鄧小平は四川省の生まれであり、生家は客家で、朱元璋の高級軍人を祖とする。フランスに留学し、帰国とともに共産党のたたかいに参加する。国共内戦のなかで鄧小平は頭角をあらわし、軍功をあげる。四九年の人民中国成立時には、毛沢東、劉少奇、周恩来、陳雲、朱徳につぐ第六位の実力を手に入れていた。
大躍進政策の失敗によって毛沢東と、劉少奇、鄧小平ら現実主義者の対立が明確になる。文革初期に鄧小平は失脚する。七一年林彪事件がおこり、毛沢東は文革の失敗を自覚する。陳毅将軍の葬式を経て毛と鄧小平は和解する。しかし四人組の工作により鄧小平は第一次天安門事件の首謀者とされ、ふたたび失脚する。毛沢東が死亡し華国鋒が後継者に指名される。華国鋒は四人組を逮捕し、鄧小平は復活する。やがて華国鋒ら毛沢東路線を退け、独自の鄧小平路線を確立する。
鄧小平は「四つの基本原則」で社会主義をあくまで保ちつつ経済発展をうながす政策をとった。開放政策とは4つの経済特区の設定と14の沿海都市開放である。深セン、珠海、スワトウ、アモイが経済特区に指定され、深センは香港に迫る発展をとげた。
期待される若手幹部に胡耀邦と趙紫陽がいたが、あいつぐ自由化運動にたいして鄧小平と対立したため失脚した。自由化運動、学生デモに対し対話路線をとろうとする胡耀邦、趙紫陽に対し、鄧小平や保守派はこれを動乱と定義することで鎮圧をはかった。
天安門事件はメディアによって世界的に有名となったが、大方の非難に反してその後の中国の発展は明らかである。鄧小平は、中国人の文化水準が低く、非識字人口が四分の一を占め、民度が低いことを理由に、普通選挙や議会制民主主義を否定した。いわく、半世紀後には普通選挙がはじまるだろう。
中国の経済発展と旧ソ連の迷走が際立つにつれて、鄧小平の評価は毛沢東にも迫る勢いだという。