うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『The case for literature』Gao XingJian

 高行健の活動は演劇が中心であり、これを読まないことには全貌を知ることができない。劇中で展開されているニーチェへの批判にとくに関心がある。

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 「主義のないことへの前説」では、"without isms"が何であり、何でないかを痴呆のように列挙している。主義をもたぬこと、とは教条ではなく、また虚無主義や虚空でもない。主義をもたぬことは個人の選択だが、かといって個人主義や個人の絶対性・至高性を説くものでもない。政治化された生活を中国で強いられた著者が、微小だが絶やしてはならない個人の自由を主張する。

 ノーベル賞受賞スピーチも、文学の力と価値を称揚するものであり、彼の批判する功利主義的社会、消費主義的社会の中からこれらの文芸賛歌に接すると、ずいぶんと隔たりを感じる。政治や社会思潮、功利主義市場経済、主義や預言から隔絶した、弱弱しい声でしかない「冷たい文学」(Cold Literature)こそ、彼が提唱するものである。現実にたいして直接的な力をもたぬ文学こそ、彼によれば芸術性を得ることができるという。

 文学は真実をもとめる。このような文学は政治からも市場からも独立していなければならない。著者はたとえば日記を書くが、これは彼が生きていくうえで、日記を書くことが必要だからである。そこには真実があり、また文学のはじまりでもある。

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 十九世紀、二〇世紀にかけて、文学は、それのあらわすものだけでなく、表しかた、つまり、ことばそのものにも目を向けるようになった。さまざまな文体実験や構造上の工夫、言葉あそびが発明されたが、そのなかのすぐれたものは、作家が自分の感覚や観念を表現するのにその方法が最適だった、というものである。やがて形式と言葉だけの文学は行き詰った。と高行健は考える。

 なにをあらわしたいかを持たないものが、言葉遊びをするだけでは文学は死んでしまう。

 プルーストやジョイス、カフカはことばの使い方によってそれぞれの感覚を表現した。高自身も、『霊山』のような構成は、彼の感覚をあらわすために不可欠だったと考えている。

 重要なことは、言葉あそびだけでなく言語そのものにも存在する。近代化運動以来、中国は漢語を西洋化しようと奮闘してきた。しかし、漢語は漢語であり、また西洋において発展した文学理論はおもに西洋言語を対象にしたものである。漢語が西洋言語の要素を消化吸収することと、漢語そのものが西洋化されてしまうことはまったく別である。漢語の特徴にこそ、高が自分を表現するにあたって不可欠な要素が備わっていたのだ。

 ドストエフスキーボードレールは、文学を道徳から解放した。中国は五四運動以来、文学を政治化しようと躍起になったが、いまやそうした時代はおわったと高は考える。イデオロギーや道徳、市場などの外的要素に従属せず、また言語のもつ伝統を生かし、作家の内側から生まれる感覚を表現するものこそ、彼が信じる文学である。

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 高行健は亡命作家だが、彼はエッセイのなかで、漂流をよいものと考えている。ジョイスが『ユリシーズ』を書いたとき、彼は故郷から離れており、二度と戻ることがなかった。ゴンブローヴィチが作品を書いたとき、彼はアメリカにいたが、故国のポーランドは彼の脳内に存在したのである。『霊山』などの小説を書いたことは、亡命中の彼の精神を修復しただけでない。中国から離れることで、自分のなかに宿る中国を表現することが可能になったのだ。

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 中国語が直観と詩に基づいており西洋語のように論理と規則に沿った発展をしなかったことを彼は欠陥とは考えない。作家は母国語の伝統を生かして文学をつくることができるはずである。

 中国語において、彼は現代において増大した多音節parasyllableよりも古典中国語に多い単音節monosyllableの語を重視する。方言もまた文学のことばになり得る。中国語は西洋語と異なり心理分析を得意としない。中国語は人物の行動を通して心理を表現する。

 彼はプルーストやジョイス、ウルフの「意識の流れ」を読み、中国語において意識を表現するにあたり「言語の流れ」を編み出し自分の作品に取り入れた。彼はまたことばの音楽性を重視する。音楽同様ことばは線の上に並べられる。

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 西洋と東洋の演劇を比較しつつ、流行や目新しさにとらわれない、表現内容を本位とした劇作を主張する。ベケットアルトーなど名前だけは知っている劇作家が多く登場する。

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 自身を観察するために、また自身と外界を区別して観察するために、また成熟するためには孤独が必要である。

 孤独は孤独にたいして耐性をつけるためにまた有用である。早急に決断を下す前に、孤独のなかで考えることが必要である。保守か革新か、革命か反動か、前か悪か、という二元論にすぐ飛び込む前に留保することで反省の余地が生まれる。孤独のなかで反省することは自由を意味する。

 

The Case for Literature

The Case for Literature