 

シノペックは巨大国有企業でありながら党や政府からの評判が悪かった。この会社は、国内で石油を売ると安値で損をするため、意図的に工場を操業停止し、中国南部を石油不足に陥らせ、価格を釣り上げた。

 

 

3 党と人事

共産党織部は、党や政府の重要ポストの任命権を持っている。また党組織は極力人目に触れないように運営されている。

要職をめぐる舞台裏での抗争――コネ、高位高官による後ろ盾等――が中国政治の本質である。腐敗も多く、地方では党書記や組織部長が政府の役職を売って利益を稼いでいる。  

また、国有企業では、縁故主義ではなく能力主義を実現するため、若手をまず地方や問題を抱えた地域に送り、そこでの活動や学んだことを確認する。党の組織部は国有企業のトップに対する人事権を持っているが、地方の行政レベルに対する統制は困難が伴う。

地方政府は、許認可権を通じて地方企業を牛耳っており、中央政府の目も届かない。また、地方の党組織部は、官職を売買することで汚職を蔓延させている。その極端な例が黒竜江省である。

賄賂を受け取らない役職者は信用されず、部下たちは、賄賂を受け取ってくれる別の人間のために働くようになる。

 

腐敗なくして成功無しという考えは中国では普遍的なものである。

 

党と地方政府に汚職が蔓延する一方、国有企業にも問題が生じている。党での出世は賄賂やコネで決まるため、出世が望めない役人は自己利益の増大にのみ精を出すようになる。

国有企業の中堅幹部たちは、党の規制にしたがって出世を目指すよりも、ストックオプションを現金化することで利益を得ようとする。

企業が真に資本主義的になった場合、党の統制がきかなくなる。このことを党は懸念している。

 

 

4 党と軍隊

1989年の天安門事件は党と軍との関係に重要な亀裂を生じさせた。デモ隊に対する鎮圧命令を拒否した将官や部隊が複数存在した。党は、事件終息後、不服従の軍人や部隊を処分し、10万人以上の監視組織を設置した。

中国では、軍は党に忠誠を誓うことが求められ、中立的な軍というのは悪しき存在である。

軍が近代化するにつれて、優秀な人材を軍に集めるために、党は熱心に教育しなければならなくなった。しかし、軍は精強になると、党の意志を超えて強硬主義や好戦的な傾向を持ちつつある。

江沢民は当初、軍を掌握するために台湾強硬策をとった。

 

中国と台湾との関係は非常に複雑である。台湾は民主化するまで、中国と非常に似た政治体制だった。しかしいまは、国民党は共産党のような支配力をもっていない。

中国と台湾は経済、人員の面で密接に交流してきたが、強硬派は台湾を武力制圧すべきと主張してきた。実際には、江沢民時代には中国人民解放軍にそのような能力は備わっていなかった。

胡錦涛は、台湾問題に関して先延ばし政策をとった。台湾が完全独立しない限り、中国と台湾の関係が現状のままであることはほとんど問題にならない。「1つの中国」言説を徹底するのは、国内の軍や強硬派を抑え込むためである。

 

建国当初、軍は自ら事業や労働を行い、とくに石油開発は人民軍のある部隊が担当となった。改革開放が進むにつれて、軍を軍事に専念させるよう政策が移行し、現在は非常に近代的な軍になった。

 


5 党と腐敗

共産党が腐敗を根絶できないのは、その一党支配システムそのものに原因がある。

中央政府には中央政府規制委員会、各地方政府にその支部があり、腐敗や汚職を取り締まる機能を持つが、党員を取り締まるには、その党員の上級部署の許可が必要である。

このため、地方では腐敗はトップの意向で隠蔽される。また、規制委員会よりも強い権限をもつ中央政治局のメンバーが摘発されることは絶対にない。

上海は歴史的な商業都市のイメージとは異なり、共産中国の中では党と政府の主導で開発が進んできた。上海の建設ラッシュは、ほとんどが上海市や党、国有企業の推進によるものである。このため、汚職や腐敗がはびこり、その頂点には江沢民がいた。

江沢民が総書記を退いて胡錦涛が指揮を執った後も、江沢民は上海の手下たちに対し影響力を行使した。上海閥の腐敗取り締まりが始まったが、江沢民は訴追を逃れた。

共産党は腐敗を通じてその支配力を強化している。摘発され処刑されるのは、末端の人間に過ぎない。

 

6 党と地方

2008年の北京五輪開催直前、三鹿ミルクという大企業が毒入りミルク問題を隠蔽しようとした。これは、企業と地方政府によって被害や事件を隠蔽しよう等決定だった。

ところが三鹿と提携するニュージーランドの企業が自国政府に訴えたため、毒入りミルク問題が中国の中央政府に通報され、中央政府は企業と地方政府の担当者を処罰した。

中国では地方分権が経済成長の原動力となっており、同時に中央政府の統制が難しくなっている。

各地方は、お互いにライバル企業のように競い合い開発・拡大を進めている。

 

 

7 党と資本主義

中国共産党が経済発展に成功した鍵は、社会主義市場経済の問題を解決したことである。

 

党は、民間企業が国家に利益をもたらす限り、資本主義経済の基準からしても、とても尋常とは思われないほど企業を支援することになったのである。

 

党にとっての真の問題は、国内外の民間部門が政治的な対抗勢力になるかもしれないという脅威だった。

 

活発な民間経済だけが共産主義体制の破綻を防ぐということに、鄧小平がいち早く気づいたことは中国にとって幸運だった(その他の社会主義国家のほとんどはこのことに気づかず崩壊の道を進んでいった)

 

企業についての中国の法律は複雑であり、国有企業、国営企業、民間企業、有限会社等様々な区分が存在する。

直販企業……アムウェイなどのマルチ商法が中国で普及したが、当時迫害されていた法輪功の信徒が生計を立てるためにいっせいに会員になり、党・公安は問題視した。

民間企業や外資企業をコントロールするため、党は労働組合や監視機関を各企業に設置した。

 

 

8 党と歴史

毛沢東による大躍進運動と、3、4千万人の餓死者は、中国では現在でも抹殺された歴史である。

新華社通信の記者として党の監視役として勤務してきた楊氏は、天安門事件に失望し『墓碑』という大飢饉に関する報告書を出版した。本土では発禁になり、香港ではベストセラーになった。

楊氏は、中国国内にいるが、社会的に黙殺されている。

 

義和団事件は、外国勢力に対する反乱運動だが、義和団が外国人や外国人とかかわりのある中国人を虐殺した事実は、共産党によって公表を禁じられている。共産党は、党の成立以前の歴史もコントロールしている。

 

毛沢東はあまりに巨大であり、嘘で塗り固めるのは困難だった。このため鄧小平時代の「功績7割、罪業3割」が最終的評価として定着した。毛沢東を、4000万人を虐殺した20世紀の独裁者として否定することは、中国共産党の正統性自体を否定することになるだろう。

大躍進にともなう大量死は、天安門事件以上に党にとってタブーである。

 

しかし、反体制派やジャーナリストが容赦なく虐殺された過去と違い、共産党は以前よりも注意深く言論を封殺するようになってきている。

古参の革命家によれば、即刻拷問処刑が前より少なくなっただけで、それも進歩であるという。

 

 

参考:過去の本メモ

 

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『日本海軍400時間の証言』NHKスペシャル取材班――有名なサイコロ捏造シミュレーションもある

 

 

NHK取材班に、昭和館戸髙一成氏が提供した「海軍反省会」録音テープをもとに、戦争時の海軍首脳の実態を検討する本。

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1980年代から録音された当時の海軍参謀・エリートたちの懇談会は、それまで語られなかった海軍組織の問題などを明らかにするものだった。

 

元海軍士官たちの反省会を通じて、現代にも通じる組織の欠陥……「責任者のリーダーシップ欠如」、「身内をかばう性質」、「組織の無責任体質」を考える。

同名のドキュメンタリー(全3回)をより掘り下げた内容になっている。

 

 

 

 ***

1 資料発見

取材班が録音資料を集めた経緯について説明される。

海軍では陸軍以上に、兵学校での卒業年次と成績が重要だった。士官の絶対数が少なく、狭い舟に乗るため、人間関係が重視された。

テープに記録された座談会では、軍令部に所属する元参謀たちがテーマを決めて話し合っていたが、なぜ戦争を開始したのか、なぜ負けたのかということについてどこか他人事だった。

 

2 開戦 海軍あって国家なし

海軍軍令部第1部作戦課は、海軍の作戦計画を担当する中枢部署だったが、部員はわずか10人程度だった。作戦課に配属されるのは、士官学校をトップで卒業した優等生だけだった。かれらが開戦の真相を知っているはずだった。

 

反省会は東郷神社内の施設で、主に海兵50期代のOBらによって行われた。そのうちの佐薙元大佐(元空幕長)は、防衛庁戦史叢書に不満を抱いており、開戦経緯の真実を伝えたいと懇談の中で述べている。

統帥権の独立により、戦争計画や開戦の判断はただ天皇とそれを補佐する陸海軍にのみあり、内閣は埒外である。

 

当時の海軍首脳は次のような思考回路で開戦を決断していた。

  1. 陸軍は大陸で多くの死傷者を出しており撤退できない。
  2. もしアメリカの言いなりになれば陸軍の一部がクーデタをおこすだろう。
  3. 海軍は、規模の点から陸軍に対抗できないだろう。
  4. それなら開戦に反対して陸軍に鎮圧されるより、開戦したほうがいい。

 

(自存自衛やアジア開放が目的ではなかったのかときかれて)それだと非常に良いんですがね、そうじゃないから問題になってるんですよ

 

軍縮時代には、政府に属する海軍省の方が、軍令部よりも力を持っていた。参加者らによれば、軍令部総長伏見宮博恭王がつくと、規則改正で軍令部の権限を強めた。同時期に海軍省良識派が次々と辞めたという。博恭王は対米戦を指向していたが宮様に逆らうものはいなかった。

伏見宮総長の下で次長についていた高橋三吉は、海軍省の井上成美に対し、兵力量決定権限を軍令部に移す相互協定を結ぼうと動いた。

昭和天皇は海軍が、陸軍と同じようにコントロール不能に陥る状態を懸念したが、決裁は行った。その後伏見宮は艦隊条約を脱した。

 

反省会では、海軍省と軍令部の上層部で構成される第一委員会についても議論している。

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第一委員会は永野修身総長に対して対米開戦すべきの報告を挙げており、総長の意思決定に影響を与えたのではないかと考えられている。

第一委員会は、アメリカが対日石油禁輸措置を行った場合に開戦すべしと主張していたが、いざ南部仏印進駐でアメリカが激怒すると狼狽した。

海軍としては、予算のために対米開戦をしたいとうたっていたが、実際には長持しないのを知っていたので、開戦直前まで、本当にやるのかどうかもめていた。

対米戦・対米危機を根拠に予算を獲得するのが業務になっていた。

 

海軍は国防という本来の任務から乖離し、組織を肥大化させることが自己目的となっていた。まさしく、海軍あって国家なし、である。

 

対米戦に備えるという名目で軍備を拡張してきたので、今さら「戦争できない」とは言えない、これが軍令部の本音だった。

 

シミュレーションでサイコロ結果を捏造する神重徳の様子がここで語られている。

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開戦後も軍令部の定員は増やされず、少人数ですべての戦争指導をするはめになったが、当然手が回らなかった。真珠湾攻撃から半年後には海軍は不利な状況に陥った。

 

ミッドウェー海戦については、軍令部は反対したが、当時威光のあった連合艦隊山本五十六に押し切られたという。ミッドウェーの虚偽発表に関しては軍令部も加担した。

反省会メンバーは「われわれは本当は反対だった」とナチ戦犯裁判のような言葉を皆繰り返している。

 

あなたの話を聞いていると、あなたはこの戦は負けるんだと。それで誰かにいっとったと。誰にあなたはいっとったんですか。

 

いや、具申ということは海軍ではみんなやらんようにしておるから、誰にも具申することないですよ。

 

そうでしょうね、三代さん。いい考えだったんでしょうけども、おそらくそうだったんでしょう。残念でしたね。

 

 

3 特攻

特攻隊の悲劇は有名だが、特攻作戦の立案者や責任者がだれかは非常にあいまいではっきりしない。

水交会講演において元軍令部第一部長の中沢佑(たすく)が、特攻は中央では指示していないと話した。このことを反省会メンバーが批判した。

実際には、最初の特攻作戦が始まる前に大海指に基づいて人間魚雷回天の運用が指示されており、これを(大海指の発簡者たる)軍令部が知らないはずがなかった。

 

※ 大海指は、天皇から海軍への命令である大海令に基づく海軍の指示(リンクは参考)

www.jacar.archives.go.jp

 

中沢やその下の課長だった源田実、特攻兵器開発を指導した黒島亀人らは自らの責任を否定するか沈黙を保った。

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回天開発は現場の将校が発案したという逸話があるが、その前に黒島が開発の指示を出している。

 

海軍が本格的に特攻の効果や意義を分析した形跡は残っていない。海軍首脳は、特攻に対し崇拝か神頼みのような気分を抱いていたのではないか。

特攻による死者は5000人以上と推測されているが、いまだに正確な数は判明していない。

 

4 特攻その2

回天搭乗員の生き残りや、直掩として特攻隊員の爆死を見届けた人物への取材が紹介される。

 

軍令部は特攻を作戦の1つと認識していたが、敗戦後の東京裁判対策では、「特攻は現場の熱意に基づくもので中央の責任ではない」との想定問答集を作成している。

この作成者は反省会のメンバーの1人、三代元大佐である。

軍令部員の遺族への取材を通じて、責任回避やごまかしをしていた幹部たちも、自分がやましいことをしているという認識があったのだろうということが示唆されている。

 

5 裁判

東京裁判において海軍側の裁判対策を担当した豊田大佐の発言を中心に、海軍を含む戦争指導者たちの責任回避傾向を検討する。

東京裁判ニュルンベルク裁判と並び戦争指導者の罪を裁くという点で異質な戦争裁判だが、なぜ海軍がほぼ免責されたのかの研究は進んでこなかった。

豊田大佐は海軍省から命じられ東京裁判対策担当となった。その目的は、天皇と国家を保護すること、被害を最小限にすることだった。

海軍省の後継である第二復員省(二復)は、人事情報の提供などでGHQを補佐する立場だったが、陰で裁判対策を進めていた。

 

本書で問題になっている潜水艦事件とは、インド洋の潜水艦隊が商船を攻撃し乗組員を尋問し殺害した一連の事件を指す。これは、実際には軍令部の指示に基づいて行われたが、裁判では参謀らが偽証し潜水艦部隊の独断によるものとされた。

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またスラバヤ事件では艦隊側が責任を回避し陸上部隊に属していた大佐のみが処刑となった。これも、上を助け下を切り捨てる二復の方針が反映された結果だという。

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陸軍の人にいわせると、海軍というところは俘虜の取り扱い、思い切ったことをやるもんですなと言われてる。……いよいよ明日米軍が上陸するというので、これは、内部で反乱されては困るというので、俘虜を全部ですね、海岸に並べて、撃ち殺してしまったわけです。

 

えー、俘虜取り扱いに対する海軍側の感覚といいますか、あるいは、戦犯に対する証拠隠滅に対する、わたしもラバウルでも証拠隠滅を図ったんですけども、まあ、生き残りの人を全員殺害して証拠隠滅を図るといっても今のように2つとも生き残りの人が一人づつ出て、あの、証拠がばれてしまったという事件がありました。

 

反省会では、全員一致で天皇の戦争責任を否定している。

海軍の米内らは天皇免責のためにGHQに積極的に働きかけたが、GHQ側も、天皇を免責し統治を容易にするためには日本側が天皇無罪の弁を述べてくれれば助かると話していた。

 

 

 

 

 

『日本残酷物語4』 ――ニートになった旗本が強盗殺人犯になる

 

 

所感

  • 幕末から明治にかけての民衆には、正確な情報を知るすべがなく、デマや荒唐無稽な噂が大きな力を持った。また人びとは、今日からは想像もつかないほど暴力的である。
  • 社会が急激に変化することで、それまで通用していた職業や産業が消滅していく様子をたどっている。かれらはかつて存在し、いまは歴史のはざまに消えた人びとである。武士階級は没落し、また庄屋や名主の中でも地方で領主のような力をもっていた者たちが、徐々に村人から反抗され勢いを失っていく。
  • アイヌが土地や生業を奪われ、徐々に絶滅・同化させられていく過程が描かれる。
  • 移民は貧しい国家が必ず生み出す存在であり、かつて日本からも多くの移民が海外に向かった。そしてその多くは、あっせん業者にだまされて苛酷な労働をさせられ、また現地社会からは排斥された。
  • 明治時代のアメリカにおける日本人移民排斥は、多くの国や時代で行われてきた移民排斥運動とまったく同じ様子である。

 

1章 過渡期の混乱

1 庶民

明治維新は、正確な情報の得られない農民にとっては新しい災厄ととらえられた。

「新政府を運営するのは外国人であり、キリスト教を強制される」といううわさが流れた。また廃藩置県で藩主が東京に去ると、藩主からの涙金を庄屋が横領したといううわさもあった。

廃藩置県に合わせて広島では大規模な一揆が発生し多数の死傷者が出た。

各藩が劣悪貨幣や信用のない紙幣を作ったため民衆の不満がたまり、信州松代では藩機関が焼き討ちされた。

福岡では、デマを発端に竹槍騒動という大規模な騒乱がおこった。

徴兵が実はみせかけで、実際は外国人が人体から脂を絞り殺す策謀だといううわさが広まり一揆がおこった。血税一揆は各地で発生した。

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当時の農民には、洋式建築の学校、徴兵令、髪形服装の規制、「裸の禁止」などすべてが、国による統制と解釈された。

 

2 うばわれた山林

木曽(長野県)の木は品質が良いといわれていた。しかし、幕府・新政府が森林伐採を規制したため住民は困窮し、盗伐が行われた。

江戸時代には、山林の多くは無主無住の地とされ、山村の民は自由に出入りしていた。しかし新政府が官用地に指定するともはや住民は入れなくなった。

山林が国と大地主のものになると、林業労務者が生まれた。かれらは山奥で賭博や酒にひたりながら木を切り、またその子供は帯同であれば学校に通うことができなかった。

国有林関係の役人もまた山奥での仕事を強いられたため、絶望して退職をする「辞職峠」が全国に多く残っている。

山村の人びとの間では密造酒が盛んで、いろいろな隠し場所で酒を造った。

 

3 開化

黒船来航後の貿易開始によって、米価の値上がりや生糸・茶の値上がりが発生した。一方、絹織物産業は輸入により打撃を受けた。こうした状況で多くの商人が投機を行った。

戊辰戦争後の江戸は、多くの大名が屋敷を引き払い、子供たちと盗賊のたまり場となった。残った武家たちは呆然とし、一銭の収入にもならない商売をしようとしていた。

 

江戸のある問屋では、女主人が丁稚奉公と性交渉しテストした後、この若者を娘と結婚させる習慣だった。

 

没落した旗本の中には犯罪者になった者もいた。

 

 剣術のできるもので、強盗殺人を働くものもかなりいた。切ってやる、殺してやる、という腹立ちまぎれなニヒルな気持ちから出発して、それで天朝に逆らい、幕府の旧恩にこたえているような自己満足も感じていた。

 

かれらはしばしば、同じ武士出身の巡査と戦闘し、夜明けには屍体が転がっていた。

 

横浜の混血児:

  • 開国直後、外国人との交際は公娼のみが許可された。外国人と付き合う女はラシャメンと呼ばれる。ラシャとは羊であり、イギリス人が船に羊を持ち込んで犯すという風習から来たという説がある。
  • 外国人用売春婦が多く出現したが、齢をとったものは用がなくなったため、中国人商人によって異国にまとめて売られていった。
  • 混血児は忌み嫌われ捨てられた。堕胎や性病によって死ぬ「ラシャメン」が多く生まれた。また、ある4人の混血児は橋の建設の際人柱として生き埋めにされたという。

 

  ***

2章 ほろびゆくもの

1 町村

明治から日清・日露戦争期にかけて、筑豊地方では石炭運搬に川舟が使われた。その他河川の交通は全国でさかんだったが、鉄道建設が始まると、船頭、農村、問屋などが反対にまわった。

廃藩置県後、特に雄藩の武士は多くが東京に移住したため、城下町はさびれることが多かった。一万石、二万石の小規模城下町は跡形もなく消えて水田になることがあった。

 

時代の歯車はあくまでも非情であった。古い生産基盤と生産様式にのるものの存在はたやすくこれをゆるさずゆすぶりつづけ、やがては没落へ追い込んでいった。

 

2 流亡の邑

明治政府時代から、僻地に住む人々は軽視された。政府がかれらの後進性を指摘しても、その対策はとられなかった。

北陸山間部では雪崩が頻発し、そうした谷は「アシタニ」と名付けられている。大雪に見舞われた農家は家から出られなくなり、4カ月近く冬眠するようにじっと横になって過ごした。

 

村人を一番悲しませたのは、冬の間に子供を死なせることであった。……すでに冷たくなったものを、後始末のために、一日中雪の中を背負って歩かねばならぬほどむなしい悲しさはない。

 

雪崩は「アワ」とも呼ばれたが、これが襲いかかれば家がまるごとつぶれ中の住民は死んだ。

ダム建設のために補償金をもらい、大阪など都会に向かった村民の大半は、都会の空気で肺をやられ、また金品をずるがしこい人びとにだまし取られた。

ある村では、都会に出た人の大半が行方不明になった。

 

三陸地方は津波被害にたびたび見舞われた。津波襲来の知識がある者がいるといないとで、避難の速度、死者数に大きな違いが生じた。

明治29年三陸津波が発生したときは、政府の復興対策がほぼゼロだった。津波の直後は、波を警戒して内陸側に家を建てようという呼びかけがあったが、徐々に不便さから海岸に移動していき、数十年後に再び大きな被害を出した。

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和歌山の十津川流域はたびたび水害と土砂崩れに襲われたが、あまりに頻繁なので人びとは気にも留めなくなっていた。

食い詰めた十津川郷士たちは北海道に渡り、新十津川開拓を始めたが、多くは馴染めずに失敗し北海道内に四散した。

 

一部は郷里にもかえったが、多くは郷里にかえることを恥じた。十津川郷士として敗北の姿を郷里にさらしたくなかったのであろう。そうしてじつに移住者の6割が新十津川をはなれて道内各地を流浪した。この人びとを「十津川衆」といった。

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3 士族

初期の屯田兵は、困窮した士族が採用されることが多かった。かれらは開拓地で厳しい教練・訓練・警備や演習に従事しながら農作業に従事した。

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下級武士たちの多くは、北海道や福島など僻地の開拓要員として送り込まれた。これは、士族反乱が問題になったときにはかれらの雇用対策となった。

西南戦争後の士族反政府派は、板垣退助が率いる土佐愛国社に集結したとみられていた。

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4 アイヌ

近代以降、アイヌは和人に対したびたび反乱をおこしてきたが、鎮圧された。

明治維新後、アイヌは和人に騙されたり脅されたりして土地を追われ、また鮭や鹿の乱獲によってアイヌの狩猟業は立ちいかなくなった。

松浦武四郎アイヌの生活や和人とアイヌとの関係を記録したが、幕府はその出版を禁じた。

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旭川では、土人保護法に基づいてアイヌに一定の土地が与えられたが、役人や和人に騙されて困窮することになった。かれらは農業を知らなかったので、和人に開墾してもらい、小作権を設定され、名ばかりの所有権しか持てなかった。

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千島・樺太には漁労で生活するアイヌが生活していたが、日露両国が領土拡大を進めるとその影響を直接被った。

 

北千島に居住していたクリルアイヌは、日本政府の方針により全員が色丹島に移住させられた。色丹島には海獣がおらず、また農業の習慣もなかったため数年後には半数が病死した。

残ったアイヌも減り続け、第2次世界大戦が終わるとさらに色丹から根室に追い立てられた。

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樺太の日本側に住んでいたアイヌたちは、日本政府の以降で北海道中央部の江別太に移住させられ、炭鉱労働に従事させられることになった。この移住は脅迫をともなうものだった。

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こうして自然から離されてしまったアイヌたちは、賃金労働者として働くより途がなかった。しかも最下級の、もっとも危険な労働に……。

 

アイヌの若者の一部は、射撃の技術を生かしてオットセイ漁船等に乗り込んだ。

 

***

3章 流離

1 落伍

封建制時代の村共同体は、明治政府の政策……個人に対しての課税、職業選択の自由、個人の所有権……が広まるにつれて、崩壊していった。

 

村八分というと、すぐそれを封建的残存部分のように考えるむきがあるが、これはまちがっている。むしろ共同体的な部落から近代的な部落へとかわってゆく過程で生じたものである

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村八分は、独立農民が他の農民に対して合法的におこなう排除行為だった。

 

愛媛の山中のまずしい家などでは、大正時代までは女の子が生まれると赤飯をたいて祝った。成長してから売るとよい金になるからである。男の子ならば二、三男以下はただ同様に他の地方の者にくれてやった。

 

2 漁民

(略)

3 家

明治は多くの没落者、敗残者を生み、様々な犯罪者を世に放った。愛媛では村落を恐怖させる大泥棒の話がよくあった。

 

4 移民

1866年、慶応2年に幕府が海外渡航を解禁すると、江戸、神奈川、函館、長崎の奉行所で旅券発行が行われ、多くの日本人が海外に向かった。

明治元年にハワイに渡った移民は、明治維新の混乱のなか、旅券ももたされず、半ばだまされるように連れてこられた。かれらの多くは農民でなかったが、現地で甘藷栽培に従事しなければならなかった。賭博や喧嘩の好きな者が多く、他の移民たちは悩まされた。

移民総代表の牧野富三郎は、日本政府とハワイ政府に嘆願した結果、現地のアメリカ企業による待遇は大きく改善された。

 

www.aloha-program.com


ハワイでの生活も楽ではなかったが、日本のように上の身分の者に頭を下げる必要はなかった。

 

アメリカ東部に向かう日本人は多くの場合その地位も高く、境遇もめぐまれ、明治政府から留学を命ぜられた者や官費の旅行者が多かったが、西部に上陸してそこにおちついた者の大半は貧困のために本を捨てた者か、または難船して漂着したものであった。

 

……横浜はそこに集まってくる労働者や外人を相手の売春婦がぐんぐん増えていって、明治10年代には、3000人をこえるほどになったというが、そういう女たちが海のかなたへこぼれ出始めたのである。

 

売春婦の誘拐船や、密航で大量死する事件が頻発した。政府は国家建設に注力しており、生活の立ちいかない人びとが海外に多く流出した。

ハワイへの官約移民は希望者が多かったが、現地では日本人や東洋人は差別され、参政権を与えられなかった。また移民のなかにも無頼の徒が多く、ホノルルやヒロには賭博売春の黒社会が生まれた。

 

サンフランシスコに向かった移民も、排斥運動の標的になった。

 

移民の道は実にけわしかった。そこには、祖国の劣弱な姿がそのまま反映していたのである。

 

直接アメリカ大陸に向かう移民は、ハワイの契約移民とは異なり、資産を持っているものが多かった。

 

日本からやってくる移民の9割は「苦力のような下等労働者」であるとされ、明治初期から、中国人と合わせて蔑視や排斥運動は始まっていた。日清・日露戦争で日本が台頭すると、日本人への蔑視や危険視に変わった。

 

日本人は他の民族にくらべてアメリカに同化しがたく、危険な民族である。かれらは人種的に非常な誇りをもっており、その国家的観念をなくしようとは少しも考えず、アメリカへきたのは、かれらのほこる大和民族をこの地に扶植しようとするにある」

 

フランス領ニューカレドニアグアテマラなど、悪徳周旋業者に連れていかれた移民たちは過酷な労働を強制され、全滅した一団もあった。

沖縄は最貧県であり、1899年には、暴君といわれた奈良原知事の政治に苦しんでいた。沖縄出身のハワイ移民は、日本人からいじめを受けた。

 

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とりわけ沖縄の労働者にとって何よりも我慢ならなかったのは、同国人である日本人ルナ(労働者監督)の冷酷な仕打ちだった。……同じ日本人の労働者仲間でも「沖縄人」といって、言葉の通じない同国人を馬鹿にするむきがあった。

 

日露戦争前から、フィリピンにも大量の沖縄移民が渡航し、危険な道路工事や麻栽培に従事した。

 

つづく